恋女房

 下働きの娘が奥の部屋で一人黙々と手ぬぐいをたたんでいるのを見かけて、つい「手伝おうか?」と声をかけた。この娘は確か、つい最近雇い入れた奉公人だ。
「お願いします」
 遠慮するかと思ったら案外あっさりと答えた。最近の若いものは年上だろうが雇い主だろうが、平気でものを頼む。ひと昔前なら店の主人が「手伝おうか」と訊いたところで「お願いします」なんて言う奉公人などいなかった。いい時代になったものだ。
俺が親元を離れて旅館の下働きとして奉公に出されたのは十歳の時だった。奉公と言っても、体(てい)のいい「口減らし」だ。朝は四時くらいに叩き起こされて、掃除、井戸の水汲み、若女将が産んだばかりの赤ん坊のオムツを川で洗濯したり……とにかく一日中こき使われた。それでも一日二回飯が食えるだけでありがたかった。
女将さんにも旦那さんにも可愛がられて、見よう見まねで料理の下ごしらえなどしているうちに、少しずつ料理もさせてもらえるようになって、十六の時には板場を任されるまでになった。
客と一緒に来る芸者の小春と恋仲になったのは、なんとか一人前になって小さな料理屋を始めた頃だ。きっかけは一匹のキジ猫だった。お座敷帰りに拾ってしまったものの、置屋(おきや)には連れて帰れないと困り果てていた。一緒に住んでいる先輩芸者が大の猫嫌いなのだと言う。
「後生ですから、預かってもらえませんか」
手を合わせて泣きつかれた。それがきっかけで毎日のように会うようになり、小春の年季が明けると同時に所帯を持った。
幼くして芸者屋に売られた小春は料理もできなかったし、世間のこともよく知らなかった。しかし、なんの不満も持ったことはない。
小春は毎日俺が作った飯をうまそうに食べ、猫のお鈴をまるで自分が産んだ子のように可愛がって、いつも一緒に俺の帰りを待っていてくれる。それだけでなんの不足もないほど幸せなのだ。
今日は、お鈴には鯛の刺身の切れ端、小春には筍(たけのこ)とこんにゃくの土佐煮を持って帰ってやろう。今が旬の筍は小春の好物だから、きっと長い咳も治って元気になるに違いない。医者の野郎は「もう手のつくしようがない」などとふざけたことを言っているが、そんなことがあるものか。
肺病は死病だと言うが、小春はまだ若いから、すぐに元気になるに決まっている。
それなのに「持ってあと二、三日です」などと言いやがって。あんなヤブ医者、二度と往診なんぞ頼むものか。きっと小春のようなべっぴんの嫁がいる俺がうらやましいのだろう。
本当に俺は果報者だ。こんな幸せ者はそんじょそこらにはいない。毎日小春とお鈴が待っている家に帰る道すがら、ちょいと神社に寄って手を合わせるようにしているのは、あまりにも幸せだからだ。今頃小春は、お鈴を膝にのせて『婦人之友』や『婦人倶楽部』を読んでいるだろう。もう少ししたら美味いものを持って帰るから待ってろよ。
「宮様にお料理を出したことがあるって本当ですか?」
 手ぬぐいをたたんでいた娘が、ちょっと手を休めて訊いた。 
「ああ、本当だよ。あれはいつだったかな。犬養毅が首相になる前だな。テニスの帰りにご学友とふらりと立ち寄られたんだよ。そのご学友の親戚がうちの店の常連でね。板前としてはたいそう光栄だったけど、緊張したねえ。食器は全部煮沸消毒してお出ししたよ」
「それは一度だけですか?」
「いやその後も何度もいらしてくださったよ。だけど犬養首相が青年将校に撃ち殺された翌年にお亡くなりになったそうだ。あれからもう十年くらい経つが、月命日にはお好きだったものを作って仏壇にお供えさせていただいてるよ」
「わあ、尊敬します」
「あんたも、これから色々あるだろうけど、しっかり心を込めて働くんだよ。人様のためになることをするんだよ」
「はい、頑張ります!」
「さてと、手ぬぐいもたたみ終わったし、腹減ってないかい?」
「ちょっとお腹すきました」
「何か好きなものはあるかい?」
「オムライス」
「なんだ、西洋飯か。まあいいや。板場で作ってきてやるからここで待ってな」
「えっ? そ、そんな! いいですいいです!」
 娘はオロオロと立ち上がった。
「遠慮しなくていい。ああ、そうだ、そこらへんに洗濯した前掛けがあるから、出してくれるかい? 店が混む前に着替えておかなくちゃな」
 前掛けをはずした途端、娘が「きゃあ」と大声で叫んだ。
「ん?どうした?」
 娘を振り返ったところに、見知らぬ女が走り寄って手首を掴まれた。
「黒川さん、ダメですよ。あらあら、またオムツはずしちゃったんですか! ダメじゃないですか」
その女は、立ち尽くしている娘に、
「あなた今日来た実習生よね? 今から利用者さん達のオムツ交換するから、介護士の手伝いをしてちょうだい。その後はダイニングルームで食事介助よ」
なんだか偉そうに言って、俺の腕を引っ張った。
「黒川さん、着替えましょうね。もうすぐ夕飯だから」
この女はいったい誰なんだ?俺がこの店の主人だってことを知らないのか?まったく誰が俺の許しもなく勝手に雇ったのだろう? それにしてもこの女の腕っぷしの強さはどうだ。俺をどんどん引っ張って行く。
しかも口も達者なようで、すれ違った若い奉公人をつかまえて、
「あなた、スマホはマナーモードにしなさいって何度言ったらわかるの」
 などと訳のわからんことをくどくどと言い立てた。
まあいい。早くあの娘っ子に飯を作ってやらなきゃな。ええと、何を食べたいと言っていたかな……。


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