月下美人翌朝

『ひかりの歌』公開記念 往復書簡2(杉田協士)

宮崎大祐さま

こんにちは。

今朝からとても寒くなりました。ガスストーブを出して、部屋をあたためています。ここ数日、夜遅い時間に航空機やヘリコプターが低空で飛ぶ音が響くようになって、宮崎さんの『大和(カリフォルニア)』を思っています。

先週届いた手紙を読みながら、この1週間は、自分と映画のことをふりかえる日々でした。映画への思いのようなものを言葉として生み出そうとすると、本当かしらと疑念ばかりがわいて、パソコンの白い画面を眺めるだけの時間がつづきます。

手紙の返事を考えているあいだに頭に浮かんできた、これまでの物作りの現場での記憶を、ただ書きつづってみることからはじめてみます。

大学生のころ、同じ学科の友人がスタッフをやっているということで、東京の三軒茶屋にある世田谷パブリックシアターでの、中学生たちによる演劇の発表会を見に行きました。講師は、私も「教育と表現」という授業を受けていた劇作家の如月小春さんでした。演目は『星の王子さま』。舞台がはじまってから気づきました。王子さま役のこどもがたくさんいました。原作の挿絵で見るのとはちがうイメージの、自分で作ったらしい思い思いの衣裳を着て、王子さまというより、その子にしか見えないこどもたちが、場面ごとに入れ替わりながらたのしそうに動き回っていました。私は大学で如月さんのことを警戒していました。授業での如月さんの立ち方や言葉がどれもおもしろくて、いま思えばこわかったのだと思います。だからその発表会を見に行くときも警戒していました。それが、舞台を見ていたら解けていました。終演後の挨拶で、自分のやりたい役をみんなやるというルールで作られた舞台なのだと知りました。帰り際、自分から如月さんに声をかけていました。来年もこれがあったら、スタッフとして参加したいですと。如月さんはわらっていました。私の名前を覚えてくれているのも、そのときに知りました。

制作部の見習いスタッフとして初めて商業映画の現場に参加したとき。その日は富士山の近くにある蓮沼で朝から夜まで撮影する予定になっていて、ひとつめの場面を撮り終えたくらいから、カラオケを歌う声が遠くから響いてきて、どこかでお祭りがやっているらしいことがわかりました。どうにかしてくれと録音部が私の上司に伝え、あれを止めてこいと上司は私に言いました。

耳をすませながら祭りの場所にたどりつくと、そこは小さな神社で、簡易的に作られた舞台の上で年配の女性が演歌を歌い、そのまわりでは町の人たちが酒盛りをしていました。撮影現場までトランシーバーの電波がぎりぎり届く距離だったので、その状況を伝えると、話してこいと言われるだけだったので、祭りの代表の人を探し出して声をかけました。私はきっとなにを言っているのかわからないくらいに緊張していて、気がついたらその年配の代表の人に怒鳴られ、追い出されていました。だめでしたと再びトランシーバーで伝えると、だめとかないからもう一度話してこいと言われて、そのときにはもう意識は空っぽで、足だけ動かして境内に入って、さきほどの代表のところまで近づいていきました。怒鳴り声に気づいた金髪や茶髪の若い人たちが集まってきて、代表に話しかけ、こちらにはたぶんなにか乱暴な言葉をぶつけ、意識はいっそう空っぽになっていくばかりでしたが、気がつくと私はレジャーシートの上に座り、片手にはおでんの入った器、もう片方の手には日本酒の入った紙コップを持って、勧められるままに食べて飲んでいました。町の人たちは、撮影の本番の間だけカラオケを中断することを承諾してくれていました。さきほどの状況から、どうやってそうなったのかを覚えていません。トランシーバーでそのことを伝えると、わかった、じゃあ本番のときだけシーバーで伝えるから、お前は今日の撮影が終わるまでそこにいろと指示されました。その後も注がれるままに酒を飲み、出された料理を食べつづけ、そのうちに日は暮れて、若い人たちは別の場所に移動し、残った年配の人たちは焚き火を囲んで酒盛りをつづけていました。もうカラオケは終わったから、本当なら現場に戻ってもいいはずでしたが、撮影が終わるまでそこにいろと言われた指示をもう一度確認する気力もなくて、最後に出されたうどん汁をいただきながら、町の人たちがしてくれる話に耳をかたむけていました。

しばらくして、焚き火からすこし離れたところにひとりで立って、こちらを眺めているおばあさんがいることに気づいて、そのとき一緒に話していたおじいさんに、あの方どうしてこっちに来ないんですかとたずねたら、あんな人知らないよと返されるだけでした。様子を見ていると、たぶん他の人たちもそのおばあさんに気づいてはいて、でも気づかないふりをしているようでした。おうどん、もう一杯いただけますかと頼むと、よろこんでよそってくれて、その一杯を持っておばあさんのところに持っていって、あっちで一緒に食べませんかと誘っていました。酔いもあって自分の立場もなにも考えなくなっていました。おばあさんは小さな声で、あたしはここでいいのと言いながら、どうしてそこにいるかの事情を話してくれました。住んでいる町は別のところにあって、この連休の間だけ、息子さん家族が旅行にいくからと飼い犬のために留守番を頼まれて、その馴染みのない家にひとりでいたのだけれど、自分の好きな歌が聴こえてきて、なつかしくてつい様子を見にきてしまったのだと言いました。ちょっと待っててくださいと伝えて焚き火の方に戻り、聞いたことをそのまま町の人たちに話すと、ふたりのおじいさんが声をかけにいってくれました。遠目に見ていると、三人ともどこか照れくさそうで、恋愛でもはじまりそうな雰囲気になっていました。おばあさんは焚き火の輪に加わり、私はその様子を眺めながら、映画の仕事をこのさきつづけていくかどうかを考えていました。

教育学科にいたので、大学で仲のよかった友人たちのほとんどは、初等科の教員になっていきました。そのうちのひとりが、赴任した先の学校の5年生のクラスで苦しんでいるのを聞いて、自分にできることは、たとえば映画のワークショップをやりにいくことくらいだと思い、むずかしいだろうとは思いつつも提案してみました。友人が校長先生に相談したら、ぜひと言ってくれたようで、数日間、千葉の八千代まで通うことになりました。映画のワークショップでなにができるかというより、こどもたちの前でその友人のことを普段通りの下の名前で呼んでみようということだけ決めていました。

初日、これが学級崩壊なんだと、そのままを目にしました。席に座るこどもはほとんどいなくて、一輪車で廊下を走っている姿も見ました。給食のときに気づいたのは、あれだけ騒がしかったこどもたちが、ごはんは黙々と食べていることでした。普段、朝食を食べてないのがそれでわかりました。よく見ると、少なくないこどもたちのふくらはぎに、ダニに刺されたような湿疹をいくつも見つけていました。

小型のビデオカメラを2台用意できたので、2つのチームに分かれて、学校の敷地内の好きなところで30秒間の映像を撮ってくるという遊びをしました。あるひとりの子は自分の番になって、なにも考えないままに録画ボタンを押していました。後ろでは私がストップウォッチで30秒を数えています。やべーやべーどうしようと言いながら、カメラを構えてぐるぐる回っていると、同じチームの子がフレームに入りました。自己紹介の時間に下の名前を口にすると、おまえはシュレックだろーと一斉にからかわれていた子でした。いえーい、シュレックーと声をかけられて、その子は撮られているのに気づいて、やめてよーと言いながらさっと後ろに回りこんでいました。相手を見失った子がオロオロとまた回りはじめると、さきほどの子が油断した顔のままフレームインして、気づいて再び走り去りました。

全員分の映像を教室で上映するとき、私はぎりぎりまで迷っていました。からかうために撮られた映像。でもたしかに、お題からは外れずにクラスのひとりの子が撮った映像。それだけを上映しないという選択肢はありませんでした。その映像がスクリーンに映りはじめました。シュレックと呼ばれた子がカメラに気づいて走り去る瞬間と、逃げきったと安心していた顔の眉間にシワが寄り、怒ってまた走り出す瞬間。みんな手を叩いて大笑いしていました。その様子を見て心配になり、後ろの方に座っていたその子を横目で確認すると、一緒になって顔を上げて笑っていました。映っているのはその子でしたが、スクリーンを前にして、その子もひとりの観客になっているようでした。みんなの笑い声は、からかうときとはちがうものに感じていました。

ちょうど運動会が近い時期で、映画の授業のあとは練習の時間でした。友人の仕事が終わるまで、他にすることもなかったので、残って校庭のすみで見学していました。ひとりの知らない子が横に来て座りました。だれ? と訊かれて説明すると、その子はいろんな話を聞かせてくれました。家出をしていて3ヶ月くらい家に帰ってないこと、そのあいだは友だちの家に泊まっていること、きょうだいが5人いるけれど、父親が全員ちがうことなど。最後に万引きのテクニックを教えてくれました。狙った店のテープの切れ端を集めておいて、万引きした品物にすぐに貼れば、もし捕まっても、これ買ったんだよと言えば済むとのことでした。よくそんなこと知ってるねと伝えると、うれしそうな顔をしました。その映画の授業は自分のクラスでもあるのかと訊かれて、正直に答えることしかできませんでした。その様子を遠くから見ていたらしい別の先生から、だいじょうぶでしたかと後で話しかけられました。クラスメイトでも先生でも、見境なく急に殴ったりする、その学校でいちばんの問題児とのことでした。

校長室に挨拶に行ったとき、何でもない会話のなかで、私がお酒を好きかどうかを訊かれて、ビールをよく飲みますと話していました。授業をすべて終えてしばらく経ったころ、家に缶ビール1ケースが届きました。

助監督として最初に入った商業映画の現場で、自分の部屋からほとんど出られない生活をしていた高校生が、姉が連れ帰って玄関につないだ野良犬の様子を見に、2階から降りてくるというシーンを撮るときがありました。カメラは玄関に置かれ、レンズは正面の階段に向けられました。その高校生が階段から降りてきて、廊下を歩いてくる一連の動きをワンカットで撮ることが決まると、照明部のチーフはすぐに、廊下の両サイドにあるすべての戸を開いて、それぞれの奥の部屋に照明機材を設置して、廊下に差し込む午後の光を作りました。光が決まって、芝居を交えた最初のテストを終えたとき、チーフはあれだけ時間をかけて作った光を閉ざすように、すべての戸を閉めていきました。カメラは廊下も階段も見通せるように置かれているから、戸を閉めてしまうと、他に照明機材を設置して光を作る手段はほとんどないように見えました。チーフはそのとき、カチンコを持ってぼんやりと立っていた私に、あの子、これじゃ降りて来れないもんなと、独り言のように呟いていました。

『ひかりの歌』の第2章「自販機の光にふらふら歩み寄り ごめんなさいってつぶやいていた」のメインの撮影場所のひとつは柚木石油というガソリンスタンドで、物語上の設定と同じく、ひと月後に閉店が決まっていました。政則さん、澄江さんという夫婦がふたりでやっている店で、すこし戸惑いながらも、ふたりとも出演もしてくれました。最後の撮影は夜で、終えて片づけているとき、待合所の表の花壇の前で、澄江さんと撮影の飯岡幸子さんが話していました。そこには多肉植物などが植わっていて、ちょうど澄江さんが飯岡さんに月下美人の葉を一枚折って、譲っているところでした。飯岡さんはうれしそうにその葉を両手で持って、もらっちゃったと言いました。澄江さん曰く、月下美人は強くて、葉を土に挿しておくだけで育つとのことでした。

撮影から2年後にあたる今年の同じ月に、飯岡さんがSNSのツイッターに写真をアップロードしつづける夜がありました。1年のうちに1、2回、夜に咲いて朝には萎んでしまう月下美人の花が咲き、飯岡さんがその様子を15分おきくらいに撮影したらしい写真を見ることができました。花が完全に開いたときの1枚と、翌朝の1枚をこちらの手紙に添えておきます。

宮崎さんから受け取った質問に答えしようとしたときに、その理由を探るなかで頭に浮かんだ記憶のなかから、いくつかを書いてみました。ここに書いたような時間のなかに、どうしていまだに映画を作っているのか、どうして『ひかりの歌』がこんな映画なのか、その答えがどこかにあるような気がしています。これを手はじめとさせてください。

私が宮崎さんの『大和(カリフォルニア)』がとても好きな理由も、ここに書いたことと、どこかでつながるような気がしています。この作品にも閉じてしまう店が出てきますね。私はあの店での、大将と主人公たちとのやりとりを見ている時間が好きでした。映画のワークショップをやるとき、たまにやるお題のなかに、どちらか片方だけが、それが最後の別れだと知っているというシーンを撮ってみるというものがあります。『大和(カリフォルニア)』のなかにも、そのようなシーンがありました。宮崎さんの作品のなかには、主人公だけでなく、登場するあらゆる人たちの、だれかや何かに向けられた眼差しが残っているように感じます。それらは、物語という枠を超えて映っていて、映画を見たあとも私の心に残ります。

いただいた手紙に、「自分がどんなことを考え、生きていたかという記録が残したかった」と書かれていました。ここで宮崎さんは「自分が」と書いていますが、それは同時に、宮崎さんが映画のなかに残してきた、そしてきっとこれからも残していく、だれかの眼差しのことも指しているのかもしれないと感じました。その眼差しが向けられたものも含めて。

宮崎さんから最初にいただいた質問を最後にはただ繰り返すことになりそうです。上に書いたことがもし見当違いでなければ、その眼差しについてもお聞きしたいです。宮崎さんはどうして映画を撮っているのか、うかがってもよいでしょうか。

朝に書きはじめて、もうすぐ日付が変わります。今晩の空はしずかでした。

杉田協士

ひかりの歌 公式サイト

ひかりの歌 クラウドファンディング(MotionGallery)

ひかりの歌 特報

大和(カリフォルニア)公式サイト


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