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『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』に観る「女性らしさ」の変遷

 昨日ね、『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』っていう映画を観てきたんですよね。これが中々よく出来てました。全体的な印象は王道のヒューマンドラマ映画って感じだったかな。僕は女優には詳しくないので、長女メグ役のエマ・ワトソンぐらいしか分からなかったけど、主演の女優さん(いま敬愛すべきWikipediaさんで見てきたら、シアーシャ・ローナンという女優さんらしいですね。そうか。『ラブリー・ボーン』の主演の女の子でもあったのか。もうそんなに大きくなったのか)の演技はすごく良かった。あと、ジョー役っていう役どころにも顔立ちや身長とか、似合ってる気がしました。僕の中ではジョーは勝ち気で身長高い男性的な要素を持ってるけど、やはり女性でもある、っていうイメージだったので。

 どこが良かったって、ジョー役が常に「女性らしさ」を失っていないところですね。本人は「結婚が女の幸せとは限らない」と言って、女性一人でも自立した、稼げる、立派な作家(ジョーの夢はプロの小説家なんです)になろうとして、実際にちゃんとお金も稼げるようになるんですけど、劇中では一貫してどこか振る舞いや表情に「女性性」を感じさせる。

 実はこれって、すごい至難の業なんじゃないでしょうか。日本の女優さんだと、「男っぽい女性」という役どころになってしまえば、何となく漫画やアニメを参考にしてる人が多いからか、最近はオーバーな演技が目立ちます。
 でもこのジョー役の女優さんはそうではないですね。実に繊細な演技で、後から振り返って「そういえば……」と気づくような塩梅です。でも、それが良い。いわゆるリアルさに繋がってくるのでしょうか。本当にあの四姉妹の姿を見ているかのようです。(エイミー役の女優さんだけ、ちょっとオーバーな感じもしましたが、まあ人物像には合ってる気がするので、ご愛敬といったところ)。

 どうして今ごろ「若草物語」なんだろう? と思ったのですが、映画を観て納得したのは、ジョーに焦点を当てることで、昨今の女性が抱く「女性一人でも生きていく」――いわば女性の自立性といったものにテーマを絞っているからなんだろうと思いました。

 僕にとっては「若草物語」は家族の物語で、実際、そういうサブテーマもちゃんと描かれているんですが、物語は一貫してジョーに焦点を置いてます。「なるほど、テーマが変わればこういう描き方もあるか」と実に勉強になりましたし、どんなに古い物語でも、現代という時代性にテーマを合わせることは可能なんだな、とあらためて実感しました。

 それと同時に、今まで感じていた何となくの違和感を自覚しました。女性の自立とか、女性の独り立ち、女性の強さ――そういったものをテーマにした話は僕は好きですが、かといってあまり「女性らしさ」を失うのもどうかと思ったりはします。
 性差があるのはやはりそれが必要であるからです。これは差別とかではなく、男と女というものが生まれたときから存在している僕たちには「必然」のものです。そういう意味で、僕は「らしさ」は必要だと思っていますし、それは型にはめるというよりは、自分が「男性である意味」「女性である意味」を考える必要性があるということです。
 もちろん、それとLGBT(いわゆるジェンダー問題?)とは別の話で、僕は様々な愛の形、多様性があって良いと思っていますが、それにしたってやはりその中での「らしさ」は追及するでしょう。でなければ、パートナーとなる意味はなさそうですから(たとえば「母親らしさ」とか「子どもらしさ」とか「部下らしさ」、もっと言えば「子どもを育てる親らしさ」といったものにもなるでしょう)。

 これは何も自分の好きなものを押さえて(たとえばロボット・自動車・チャンバラ好きな女の子に)「女の子らしくしなさい!」と言うのとはまた別の話です。嗜好性や趣味は「女の子らしさ」とは別のところにあります。ロボットが好きならそれでいいし、チャンバラが好きならそれでもいい。好きにすればよろしい、と思います。
 でもだからといって、LGBT的問題を抱えていない女性が、自分が女性であることを忘れるという意味で「らしさ」を失うのはどうかと思うのです。人間はコミュニケーションする社会的な生き物です。そして「らしさ」(=役割・役目)はその社会的な空間を円滑にするためにあると思います。
 もし、母親が「母親らしさ」を失ったらどうでしょう? やはり子どもは嫌がるのではないでしょうか? これはあくまで精神的な意味での「らしさ」です。「母親だから料理を作るべき」といったような単一的な行動で見るらしさの基準とは違います。この辺り、ニュアンスが難しいところではあるのですが。

 そういう意味で、僕が『ストーリー・オブ・マイライフ/わたしの若草物語』に驚いたのは、あくまでジョーが「女性らしさ」を失っていない点です。でも、彼女は自分の男っぽさも受け入れています。むしろ最初は「女性らしさ」を捨てようとすら思っていたぐらいです。しかしこの二つが二者択一のもので、どちらかを選ばなければならないものではなく、どちらも選べるんだ(劇中ではジョーは「寂しい」という言葉でそれを表現します。女性らしさがより強く顕在化した現れでしょう。もちろん、髪を切った時に悲しむなど、常にジョーは自分では気づいていない精神的な女性らしさを持っていました)、とジョーが気づいたとき、彼女は本当の意味で「自立した女性」になるのです。

 この辺りは本当に面白くて、もう少し世代を下れば、強い女性を描く映画というのは「男性を打ち負かせてなんぼ」でした(『キューティ・ブロンド』とかまさにそうですね)。
 男性に性と対象としてしか見られない弱い立場にいる主人公の女の子が、なにくそ、と頑張って男連中をけちょんけちょんにする。それどころか「男なんていらないわ」とばかりに男を捨てて、女同士の友情を深めたりもします。
 見た目としてはまさに分かりやすい「強い女性」ですね。でも世界的な震災があったり、テロが頻発したりする今の世の中で、本当に身を守ってくれるのは「共同体にいる自分」だと誰かが気づいたんじゃないでしょうか。
 性差があるということは、そこには意味があり、恐らくそれは「人間同士の繋がり」「コミュニケーション」「共同体」のためにあるのでしょう。そしてその機能として「らしさ」がある
 本当に強い女性とは「自分の男っぽい趣味や性格を受け入れながらも、女性らしさを失わず、次女らしさ、大人らしさも自覚する、共同体の中にいる女性」――つまりジョーのような女性を言うんだよ、ということをこの映画は伝えたかったのではないでしょうか。

 コロナ渦で世の中が危機的状況にあるいま、人間が古来から綿々と培ってきた――しかし最近では、忘れられかけてきた――「共同体」というのは実に大事な要素です。
 これは何もご近所付き合いみたいな大それたことだけではなく、パートナー同士の関係にも言えます。僕たちが「人間らしさ」を失わないようにしているように、「彼女らしさ」「彼氏らしさ」「母親らしさ」「父親らしさ」を失ってしまったら、そこには二人以上で共にいる意味がなくなってしまいます。

 僕らはもう一度「らしさ」と「共同体」の関係、その大切さを考える必要がある。そして「強い女性」とは今や変遷し、「らしさ」を失わずにいたジョーこそが本当に強い女性なんだと、この映画は伝えているのではないでしょうか。

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