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家系ラーメンをめぐる10人の巨匠たち

こんばんナマステ❤️Kyoskéこと暑寒煮切(あっさむにるぎり)だよっ⭐️

完全思いつき企画。

個々にすごい店主やステークホルダーはたくさんいると思うんだけど、特に家系ラーメン史に大きな影響を及ぼした10人をセレクトしてみた。

異論反論はあって当たり前だけどね。自称本物を混ぜるな、とか🤣

んじゃ、早速紹介していくねっ💫

①吉村実氏

この人抜きに家系ラーメンの何を語れって話だよね。

1948年山形県生まれ、横浜育ちの朝鮮系。屋台時代のラーメンショップで修行、1974年新杉田に吉村家を開業。

ラーメンショップをベースとしつつ、トラック運転手時代に感動した九州の豚骨ラーメンと関東の中華そばを止揚させた独自のラーメンを開発した家系ラーメンの祖。

育てた弟子は300人を超えるといわれるけど、免許皆伝を与えている弟子はごくひと握りで、それ自体が「直系」という大変な名誉になっている。

不動産や株で失敗したり、猥褻ヴィデオの販売で逮捕されたり、もと弟子との抗争などその人生は波瀾万丈。

吉村家自体はおよそ四半世紀ごとに店を変え、先月移転オーペンさせた横浜駅西口の店舗は3代目。

2代目の店舗を横浜駅西口にオーペンさせる際はお世話になってきた新杉田の街に多額の寄附をしたんだとか。

味はバランスのいい初期、濃厚さを強めていった時期、現在の淡麗な味わいと時代とともに進化している。

後期高齢者になった現在は長男に店と会社を任せて、自らは会長となっているけれどもその姿は意気軒高で衰えを見せない生けるレジェンド。

②神藤隆氏

家系ラーメンの発展はこの人なしには語れない。

1949年、横浜生まれ横浜育ち。

吉村氏にとって初期の片腕であり、ラーメンショップに近かったごく初期の吉村家のラーメンをいまの家系と呼べるものに進化させたのは神藤氏という説もある。

1986年に吉村家初めての支店である本牧家を任されるものの、方向性で吉村氏と対立が生じ、1988年に本牧家から従業員を引き連れて六角家を立ち上げて吉村氏と絶縁。

六角家は吉村家と違い多店舗展開を行い、1994年にオーペンした新横浜ラーメン博物館にも店を出すなど、家系ラーメンの存在を全国的に知らしめたのは間違いなく六角家。

吉村家にない油抜き、キャベチャー、ミニラーメンの提供も神藤氏の功績。

そんな一世を風靡したのも今は昔。

2013年に吉村家直系の末廣家が六角家本店のすぐそばにでき、それでなくとも資本系が多数できて競争が激化。

神藤氏の体調が悪化して店頭に立てなくなると、本店の味は荒廃の一途を辿り、2020年にとうとう倒産した。

戸塚に唯一現在でも支店が残り、弟子達が各地でイズムを継承し続けているのが救い。

今、新横浜ラーメン博物館で「あの銘店をもう一度」という過去に出店していた店舗が期間限定で戻ってくる企画やってるけど、ここに神藤氏と六角家の味が戻ってくることを密かに期待している。

③松村春男氏

今月惜しまれながら引退したレジェンド。

前述したように1988年、神藤氏が本牧家を去ると吉村氏から本牧家の店主に指名される。

店舗が本牧間門にあった頃は吉村家との関係は良好だったものの、1999年に区画整理の都合で吉村家、本牧家ともに移転先を探すようになると下永谷の土地を巡って対立。

結果的に本牧家がここに移転すると、物件取得競争に負けた吉村家が移転オーペン日をぶつけてきたり、2000年には本牧家の目の前に環2家をオーペンさせたり、吉村家の目の敵にされる。

それにめげることなく、吉村家初期の味を独自に守り抜き、今月まで走り抜けてきた。

横須賀に支店があり、少数精鋭の直弟子も育ている。吉村家、六角家と並ぶ御三家のなかでも最も良質な店舗の多い系譜であり、これからもそのイズムが滅びることはないだろう。

とはいえ松村氏のラーメンが既に恋しいよ😭

④渡邊博之氏

自分も最近まで名前知らんかったけど💦

吉村家をはじめとした家系ラーメンに惚れ込むも、独自にうずらの卵の乗るクリーミーなラーメンを創り上げて1992年、磯子に壱六家をオーペンさせた。

師を辿れば吉村家ないしラーメンショップに行き着く店がほとんどのなかで、壱系と呼ばれる独自の系譜の祖となった。

スープに浸した海苔をライスに巻く、家系本流の店でも当たり前にやられている食べ方は壱六家発祥。

独自の系譜をここまで大きくし、家系全体にも影響を及ぼすまでに至らせた人は他にいない。

ただ、その拡大方法はフランチャイズやセントラルキッチンによるところが大きく、日本全国に粗製濫造店が蔓延っているのも現実。

でも本店をはじめ、きちんと炊いてる壱系は美味しいし、一方的に毛嫌いしている人は是非食べてみてほしい。

最近になって妙に表に出るようになってきて、弟子筋の町田商店がけしかけてるのかな、なんてちょっと思っている。

⑤菅沼薫氏

これも誰❓って思うかもしれないけど、セントラルキッチンやフランチャイズではない炊いてる家系としては最も勢力を拡大している新中野武蔵家系の祖。

六角家の傍系といわれるたかさご家の曙町店で店長を経験し、1997年に新中野で武蔵家をオーペンさせる。

ライス無料で食べ放題という店が多く、若者を中心に支持を集めて東京、千葉、埼玉を中心に約90店舗とどんどん勢力を拡大している。東京家系と呼んでもいいかもしれない。

菅沼氏は基本的に表に出てこず、味を統括する総大将の三浦慶太氏が実質的にスポークスマンとなり、自らの名を冠し自らの地元である金町に立ち上げた三浦家が新中野武蔵家全体の旗艦店となっている。

新中野武蔵家を独自進化させた武道家ブランドも基本的に菅沼氏の傘下にあるわけで、吉村氏や王道家の清水氏と並んで現在の家系ラーメンブームを背負っている人物といえよう。

⑥清水裕正氏

今日の家系ブームを牽引する言わずと知れたインフルエンサー。

1973年兵庫県尼崎市生まれ、千葉県我孫子市育ち。吉村家で修業し2003年、柏で王道家をオーペン。

吉村家に仕える家系四天王のひとりと呼ばれていたけれども、吉村氏曰く「金に目がくらみ」、清水氏曰く自家製麺への切り替えや孫弟子の育成、従業員のワークライフバランスを巡って2011年に破門。

以後は積極的に弟子を輩出し、他ジャンルのラーメン店主を中心に技術伝承も行い一大グループを築き上げた。

情報発信力も高く、YouTubeの登録者数はラーメン店主としては異例の5万人超。ただ、他店をディスるなど炎上商法的なところもありアンチも多く生み出している。

これはラーメンにも言えることで、濃厚だった時代の吉村家の味を更にストロングにしており、好き嫌いははっきり分かれる。

吉村家破門のきっかけとなった自家製麺にはじまり、無限にんにく、油そば、煮干しラーメン、そして家系のルーツとしてのラーメンショップなどその探究心は留まるところを知らない。

⑦田川翔氏

家系ラーメンをビジネスとして考えるなら最も成功している人物だし、家系ラーメンを国内外に広めるという意味でもそう。

1982年千葉県船橋市生まれ、高校卒業後壱六家本店で修業。2008年に町田商店をオーペン、翌年株式会社町田商店として法人化、これが現在の株式会社ギフトホールディングスとなる。

町田商店1号店はちゃんとスープを炊いたけども、代々木に最初の支店を出す際にセントラルキッチン化し、以後はセントラルキッチンでの出店がメイン(一部は炊いている)。また、自社直営店舗のみならずプロデュース店舗にスープや麺を卸しており、壱角家や魂心家は有名。

海外も含めて飛ぶ鳥の如く勢いを伸ばしていき、2018年に東証マザーズ、2020年に東証1部へ上場。

二郎系の豚山など別ブランドや他チェーン店のM&Aなども行い、昨年東京駅八重洲地下街にオーペンした「東京ラーメン横丁」は全店舗をギフトが運営していることが話題になっている。

基本的には経営者だけれど、職人としての顔も持ち合わせており、クオリティを無視して無闇矢鱈にフランチャイズの数を追うようなことはしていない。

町田商店ないし町田商店のスープを使った店で、生まれて初めて家系ラーメンを食べた、という人は今非常に多いし、そのことを無視して家系ラーメンを語ることはできない。

⑧菊地輝氏

吉村氏の生み出した家系ラーメンを完全な別物に創り上げた鬼才。

新中野武蔵家での修行を経て、2006年地下鉄早稲田に武道家を立ち上げる。店名は菊地氏自身が空手の達人であることから。

といっても新中野武蔵家を運営する株式会社アストラーレの社内だけれども、豚骨を炊きまくり紅く染まった独自のスープは瞬く間に早大生を中心に人気になり、新中野武蔵家どころか家系ラーメン全体としても革命を巻き起こす。

2009年には中野に二代目武道家ができ、現在は全部で8店舗もの武道家ができているアストラーレにとって新中野武蔵家に次ぐ売れ筋ブランドとなった。(一部店舗はアストラーレの運営ではない様子)

菊地氏自身はアストラーレを離れて2018年、野方に輝道家をオーペン。

武道家の世界観を持ちつつ、王道家から燻製チャーシューを習い、先月水道橋にオーペンさせた2号店では使い慣れた酒井製麺ではなくラーメン凪と共同開発した麺を使うなどアストラーレではできなかった挑戦を続けている。

既に輝道家からも弟子が出ており、アストラーレの内部にも外部にも菊地イズムが受け継がれている。

⑨箕輪厚介氏

メディアによく出てくる幻冬舎の名物編集者。

下積みの時代に通い詰めていた青物横丁のまこと家(本牧家の系譜)の味に惚れ込み、幻冬舎に在籍しながら自らの家系ラーメン店を立ち上げることを思いつく。

関西を基盤にラーメンビジネスを加速させており家系ラーメンも運営している島やんこと島田氏、

高田馬場で博多豚骨ラーメンの居酒屋をやりつつかつて高田馬場にあった千代作(六角家系譜)のレシピを伝授されているでぶちゃんの甲斐氏、

王道家やあさが家(本牧家系譜)をどんどん巻き込んでいって味を完成させ、

ついには完全に新しい家系ラーメン店箕輪家を昨年11月、中野にオーペンさせてしまった。

千代作から六角家、まこと家やあさが家から本牧家、王道家から吉村家のエッセンスを受け継いだのならハイブリッドだよね。

まだ中野の店が軌道に乗っていないのに、並行してドバイ🇦🇪に豚を使わない家系ラーメンを出す計画を進めるなど、従来の家系ラーメンではありえない奇想天外なやり方で新しい風を巻き起こしている。

⑩酒井宏氏

クラブツーリズムの社長じゃないよ🤣

クラツーより遥かに社会的影響力のある酒井製麺の社長であり、吉村氏と並んで家系ラーメンを語れないこの人を本企画の大トリに挙げさせてもらう。

かなり高齢のようだけど、彼が創業者なんだろうか。

東京都大田区にあり、元々はうどんメイン、近所にあったラーメンショップ(椿食堂管理)が酒井製麺を使っていたものの、途中で自家製麺に切り替えた。

吉村氏がラーメンショップで修業していた頃の話なので、1970年代前半のこと。

自家製麺にしたのはコストダウンだったり、フランチャイズ店に卸してロイヤリティを得たいからだと思うけど、吉村氏はそれを見て不義理と感じた様子で、吉村氏は独立する際、酒井製麺に麺を頼むことにした。

このエピソードを見れば自家製麺にすると言い出した王道家を破門にしたのも頷ける。恐らく吉村氏にとって製麺所とは生涯に渡って付き合っていくものという思想があるのではないか。

なお、椿食堂管理の自家製麺を拒否して酒井製麺を使おうとしたラーメンショップも多く、ニューラーメンショップなどがそれにあたる。

家系ラーメンに使われる麺は逆切りという特殊な技術が使われているけれど、まさに酒井氏と吉村氏が二人三脚で創り上げた麺なのだろう。

酒井製麺は紹介制といわれるけど、それはチョークで杉と書かれた吉村家用の麺であって、全然系譜が繋がってない家系の店でも酒井製麺を使ってることがあるので、普通の麺なら発注できるんじゃないかと思う。

杉は横浜市磯子区杉田のことで、吉村家の最初の店舗が新杉田にあったことに由来している。

麺箱にカと書かれているのは蒲田のことでラーメンショップ用なのだとか。

酒井製麺は吉村家と二人三脚のように見えて、完全にべったりではない。

吉村家と敵対関係にある六角家、本牧家とその系譜にも卸しているから。

それどころか移転先の物件を巡って吉村家と本牧家が争い、本牧家が借入れることに決まった際、酒井氏は契約の保証人になったのだという。

一度顧客になった店のことは大切にするのだろう。

王道家の清水氏から自家製麺に変えたいと相談された際は「そうやって出て行った店はみんな潰れた」と慰留したけれど清水氏の決意は変わらなかった。

後年、自家製麺が完全に酒井製麺に匹敵するクオリティになったと確信した清水氏は、麺を持って酒井製麺にやってくる。試食した酒井氏は「顔も見たくない」と言い放ったのだという。酒井氏も悔しがるほどの出来だったわけね。

前述のように輝道家は本店では酒井製麺だけど、2号店では別麺を使う。これは酒井氏的に構わないことなのかどうかはわからない。

それにしても、かなり歳を召している酒井氏には後継者がいるのだろうか。

いなかったとして、酒井氏が大きな病気や死に差し掛かったら家系やラーメンショップのサプライチェーンはどうなるのか。それがちょっと怖い。

そしてその時はそう遠くないうちに訪れる。

家系にビッグバンが巻き起こるのかもしれない。


今回の10人を選定する際、何人か悩んだ人がいる。

直系1号店である杉田家の津村氏、

家系ラーメンを沖縄や中国に広めた吉祥寺武蔵家の藤崎兄弟、

新中野武蔵家だけでなく町田家や侍を含めた大きな系統であるたかさご家の創始者など。

ただ、今回選んだ10人の方が影響力強いんじゃないかと自負している。

それじゃあバイバイナマステ❤️暑寒煮切でしたっ✨

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