横浜家系ラーメン

『二十歳の死』

病院で昏睡状態にある自殺を図った二十歳の男のために実家に集まった従兄弟姉妹たち。それぞれが自らの思いを語り、沈黙する。マリアンヌ・ドゥニクールを始めとする俳優陣が素晴らしい。室内。外における冬の光景。ラストシーンの静謐さに注目してほしい。(1991年 フランス 52分 監督アルノー・デプレシャン)

『ゴースト・ドッグ』

NYの古びたビルの屋上で幾羽もの伝書鳩と共に暮らし、山本常朝の「葉隠」に耽溺する黒人の殺し屋を主役に据えたらどうか。そこに武士道精神としての主従関係を持ち込んだらどうか。「荒唐無稽」である。監督ジム・ジャームッシュは爽快に宣言する。この「荒唐無稽」という他ない映画は物語のみならず、語りにおいても鈴木清順の『殺しの烙印』を引用するなど徹底している。しかし芥川の小説「羅生門」が同じく黒人の少女に継承さ

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『ミスティック・リバー』

しかしこの陰鬱さは何だろう。三人の幼馴染みがひとつの殺人事件をきっかけに再会するのだが、悲劇的であることを超えて何ともやり切れない結末を迎えることになる。「映画」はもう痛快な娯楽映画を撮ってはならないのか。監督イーストウッドは画面の暗さを通じてそう言っているようにみえる。必見。(2003年 アメリカ 138分 監督クリント・イーストウッド)

『その男、凶暴につき』

「ここではすべてが新鮮である」というトリュフォーの言葉を引用したくなる。監督北野武は新しい「映画」を発明した。俳優ビートたけし演じる我妻刑事の歩き方。白竜の不気味な静かさ。ストーリーだの物語だのここでは語るまい。画面の強度がすべてだからである。この映画から『ソナチネ』へ至る北野武は乗りにのっていたと言ってよい。この映画は何度も見直さなくてはならない。(1989年 日本 103分 監督北野武)

『パーフェクトワールド』

脱獄囚ブッチ・ヘインズが、少年フィリップを人質に取って自身の父親がいるアラスカを目指す逃避行劇。ブッチの孤独ぶりが素晴らしい。フィリップもまた孤独である。ここでイーストウッドの語りは完全に巨匠の域に達している。あらすじは単純だが監督イーストウッドの熟練で巧みな演出によってある種の抽象性まで変質するのだ。決してイーストウッドを侮ってはなるまい。(1993年 アメリカ 138分 監督クリント・イースト

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『ラストエンペラー』

この無籍国感はどうか。英語で話す西太后。確かな輪郭に収まらないピーター・オトゥール。溥儀という孤独な男の肖像。ここでベルトルッチは乗りにのっている。『シェリタリング・スカイ』への布石とも連想させる本作は、乾いている。コオロギに注目されたい。(1987年 イタリア・中国 163分 監督ベルナルド・ベルトルッチ)

『自由、夜』

ミシンをかけるエマニュエル・リヴァの表情。モーリス・ガレルの疲労。クリスティーヌ・ボワッソンの動揺。この映画はどの場面を切り取っても美しいショットから成り立っている。アルジェリア独立戦争を背景としながら、現在形で観る者の心を揺さぶる。(1983年 フランス 82分 監督フィリップ・ガレル)

『アワーミュージック』

地獄篇、煉獄篇、天国篇から成る三部構成。ゴダール独特のコラージュ。ゴダールの天国篇はやはり散文的である。かつて『アルファビル』で描かれた近未来が散文的であったように。ダンテを下地にしつつも、ゴダールはやはりゴダールである。(2004年 フランス 80分 監督ジャン・リュック・ゴダール)

『ブンミおじさんの森』

生と死に対する恐れを木っ端微塵に吹き飛ばす映画が出現した。この映画では、なだらかに、緩やかに生は死に移行する。(2010年 タイ 114分 監督アピチャートポン・ウィラセータクン)

『リトル・オデッサ』

物語は兄ジョシュアが故郷ブルックリンに帰るところから始まる。冬のNYの光景が寂しく美しい。殺し屋のジョシュアは弟ルーベンに慕われている。「クライムアクション」と呼ばれがちな本作は、旧約聖書的世界を超えてギリシア悲劇の高みまで達している。何よりも映画的なのは兄弟の雪の中での再会シーンであろう。映画というこの特異なジャンルは旧約聖書やギリシア悲劇を決定的に古びさせる。(1995年 アメリカ 98分 監

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