見出し画像

きょうかつの家#2「介護のはじまり」

ICU

一夜明け、新幹線に乗り込んだ。数時間後に病院の最寄り駅へ到着した私は、姉の元へと急いだ。
意識不明の姉は、手術などの施しようもなく、神に祈るしかないというやるせない状況が続いていたが、なんとか意識が回復したと、母よりLINEに知らせが入っていた。

駅から歩ける距離の病院。私は何日分かの大荷物を持ちながら、病室へ向かった。
ICUの入り口に両親と姉の娘2人が、疲れたような、不安なような、虚無感に駆られたような、そんな各々の面持ちで立っていた。

手を石鹸できれいに洗い、消毒をし、マスクを付け、姉のいるベッドへ向かう。ICUに入れる人数は一度に3人。15分だけ。
5人で入ることはできないため、3人と2人で分かれ、7.5分ずつ。めいっぱいの時間を使って姉に話しかけた。かろうじて意識を取り戻した姉は、私の事も理解できたようで、苦しそうに「おかえり…」とだけ言った。

フリーランスだった私は、ちょうどその頃仕事の空きができていたため、次の仕事が開始するまでの1週間、毎日両親と姪2人と代わる代わるで姉の病室へ足を運び、マッサージをしたり、音楽をかけたり、姉の脳の感覚を取り戻すためなのか何なのか、わけもわからず、とにかく思いつく限りの、ピントが合っているかどうかも分からないようなことを、片っ端からやっていた。

新型コロナウィルス

地元と自宅との往復を繰り替えす日々がしばらく続いていたが、それから年末年始にかけて、社会は不穏な空気に包まれていた。
ダイアモンド・プリンセス号で世界中で蔓延し始めていた「新型コロナウィルス」感染者が見つかったのだ。それからのニュースは、新型コロナウィルス関連の報道ばかりを流し続けた。

日本でも感染者が徐々に増えてきたころ、母と電話で「あんたが帰ってくるんは、もう少し変なウィルスが収まってきてからにしよう」と話しをした。

姉は倒れてから約半年後、実家に戻り、姪2人と高齢両親との在宅介護が生活が始まった。
コロナの影響で通常より帰宅の遅れた姉は、聞き取り辛いが、何度も繰り返せば何とか聞き取れる程度の話ができるようになっていた。
ビデオ通話で皆の協力を得ながら、姉と話をした。

「自宅に戻ってこれて良かったね!ねえちゃん!」
すると姉は、なんとかかんとか認識できる言葉を絞り出して
「もう、もっと早くに帰ってこれば良かったのに~!遅いのよ~!」
と答えた。確信は持てなかったが、何となくそれは、母への批判が含まれているように感じた。

その後、日本政府は緊急事態宣言と解除を繰り替えすも、コロナが収まることは無く、約2年の間、リスクの高い人間が3人も居る実家に、私は帰ることができなかった。


多発する不調・抑うつ

新型コロナが流行してから約1年。その年の春頃から、都心部では医療崩壊が起こり始めていた。入院のできないコロナ重傷者の自宅放置による死者数が爆増し、社会は陰鬱な雰囲気に満ち満ちていた。
外出できないストレスも重なってか、何もできない私は鬱状態になってしまった。こんな事で鬱になっている場合では無いことは分かっているのに。身体と心がうまくコントロールできない日々が続き、ヒーリングやカウンセリングなどでも改善しないため、診療内科を訪れた。「抑うつ状態」と診断された。

長雨が続いた6月末、相変わらず身動きが取れない状態でストレスが溜まっていたある夜更け2時ころ、何となく気持ちが悪くて目が覚め、携帯で時間を確認すると、焦点が定まらない。目の前がぐるぐると回転し、立つことも歩くこともできなかった。そのうちに酷い吐き気がこみ上げ、1時間近く嘔吐を繰り返すがいっこうに焦点を合わせることができず、吐き気も止まらない。
さらに、姉の脳梗塞の件も頭によぎり、得体の知れない恐怖が襲ってきた。夫は疲れて寝入っていたが、必死に状況を伝え、私は救急で運ばれた。

病院でCTを撮ったが、異常は無かった。
その後、耳鼻科を勧められ、ストレスによる眩暈と診断された。

7月になってやっと、徐々に都心の現役世代へのワクチンが打てる体制が整ってきた。予約はなかなか取れなかったが、10月には2回の接種が完了できそうだ。11月には実家に行けるかもしれない。それまでに何とか体調を整えておく必要がある。私は焦っていた。何もできていないことに、とても焦っていた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?