出島の恋

 窓辺に座って海を見つめているヘンドリックの背中を、お菊は気配を消して見つめていた。出島の周囲に立てめぐらされた忍び返し付きの塀越しに、群青色(ぐんじょういろ)の海が広がっている。
 ヘンドリックは荷蔵役(ヘトル)部屋と呼ばれる屋敷の二階で、いつも夕暮れ時になると地平線に目をやり、日が沈むのを見送るのが常だった。どんなに彼を愛しく思っていてもお菊はその寂しさを癒すことはできない。
 彼の青い瞳には故郷オランダの街並が映っているのだろうか。それとも母や弟や友人の姿なのだろうか。
 四方を海に囲まれたこの小さな人口の島は、長崎の町と小さな石橋で結ばれてはいるが、誰も自由に出入りはできない。貿易のためにはるばるやって来たオランダ人は、ここに幽閉された状態で商いをするのだ。
 ヘンドリックの赤い髪が、夕陽を受けて燃えるような緋色に輝いていた。細く優しい指が、膝に抱いた猫の白い背中を行き来している。
 ヘンドリック以外誰にも懐かないシャルロッテは、哀れなことにまだ知らないのだ。ヘンドリックが明日にはこの長崎の港を離れてオランダに帰ってしまうことを。
「必ずまたここに帰って来る」
 何度もヘンドリックは約束してくれたが、お菊は信じきれずにいる。
女人禁制の出島に入ることができるのは遊女だけだから、自分に執着しているんじゃなかろうか。オランダに帰ってしまえば、自分のことなど忘れてしまうかもしれない。
 お菊がこの先金に困らぬようにと、ヘンドリックがオランダ商館から貴重な白砂糖を、遊女屋経由で送ってくれることになっている。ありがたいと心から思うが、金があったとて、胸をえぐるような恋しさをどうなだめたらいいのだ…。
 翌朝早く、輸出品である銅や樟脳(しょうのう)や青貝細工などを積み込んだオランダ船は三月ぶりに帆を上げた。白青赤の幔幕が張られた船の三本の帆柱の先には色とりどりの旗が潮風になびいている。
 あと二月、あとひと月と、お菊は身を切られるような思いで日を数えていたが、とうとう別れの日がやって来てしまった。
シャルロッテを抱いたお菊は水門に立ち、ヘンドリックを見つめて千切れんばかりに手を振り続けた。
 波頭が秋の陽射しをはね返して煌(きら)めきわたる港内を、大きな船体はゆっくりと出ていく。お菊の涙に揺れる視界の中を、船は地平線に向かって進み、やがてその帆影は消えてしまった。
 
 ひと月が経ち、シャルロッテはなつきもせず、撫でても喉を鳴らしもしないが、なんとなくお菊の目の届くところにいつもいて、それだけでも心が慰められるのだった。
 ある昼下がり、唐船がもたらした恐ろしい情報が長崎の街を駆け巡った。先月出航したオランダ船が、寄港したバタビアを出た直後に沈没したというのだ。
 あまりの衝撃に、お菊はその日から寝付いてしまい、起き上がることもできなくなった。食事も喉を通らず、浅い眠りはいつも悪夢ばかり。しまいには、米の匂いにさええずく有様だった。
 菊を心配して粥を持って来た先輩遊女が、お菊を見つめながら首をかしげた。
「お前さん、もしかして……つわりじゃないのかい?」
 全く思いもかけないことであった。そういえば月のものがしばらく来ていない。ヘンドリックの船が出港する前夜、天井から吊り下げられたガラスの瑠璃燈(るりとう)の下で、骨も折れよとばかりに強く抱き合ったことが思い出された。しかしまさか子を授かるとは思ってもいなかった。
 それからというものお菊は、大徳寺、本蓮寺、長照寺、延命寺に足しげく通って「どうか元気な赤子をお授けください」と心を込めて祈った。御百度参りもしたし、願掛けで大好きな青餅屋の餅も断(た)った。ヘンドリックに二度と会えなくとも、せめてヘンドリックに似た子供が欲しかったのだ。
 冬が来て、年が明け、春が去って初夏になり、お菊は元気な赤い髪の男の子を産んだ。
 
ある朝、不意打ちのように梅雨が明け、海の方から大砲の音が続けざまに鳴り響いた。
 お菊が外に出て沖の方を見やると、いつも湾の入り口に待機している佐賀藩の注進船が全速力で出島に向かっている。今年もまたオランダ船がその美しい姿を現したのだ。
 静まり返っていた出島は息を吹き返し、早速新しく着任した商館長(カピタン)の屋敷で大きな宴会が催されることになった。
 丸山遊郭の老舗(しにせ)である引田屋(ひけたや)に身を置いている菊も、通訳も兼ねて新米遊女とともに出島に赴(おもむ)いた。
 商館長の屋敷は、内階段から大広間まで、廊下に緋毛氈(ひもうせん)が敷き詰められ、五十畳はありそうな大広間の大卓子(フロートターフル)の上には、角のついた牛の頭をのせた皿がでんと置かれて招待客を驚かせていた。
 他にも、分厚い煎餅(せんべい)のようなタルタという菓子や、ラーグーという鶏肉と椎茸とネギを煮込んだものなど、出島でしか見ることができない料理が所狭しと並べられている。
 人の多さと油っぽい料理の匂いに疲れて、菊は「凉所(すずしょ)」と呼ばれる海側の物見台に出た。海から吹き寄せる風にあたりながら、思い出すのはやはりヘンドリックのことだった。
 海底に沈んでしまった肉体を離れた彼の魂は、あの広い海をさまよっているのだろうかと思うと、尖ったもので胸を刺されているかのように痛い。
 その時、涙ぐむ菊の後ろ姿をじっと見つめている男がいた。
 彼の脳裏を、去年の秋から今日までの日々が走馬灯のように駆けめぐった。

 バタビアでの荷下ろしや必要品の積み込みが終わり、もうすぐ出港という時だった。慌ただしく人が行き来する中、ふと桟橋に目をやると、一匹の猫がじっと彼を見つめていた。雪のように真っ白で額に三角のキジ模様が入っている。目が合うと、まるでこっちに来てと言わんばかりにその場をくるくる回った。
 彼は熱に浮かされたかのように船をかけ降りた。しかし手を伸ばして猫を捕まえようとすると、猫はさっと身を翻(ひるがえ)して飛びすさった。そしてまた「こっちへ」と言わんばかりにじっと見つめる。近づくとまた逃げる。まるで催眠術にかかったかのように、彼はついていった。
 いったいどのくらい時が経ったのか、元来た道を帰ろうと思った次の瞬間、彼は切り立った崖から転落して意識を失ってしまった。
 目が覚めた時、彼は見知らぬ場所にいた。薄暗い部屋に寝かされていて、老女と若い男が心配そうに顔を覗き込んでいる。全身の痛みで、起き上がることもできない。わずかに知っているバタビアの言葉と身振り手振りで「自分はオランダ人で船に戻らなければならない」と伝えたところ、船は三日前に出港してしまったという。
 祖国に帰ることもできずに途方にくれたが、バタビアにはオランダ東インド会社の商館がある。なんとか歩けるようになって、その商館を訪ねると、そこで彼は恐ろしい話を聞かされた。自分が乗っていた船が、バタビアを出て間もなく嵐にあい、沈没したというのだ。全身に鳥肌が立った。あの時、猫を追いかけなければ、今頃自分も海の藻屑(もくず)となっていたのだ。彼はその場に崩れ落ちた。
「シャルロッテ!確かにあれはシャルロッテだった!」
 ヘンドリックは、翌年の夏に出島に向かうオランダ船が寄港するのを一日千秋の思いで待ち、やっと出島の土を踏むことができた。

 溢れる涙をぬぐいながら、彼は涼所に足を踏み入れた。一日たりとも忘れたことのない人が、涼しげな藍染のちりめん浴衣を着て海を見ている。
青の地に白い撫子(なでしこ)が乱れ飛ぶ着物に、見覚えがあった。 
ヘンドリックは、その背中に優しく声をかけた。
「菊……」
 
 

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