なぜ人を殺してはいけないか。なぜ生まれたのか。福祉、宗教、哲学を交えて

なぜ人を殺してはいけないのか。なぜ、自傷行為はいけないのか。なぜ自殺を選んではいけないのか。
 
大学での福祉の学びの先で児童養護施設などの活動に従事している。その中で沢山の事情を抱える子供たちを目の当たりにしてきた。彼女らには一切常識は通用しない。自傷行為を繰り返す子供たち。「大丈夫?」「かわいそう」「親がかわいそうだよ」そういう声掛けは一切の力を持たず、その心には何も及ぼすことができない。
 
元々、このような問いに興味があって、自分自身も長く問い続けてきたのだが、この仕事を通して改めて考えるようになった。
親と離別していたり、ひどい虐待を受けてきた子供たち。比べるものでもないし、私が抱いた「死んでしまいたい」という思いも確かに存在していたのだけれど、また視野が大きく変えさせられた。
 
このタイミングで手にしていたのが森岡正博さんと山折哲雄さん著作の「救いとは何か」である。
この本を一つの支えとして考えを深めてみた。
 
そもそも「殺してはいけない」とものは宗教の共同体を保ち続ける為に戒律として生まれた。
「殺してはいけない」という考え方を根付かせるには、ただ宗教維持の為のみで示すと広く受け入れられないゆえに、1人1人の人間に内面化していく必要がある。
ただ、そもそも出発時点で倫理的な面は有していないのだから、矛盾を孕んでいて「殺してはいけない」ということを本当の意味で実践することはできない。でも、その考え方は疑問を抱かないほどに浸透し、長い年月守られ続けている。
神という存在が超越した立場にあったからこそ、その矛盾もかろうじて受け入れられていたけど、近代になると宗教の力、神の力が強さを持たなくなってきている。若者の中でそういう問いにぶち当たるケースが多くあるという。
 
罰がなくなったとしたら、殺すことは躊躇なく行われるのだろうか。
これは以前思考していた偏見についての問いと通じてくる。
押しつけられているから、身動きを取れていないだけなのか、それとも自らの意志でとどまっているのか。
そしてもう一つ、そもそも「止まっている」とう自覚はあるのか。
ただなんとなく殺していないのか、そこに意志や確固たる理由はあるのか。
そう考えるとただなんとなく殺さずにいる人は私も含めて沢山いるような気がしている。
 
ルールだから、罰せられるから、そういう理由でとどまるのではなく、自分の内側から留まるべき理由を見出せる人でありたいし。
その確かな輪郭がなかなか見つけられなくても、疑問を抱き、理由を探す努力を続けられる人でいたいと思う。
法律、規則、自覚がなくとも、そういう沢山のルールに守られて生きているのだということ。
法律1つ1つにそれが生まれた経緯があって、作られた切っ掛けがあって、でも矛盾や綻びも有していて、そこで傷つき見捨てらえている人々も確かに存在しているということ。法律を学ぶのも面白そう、と感じている。
上司と知識と実践について話していた。
社会の制度を知っていることって凄く大切だと思いに至った。弱い立場にいる子供たちを守る大きな力になるから。使う使わないの選択をするためにはまずは知っていないといけないから。その岐路にすらたどり着けていない選択肢が乏しい人たちが本当に沢山いる。福祉の制度も知りたいと思う。
何か小さな切っ掛け、小さなはずみで「当たり前」「普通」という枠組みの中から一歩外に出てしまうと、その事柄の不安定さ危うさに気づく。もう後戻りはできない。納得しきることはできない。
 
 
宗教が力を失いつつある今、「個人」としての意見が全ての指標になりうる。
その割に、“教わる”機会はすぐに失われるという現状。
自分に教え、律し、学ばせ、育む意志が必要になるということ。
「なぜ、人を殺してはいけないとされているのか」「自殺は良くないとされているのか」「なぜ生き続けなくてはならないのか」そういう問いを持たない人も多いというし、なかったことのように立ちどまることをせずに進んでいける人も多いという。
でも、その問いに自分が躓いてしまったり、身近な人に問われたとき、自分の言葉をすくい取れれる人でありたいと思う。
 
プラグマティズムという思想の存在を思い出す。
プラグマティズムはこの世界に「絶対に正しい真理」なんてものはない、という考え方であり、「正解はない」とするもので、ある書籍でその存在を知り感銘を受けた。「正解」がないからといって、何をしてもいい、どう考えてもいい、というわけではなく、考えのよりどころを「自分の経験」とする。
もちろん自分が正しいわけでも、自分の経験が一番大切なもの、とするわけではなく、どんなこともそこを出発点として考えていくしかない。仮に自分に知識も経験も乏しくあろうとも、そこからスタートすべきで、そこから学び行動する意欲が湧いてくるというも考え方だ。
 
宗教とか、法律とか、そういう知識を集めるという行為も面白く広がりを感じることができるが、難しく考えたり、遠くに答えを探そうとすると同時に「自分はどう思うか」を問うてみる。その1ステップを挟んでみる。自分の内側を覗いて「自分にとっての答え」を取り出してみる。
 
なぜ、人を殺してはいけないのか。
私は他人の人生を私の手で、私の決断で終わらせてはいけないと思う。
その気持ちが沸き上がってしまうほどの辛い何かを受け取ったということは確かで、そこから離れ、逃げる勇気と財力をもっていたいと思う。まずは離れる。遠ざける。他の方法を考える。
殺してしまったら、自分自身も必ずそれと同等、もしくは大きな何らかの罰を受けると思う。自分は幸せでいるべき存在だと、私は信じているから、その選択は自らを不幸にするものだと思う。これは偽善的で綺麗事かもしれないけれど、自分以外の全ての人も幸せであるはずだと思っている。だから、辛く痛い思いをさせてきた人に対しても辛く痛い思いをさせる「殺す」という行為はしてはいけないと思う。人を殺めてしまいたいと思ってしまうほどの思考に行ったってしまっているということは、もう思考が停止してしまっている状況で閉ざされ頑なになってしまっていると思う。だからこそ、そういう自分を救うために、今、ある程度心身ともに「大丈夫」なときに武器となりうる材料を蓄える必要があるのかもしれない。例えば、素敵な思いでを作る。本を読んで思考の幅を広げておく。この人に好かれていたいと思え人との関係を育んでおく。もう一度見に来たいと思える景色を見に行く。「人を殺さない為」とそう意識するというのは極端な思考なのかもしれないけれど、以外とそういうものが最後の最後繋ぎとめてくれる存在になると思っている。「思い出」って想像以上に強い力をもっていると思う。そう意識しなくとも、素敵な思い出をいつでも前のめりで迎えに行きたいと思うし、どんどん自ら飛び込んでいきたいと思う。
「夜と霧」「それいゆ」
“「なぜ人を殺してはいけないのかという問いの裏側には「どうして生きていなければいけないのか、生きている意味がないなら、死んでしまっても構わないし、誰を殺そうが構わないはず」という深いニヒリズム(=虚無主義・今生きている世界、特に過去および現在における人間の存在には意義、目的、理解できるような真理、本日的な価値などがないとする哲学的な立場)の問題がある。”
(?ニヒリズムについて調べてみる)
どうして生きていなければならないのか。私は反出生主義に頷ける部分が多く、生まれたのは親のエゴに過ぎないと思ってしまっている自分がいる。18歳、20歳になったら「大人」という枠組みに放り投げられて全ての責任を負わされる。あまりに怖くて苦しくて理不尽でおかしなことだと思う。ずっとずっと思い続けている。でも、だったら、せっかくなら幸せに生き抜いてやりたいと思う。好きやときめきや素敵を集めて集めて幸せにしてあげたい。そんな軽やかな諦めからの決断。こんな私でも生きていて「幸せだな」って思える瞬間に沢山出会ってきた。そういうものとなるべくたくさん出会うために生きているのだと思う。
友達は無理して作る必要はないと思うけど、必ず心地よい居場所はどこかにあると思っていて、それを信じる姿勢を忘れずにいたいと思っている。また、関係の形も本当に様々だと思っていて、毎日会わなくても、年に一回でも、電話だけでも、手紙のやり取りだけでも、もはやそれくらいの距離感が一番しっくりくる可能性もあるということを忘れずにいたい。それも試行錯誤して探していけたらいいと思う。いろんなことに頑なになりすぎないこと。
「人を殺すという仕方で、最終的に他者と関わろうとしている。」「誰ともつながりを持てず、見向きもされず、本当に孤独な状況に追い詰められた結果、ゆがんだ形で他者とのつながりを求めている。それは人を殺すという形をとってしまうわけですが、最後の最後で「一人」を脱しようとしている。」とても恐ろしいこと。人はひとりでは生きていけないということ。自分も他者との関りを得意と思っていないからこそ凄く不安で深く考えさせられる。上手く関わりを築けないその先が、悍ましい事件のきっかけになりうると考える決して他人事ではなくてとどこまでも自分の繋がっていくような気がしてしまう。歪みは急にあらわになるのではなく、小さな小さな積み重なりなのだと思う。ゆがんでしまうことなんで誰にでもあることで、同じように矯正し優しく解いてあげるような習慣も自覚的に自分に贈ってあげたいと思う。
・それが彼の作品全体の通奏低音ともなっている
「傍目には非業の死や無念の死であっても、その人にとっては救いとなるような場合もある」
「(宮沢賢治の「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない。」という言葉に対して)たとえ、この世の中に「生まれてこなければよかった」と感じている人がいたとしても、それでもなお、この私は幸福になり得るのではないか、と。しかし、それには2つの条件がある。1つは、この世に生を享けたことを肯定できないような人とともにあるというスタンスをとること。もう1つは、そういう人達への応答をしていく中で、自分を大切にしながらも自分の既得権(国や地域・組織などの社会的集団や特定の個人が、過去の経緯や習慣、法的根拠に基づいて、取得・維持している利益を伴う権利)を解体していくというスタンスをとること。そのうえで、世界全体が幸福にならなくても私は幸福になっていいし、人間の自由はまさにそこにあるのではないか。」
 
福祉の活動は無力感、自分の偽善感、綺麗事感が本当に本当に苦しいほどに付きまとう。どこまでも追いかけてくる。
その中でこの言葉は一つの救いになるような気がした。「既得権」という言葉は“自分の持っているカード”とわかりやすく言い換えられると感じた。
自分にできることを考えていきたい。

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