檀ふみさんの想い出

 大昔のことになるが、檀ふみさんには何度もお会いしている。だけど、ふみさんは私のことをご存じない。一方的な想い出だ。
 1975年、私は呼吸器系の難病で大学病院に入院していた。その同じ病棟に、ふみさんのお父様の檀一雄さんが入院なさっていたのだ。
檀さんの病室は個室で、お風呂場に行く時にはその前を通った。時折ドアが開いていることもあって、息子さんや奥様の声が聞こえたりした。何となくだけど、病が重いのだろうなあと感じていた。
その頃ふみさんはまだ二十歳くらいで大人気の女優さんだったのに、お忙しい中しょっちゅうお見舞いにいらしていた。
病棟の中には小さなキッチンを備えたダイニングルームがあって、ふみさんはそこでお父上のためなのか、それともご自分のためなのかお料理を作っていらした。私と同じ病室の女性が「まあ、どんなご馳走ができるんでしょう」と話しかけると、恥ずかしそうに微笑まれたことを覚えている。
有名な方なのに気さくで腰が低く、廊下ですれ違うと、ニコッと笑って会釈してくださった。病棟の人たちはみんな大ファンになった。
 檀さんに付き添っていらした奥様を初めてお見かけした時、私は「え?H先生がなぜここに?」と驚いた。高校の時の担任の先生にそっくりだったのだ。確信が持てないまま数日が経ってから、その方がH先生ではなく檀一雄さんの奥様だと知った。グレーの髪のとても上品な美しい方で、ドクターや看護師さんが、その献身ぶりをよく噂していた。
 息子さんもよくお見かけした。携帯などない時代で、ナースステーションの前に設置された公衆電話からよく電話をかけていらした。相手は出版社の編集者さんだったのだろうか。檀さんの本の打ち合わせをしていらっしゃるようだった。まわりは皆博多弁だったので、息子さんの歯切れの良い東京弁は何か特別な感じがした。
 実はその頃、私の父も同じ病院の違う階に入院していた。それも、檀一雄さんと同じ肺がんで。私が入院して一月くらい後に、突然父が入院して来たのだ。
 だけど、同じ建物内にいるというのに、私は滅多に父の病室を訪ねなかった。話すことが何もなかったのだ。子供の頃から父は「怖い人」でしかなく、ちゃんと話をしたことは、一度もない。父は私にとって「私をしょっちゅう怒る人、時々私を叩く人、私を嫌ってる人」だった。
夏が過ぎ、秋も逝き、冬になった。あれは、クリスマスイブの日。誰かが届けてくれたケーキの半分を持って私は父の病室を訪ねた。だけど特に言葉を交わすこともなく、ケーキを渡してすぐに自分の病室に戻ってしまった。
私は二十四歳になっていたので、もう父を恐れてはいなかったが、語り合う想い出も、共通の話題も何一つなく、二人でいても五分ももたなかったのだ。

 ふみさんのお母様は冬のはじめ頃から、編み物をなさっていて、一度ダイニングルームで、セーターの襟ぐりの始末のやり方を訊かれたことがある。私はその質問に答えることができなかったので、同じ病室の編み物上手な人を呼んで来た。その人が教えている間、お母様はとても熱心に耳を傾けていらした。とても上等そうなグレーの毛糸で編んだあのセーターは、クリスマスプレゼントだったのだろうか。

 私は大晦日からお正月の三ヶ日、外泊許可が出て家に帰った。そしてテレビのニュースで檀一雄さんが1月2日に亡くなったことを知った。
 もうあの優しいお母様や可愛らしいふみさんにお会いすることはないのだなと寂しさが胸に広がった。
 お正月も病院で過ごした父を訪ねると、父は檀さんの死にショックを受けて、ひどく落ち込んでいた。父は檀さんの本を読んでいたようで、同じ建物内にいるということもあって親しみを感じていたのだろう。
 それから間も無く、父は別の病院に転院となった。私はそのことを寂しいとは少しも思わなかった。父が死ぬなんて、全く思っていなかったのだ。
そのわずか三ヶ月後、父の容体が急変し、私を呼んでいるとの連絡があって、パジャマのまま病院を飛び出した。もう陽が落ちていたのだが、敷地内の満開の桜が建物から漏れる灯りに照らされて白く輝いていた。いけないことだが、私はひと枝手折って胸に抱いた。桜を見ないまま父を逝かせたくなかったのだ。
 私は初めて父の手を握った。点滴の液が漏れて腫れた手は温かかった。もう言葉も話せない状態だったが、父は私の手を三回強く握りしめた。父が、父として私に示してくれた最初で最後の愛情が、その三回に込められていた。そして、その数時間後に、父は旅立った。
 今でも、テレビで壇ふみさんを拝見すると、父の手の温もりと、胸に抱いた桜の小枝を思い出す。

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