怪談10夜#➉「手の中の顔」

やっとかけました。いや遅いこと遅いこと。
ではどうぞ。
あとがきはまた次回に。


樋口宗十郎は、畳に胡坐をかいたままため息をつき、また目を閉じた。憤りと悲しみがまざった沼が、体の中に淀んでいるのを感じる。

「みずえ……」十日前にこの世を去った妻の名を呼ぶ。もう涙は出なかった。そのことが、宗十郎の悲しみをより深めた。流す涙すら、おれには尽きてしまったのか。

 宗十郎は、元は東北の小さな藩の藩士であった。十年前、跡継ぎをめぐる騒動が起こり、剣の腕の冴える宗十郎は、それに巻き込まれた。
 任務で江戸に遣わされたが、宗十郎が江戸についた直後に、跡継ぎ騒動はあっけなく終った。先の副将軍の意向が絡んで藩の大改革が行われ、宗十郎の派閥も敵側も、共倒れになったのだ。

 帰っても居場所はない。宗十郎は浪人として江戸に住まうことになった。

剣を頼みに、用心棒稼業に精を出したが、五年前に大けがを負った。死の際に追い詰められた宗十郎を救ったのが、父の伴次と八百屋を切り盛りしていた、みずえだった。
 親娘との出会いに、宗十郎は荒んだ心が洗われてゆくように感じた。面倒をかけた礼に、みずえに読み書きを教えた。それに感心した伴次は、宗十郎に手習い小屋を開くことを勧めた。

 二年前に、二人は祝言を挙げた。もうこの江戸で、手習いの先生として生きてゆくのだ。自分にはみずえがいる。長女のさくらが生まれて、親子三人と伴次と、穏やかに生きていけるか、そう思っていた矢先に、みずえがはやり風邪で亡くなったのだった。

 一歳になったばかりのさくらは、みずえが亡くなった次の日に、高熱を出した。伴次は慌てて医者を呼び、商売仲間の家を頼って、さくらを連れて出て行ってしまった。

 客あしらいは伴次も顔負けだった。書いた字を褒めると、目を輝かせて喜んでいた。みずえと過ごした年月は、暖かさに彩られていた。そのぬくもりが、少しずつ冷えていく。宗十郎はその冷たさに、なすすべもなかった。

どんどん。どんどん。

 誰かが戸を叩く音がする。「構わんでくれ」そう言ったつもりだったが、ひび割れた唇から出した声は、嫌なにおいの息にしかならなかった。しかし戸は強引に引きあけられた。

「戻ったぜ。なんだよ?寝てたのか?」

伴次だった。左腕に、むつきにくるまれたさくらを抱いている。さくらは気持ちよさそうに眠っていた。

「伴次さんか……」
「ソウジよう。いい加減にしてくれ。とっつぁんでいいんだ。さくらの熱がやっと下がってな。お医者ももう大丈夫だ、って言ってくれたんでな」
 幾分怒ってるような伴次の口調は、常の活気を取り戻していた。しかし、今の宗十郎には、それがうとましく感じられた。
「伴次さん、今後のことだがな」
「おう。それよ。なっちまったものは仕方がねえ。しかしな、俺たちでさくらを幸せにするのがみずえの供養になるんだ。へっ。俺の仲間のカカア連中がよ、アテにしていいんだって言ってたぜ?なんとかならあな?」
「……そうか。なら、その人たちに、さくらのことを頼めるだろうか」
「はあ?なんだ?どういうこったよ」
「みずえを死なせたうえ、さくらまで不幸せにすることはできん。私には子供など育てられん。信のおけるひとにさくらを頼みたいのだ。もちろん、金なら工面する」
「ソウジ……かつごうってんならおことわりだぜ?」
「冗談ではない。本気で……」

 宗十郎がそこまで言ったと同時に、頬が熱くなった。殴られた、とわかった次に、強く震えた伴次の腕が、宗十郎の襟元をしめあげる。
「どのクチで言ってんだ!てめえ、さくらの親だろうが!見捨てんのか?」
「そんなつもりはない!ただ、よき父親にはなれないと言ってるんだ!」
「うるせえ!おめえはもうさくらのとっつぁんなんだよ!よき父親になれない?馬鹿野郎!生きてるんだったらそばにいやがれ!」 

 伴次の両手をおさえた宗十郎の手の甲に涙が零れ落ちる。いつの間にか、畳に寝かされたさくらが、ううう、とむずかりはじめた。宗十郎は、さくらが右手を固く握りしめているのに気づいた。こんな時なのに、なぜそれが気にかかるのだろう。伴次をやりすごし、宗十郎はさくらを抱きあげてみた。さくらは抱かれると、笑うような声をあげて、握りしめた右手を、ぱっと開いた。
「これは……」
 手のひらに、人の顔のような模様があった。指が食い込んであざになったのだろうか。その模様はみずえの顔にとても似ていた。
 嗚咽していた伴次が、宗十郎の肩越しに、のぞき込んだ。
「これ……みずえの顔に見えらあ……医者に行った時から、ずっと右手を閉じたままだったんだ。どうしても開かなかった。変だと思ってたんだが……」 
「笑っておる、な」 

 それだけ言うのがやっとだった。みずえは、おれとさくらを見守ってくれているのだ。笑うとなくなる、細い目の笑顔で。
すまなかった、悪かった。さくらに頬ずりしながら、宗十郎は泣きじゃくった。最初は笑っていたさくらだったが、また泣き出した。
「ソウジ、みっともねえなあ。ヒゲをそろうぜ」
伴次が笑いながらそう言っても、まだ宗十郎は泣き続けた。
 (終わり)


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