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最近ちょっと顔が良くなった話、美人を妬むのを止めた話。

最近、私の顔がちょっと良くなった。自分でかけた呪いを一つ解いたからだ。

10月の増税前、ふとメイクアップ欲が湧き上がり(めったにない)、どうせならと化粧品をいくつか買った。ウキウキしながらパッケージを開けて、使ってみる。おおーちゃんとした顔になった。…ふと、コツンとひっかかるものがある。これはなんだ…そういえば、昔こんなことを思っていた。「私がメイクで綺麗になってしまったら、本当の私を見て、がっかりされるに違いない。だから、ギャップがないようにしておこう。」

おおおおおお、私は確かにそう思った。そして決めた。本当の私にがっかりされて辛い気持ちになるくらいなら、最初からメイクで作り込まない。先に申告しておこう、と。その思想はすっかり忘れていたけれど、無意識の底に紛れもなく存在した。おおおおお、なんて自己肯定感の低さ。そう思った自分がかわいそうすぎる。こじらせすぎだ。ひどい。

私は親や親戚、まわりの大人に「かわいい」と特に褒めそやされたりしなかったので「かわいい」慣れしていなかったし、長女として「しっかりしている、役立つ」というアイデンティティで生きていこうと幼き日に決めたし、弟にお下がりを渡せるように女の子らしいかわいいものを選ばないできた。思春期に入る中学生になると皆と同じように『プチセブン』や『セブンティーン』のメイク特集を広げた。でもこれが全く参考にならなかった。私は一重である。雑誌に出ているサンプルはかわいい二重の女の子たちだ。全然参考にならねえ。一重や奥二重の例も申し訳程度に載っていることもあるけれど、二重と比べると、全然かわいくねえ。効果を感じられないものに人は労力を注がない。ちなみに謎のプライドがあったので、アイプチはしなかった。

同じ土俵に立てる気がしないので『CamCam』や『JJ』といった赤文字系雑誌はあきらめ、“個性的”というワードを頼りに『CUTiE』といった青文字系もしくは『装苑』といったモードやアートの方向に向かっていった。私はヨーロッパなど濃い顔圏に海外旅行に行くと、トイレの鏡で自分の顔の薄さに自分でも驚くくらいだが、言い換えればパリコレのアジア人モデル顔と言えなくもない。(ちなみに留学していた時に、赤いアイカラーで京劇風にメイクしていったらフランス人に褒められた)

自分かわいそうだな。相当やべえやつだな、というか、何という思い込みの呪いをかけていたんだろう。この話を友人にしたらドン引きしており、分かれた後に「大丈夫だよ…」という慰めのLINEが届いた。その引く気持ちわかるよ!私もびっくりするくらいだもの。ちなみに、ここに至る前、私はある人に美醜に関わる別の呪いを解いてもらったことがある。その話もついでにしよう。

その人は元同僚Aさん、ド美人である。オフィスに業者さんが入ったとき、彼女が横切るのに合わせて彼が首を左から右に動かすのを見たことがある。(マンガみたいだった。)彼女がエレベーターに乗れば話したこともない男性社員が自分のフロアのボタンを押してくれる。入社すれば別のフロアまで噂になるレベルで、他にも逸話はあるが個人が特定されそうなのでこのへんで。

私は美しい彼女が怖かった。「バカにされるんじゃないか、お近づきになんかなれるわけがない」と勝手に思い、さらに「というかあいつ性格悪いだろ」と思うことにした。美人で性格が良いなんてずるいし、容姿がとりわけて優れていない私には性格とまじめさしか取り柄がないのに、何一つ勝てないなんてつらすぎる。(別の友人が「美人は愛されて育ってきてるから、性格がいい」という説を展開した。今はその通りだと思っている。)

私たちはアシスタントという立場だったからか関わるようになり、仕事以外でも遊ぶようになり、一緒に舞台を見に行くようになったりした。その中で、美人はすごく妬まれることや、美人でも色々な悩みがあることを知った。彼女も同じ人間だったのだ。

ある時私はAさんに言ってみた。「私は美人は性格が悪いと思って、Aさんのことも性格が悪いと思っていたよ」と。彼女はこういった。「そういう風に思われることが嫌で、外見だけでなく中身も磨いたんだよ」…ぐうの音も出なかった。それから私は美人を妬むのを止めた。美人を妬む限り、美人にはなれない。自分がそうなったら批判される対象になってしまうから。私の1つめの呪いは、心まで美しい美女によって解かれた。あんなに妬んで、憎んで、疎ましく、羨ましかった美女によって。

というように、呪いとも言えるこじれた思いは時々ひょんなことから成仏する。きっと、まだまだまだまだまだたくさんあるだろう。

#エッセイ #メイク #自己肯定感 #美人  #君のことばに救われた

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