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死∩生(シ・カツ・セイ)クリムトの抱擁 —クリムト展2019雑感

※死についての描写があります。

突然のチャンス

土曜日、私はポーカーの大会の予選に負けて、自分に負けて、スミノフを開けて、女の悪魔の名前を持つディーラーに相手をしてもらって、まだまだ明るいうちに外に出た。

その時まだ気付いていなかった。
クリムト展が歩いて行ける距離にあると。

自分が歩いている池が上野不忍池だと気付き、上野東京都美術館に向かった。


いつものように間違えて西洋美術館に向かい、それから東京都美術館に辿り着いた。

当日券があるかよくわからなかったけれど、もし入れなくても傍に行きたい。

入れるとわかった時は嬉しかった。

入場まで30分並ぶ。そうすると閉館までは1時間。

入場すると、私は好きな絵を探しに行く。
順番に観るには、時間も体力も残っていないから。

地下1階から入って、1階へ進む。
大きな絵は上にあった。

抱擁

暗い場内から、光射すような部屋が見える。

そして、

大きな大きな「クリムトのゴールド」が、遠くから見えた。

『ベートーベン・ブリーズ』の最後

まだその区画に入る前でも、放つゴールドを浴びて、涙が出る。

やっと会えた…

近付くにつれ、何が描かれているかわかる。

抱擁。

あまり知らない絵だ。けれど知っているクリムトの抱擁。

クリムトの描く抱擁に出会いたかった。
ずっと、会いたかったよ。

小さな頃から惹かれ、実家にいる時から『接吻』を傍に掛け見続けていた。キラキラとした金粉を散りばめられた、少し豪華なカレンダーの表紙を額に入れただけなのだけれど。

私は、美術“史”的名画に興味はない。
この電網の中で天才達は炙り出され今を生きていて、その“史”とは無関係に消えぬようゆらめいているから。

けれど、クリムトの抱擁は、これ以上無いのではないかと感じる。

胸が締め付けられる人物姿勢だけではなく、色で、模様で、愛が描かれている。

凝縮された愛を、目に届く所に置いて、見失わないようにした。

絵を飾るという言葉は全く合わない。

飾りじゃない。

クリムトの描く抱擁はずっと側に居た。
例えほぼ全てを失っても。

私にとって、最後に残るものの象徴だった。

出会えた。
それは、『ベートーベン・ブリーズ』という一室を囲む巨大壁画のラストシーンなのだけれど。

『ベートーベン・ブリーズ』

それは、ただのハッピーエンドだ。
愛の抱擁。
それ以上無い、ただのハッピーエンドだ。

男の背中の筋肉のひとすじに、全てが入っている。

時が動き出すまで、立ち止まる。

完璧な母子姿

時が動き始めると、次の抱擁を探す。

階を更に上がると、どうしようもない抱擁に出会う。

母に抱かれる赤子と、赤子を抱く母。

『女の三世代』

それは完璧な愛の姿だろうか。
完璧な愛の姿である。

それは真実だ。

何故なら、こんな風に赤子を抱いている時、完璧になったと感じると、知ってしまったから。

今頃祖父母と遊んでいる娘を思い出す。

ミケランジェロの『ピエタ』の母子像も凄いが…

ところで母子の完璧な姿に性別は関係ない。
父子でも祖父孫でもその時、完璧になる。

血の繋がりも関係ない。「今、この子が自分の子であるか」そう認識するかどうかだ。

母子とは認識により発動する概念だ。

経験して、そういうものだと実感した。

グスタフは男性で、この抱擁を描き残したことがその真実を証明している。

時が動き出しているのか出していないのかわからないまま、歩みを進める。

小さなスケッチや絵が並ぶ。


死顔、死顔、死顔。


それまでも、展示に時折死顔が並んでいた。

混雑していなければ、近付いてよく見たのだけれど。

しかし母子の『女の三世代』の直後には、いくつもの死顔と、乳幼児の死顔も混じっている。

これは…

その区画の最後に、大きな黒い絵があった。

『家族』

目を瞑り、眠る小さな兄弟と母。

この絵も電網で見たことがある。
その時には、はっきりとはわからなかったけれど。

実物を観て、確信する。

死んでいる。

ハッとした。


そうか、そういうことか。


私は、子供を産んで、人に理解されないであろう感覚を知った。

0才の乳児を抱いていると、どうしようもない完璧感が溢れて、粉々になりそうだった。

その時精神は粉々だったのかもしれない。

いつか、地球が壊れて、私たちの子孫が——この可愛い娘の可愛い子や、その子供の、その子供が粉々になるというのなら、今がいい。

隕石が墜ちるというなら、今、赤ちゃんを抱いている私に隕石が墜ちろ。

そして、私と娘は、粉々の原子となって混じり合う。

本当に一つになって、一緒に還りたい。

そんなことを感じた。

私は、「母子心中」なんて全く理解できず、赤ちゃんの未来を考えたら大人一人で死ねばいい、赤ちゃんは置いていけと、どこか合理的か非合理的かで考えていたけれど、少しわかってしまった。

可愛いから、死ぬなら一緒に死にたいのだ。
子供の未来を考えることも奪うほど、赤ちゃんの今が凄絶に、愛おしいのだ。

それから、妊娠を望んでいる期間は、毎回死があること。

避妊をしていないなら、60パーセントで受精し、その半分が死に、生理様となる。

妊娠を望んでいるのに生理が来たら、受精をしていた可能性が半分あるのだ。

それは「ただの生理」と、医療上はそう言うことになっている。

けれど、私にとっては受精卵は可愛い子供で、それが分裂を止めたなら死だ。

早期検査薬がなければ、認知できない死だと思う。
けれど、それまでも女性達は認識はちゃんとしていた。
だからあんなに、辛く苦しく悲しいのだ。

そして、エコーで受精卵着床が確認され、医療的にも妊娠となったあとの流産の確率。
その高いこと。
経験している女性の多いこと。

愛しい子。
生きて生まれなかったけれど愛しい子達。
こんなに沢山居るんだ。
検査薬に出て、お腹に熱い存在感を感じて、それから血とともに出て行ったあの子。
あの子だけじゃなくて、私は沢山の死を抱いていたんだ。
妊娠を望んでから妊娠するまでの間、女性は小さな小さな死を体の中に抱いて送る。

知れて良かった。

小さな小さな知られない死を送ることも、母親の役割なんだ…まだ、娘を受胎する前に、その真実を知ることができた。


そして、死産や、子供の死を経験した人の手記に触れる機会が多くなる。
辛い、知りたく無い、けれど可能性がゼロじゃないなら。やはり知りたい。

知る。
死産。死、と同時に、出産の幸福。赤ちゃんの顔を見れる幸福。可愛い赤ちゃんの姿。愛おしさ。

生者には辿り着くことのできない、安らかな顔。
死の中の幸福。

愛は、生だけのものではない。

そこまで、そこまでクリムトは描いたのか。

今の画家で、死顔をスケッチした画家はどれほど存在するだろう。

愛は、生だけのものではなく、
幸福も、生だけのものではなく。

黒い絵の中、眠る家族。

彼は、死を描くから、あのゴールドの生命を描けるのだ。

展覧会に来て、それを体感することがきたのが、一番の価値であった。


『亡き息子オットー・ツィンマーマンの肖像』

絵で語りたい人を前にしたら最初に絵だけ観る、音楽で語りたい人を前にしたら音楽だけ最初に聴く、そんな私なので、時間の限られた展覧会で文字はほとんど読んでいない。ここまで書いてやっと、乳幼児の死顔がグスタフの息子さんだと知る。


他の作品

『ユディトI』

他、『ユディトI』は大変人気で接近を諦める。かっこいい。

画像はないが、Otto Friedrich作のGabrielle Gallaもとても心を惹かれた。

今回展示されなかった作品

『接吻』

実は観れると思っていた『接吻』。今回は来ていなかった。またいつか会いたい。

『ダナエ』

ダナエも絶対会いに行きたい画。

9月まで開催されているのでまた行きたいです


フォトエリアにて

なんと、後ろに並んでいた、中島みゆきさんのような婦人が、娘のついでにと撮影してくれた。

大会と展覧会で精神力が果てた私はぼーっとして、「娘さんと一緒に撮る」という選択を見付けられなかった!

会場を出てから地団駄を踏む。


外に出て、人と接すると、可能性の束が見える。

そして、その中から、なんでそんなのしか選べなかったんだろう!と、もう届かない過去の束を振り返り、光ファイバーのような束の重さに汗を掻いてしまう。

何もできない子供の時よりは、面白いファイバーを選択して楽しむことができている。

でも……

まだまだ。



非常に充実した日となった。

無茶なポーカー大会参戦を後押ししてくれた旦那、大会中フォローしてくれた方々、娘と遊んでくれたおじいちゃんおばあちゃん、娘、ありがとう。



画像はWikipediaまたは著作権フリーサイトから引用しています。


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