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MOTHER【第一回逆ギレ王決定戦最優秀賞受賞】

追記:なんと最優秀賞を頂きました!ありがとうございました。受賞のことばはこちらです。



MOTHER

小さな商店街の小さなスーパーだった。

だから店主は、主婦のお遊びのような万引きであっても強く咎めることができなかった。

「もう二度と来ないで下さい」

その言葉を言うことができたなら、少しは店主としての尊厳を回復できただろうか。

店主は傷付いている。この店は、親の代まで八百屋だった。彼が中学を卒業する頃にはもう、両隣の店が仕舞い、更にその隣まで空きテナントになってしまった。

それでも両親は八百屋を畳もうとはしなかった。商店街に人が少なくなればなるほど、顔なじみとの間の連帯が強くなる。

うちが畳んでしまったら、ほとんど動かない片脚の訓練だと言って杖で少しずつ歩いて来る独身のおばあさんや、妻に先立たれて認知症が進み、それでも毎日買い物に来るおじいさんはどうなると言うのだろう。

両親の気持ちが痛いほどわかった店主は、高校在学中に簿記の資格を取り、経営の勉強をしていた。
インターネットが趣味だったので、散らばる幾多の情報をパズルのように組み立てることは苦にならなかった。

大手チェーンフランチャイズへの加盟も、何度もシュミレーションしたし、説明会や勉強会にも出向いた。
FC加盟のメリットは重々理解したが、確執や軋轢、そんなものが見え隠れする。
この店の系譜には…、いや、経営者となる自分には、色が違う選択のように見えた。

彼は、インターネット上で情報を発信するのが好きだった。それを活かしたかった。
もし大手スーパーの1店舗になったら、それができない。

自分で店をプロデュースしたかった。この町の少ない人口のニーズに応えながら、新しい繋がりを開拓をしたい。
それから、両親の八百屋の仕入れルートは貴重なもので、仕入れルートの優先順位を変えたくなかった。

個人経営のスーパーを開店してからは、試行錯誤の連続だった。
学んだことと、実際にやることとは違う。

しかし、町の人たちがいつも支えてくれた。働き先を欲しがっていた町の主婦は感謝してくれた。パート代が安くても頑張ってくれた。
仕入れ先とはお互いに感謝が絶えなかったし、軌道に乗ってからは、宅配サービスやカフェサービス、子供の多目的スペース、ネット設定サービスまで展開した。
ネット設定サービスは高校生の良いアルバイトとして人気だったし、町の高齢者の世界が広がり、若者との交流が生まれる様は、夢が少し叶ったと言えるのかもしれないと、零細企業なりに感慨深いものがあった。
仕入先も代替わりして、2代目が継ぐことが多かった。
彼らとはビジョンが似ていて、話しやすかった。彼らの新しく育てた洒落た野菜や果物を、よく店に出した。
良くわからない新しい野菜も、パート達と相談してネットで調べると美味い調理法がいくらでも出てきた。

新しい試食や惣菜の調理担当をパートに任せると、いつもお客さんと盛り上がっていた。

万引きは、定期的にあった。どこの店もそうなのだろう。

若者や、高齢者、主婦、子供もいた。間を置いて、どうしても出現する。そんなものなのだとネットでも見た。病気のようなものらしいので、悩んでも無駄だと自分に言い聞かせた。

でも、狭い町で、頑張っている自分の店で、物を抜き去って行く。
金額の問題というより、店主はその事実が悲しかった。

それでも、彼らの殆どが顔見知りだった。

万引き少年や少女の親を呼び出す。そうしたいのではなく、そうしたほうが良いのだろうと感じていた。
絶対に親に関わりたくない子なら、万引きなどのリスクは犯さない。
そういう可能性があるとわかってしているのだから、どんな親だって呼んだ方がいいのだ。
泣く親、殴る親。

万引きはきっと何かどうしようもなさの表層化なのだ。
この店は、それを直接ぶつけられた被害者であり、俺は第三者ではない。その行く末を見届けてなければならない。

お店を構えるって、そんなことなのだ。

店主は自分に言い聞かせた。

高齢者の場合も同じだ。家族に連絡する。怒った娘さんや息子さんが来ると、やるせない。
彼らの身になると暗澹たる思いだ。万引きの親を迎えに行くなんて。
皆、怒りと謝罪でいっぱいだ。
本人はと言うと、娘だけには、息子だけには言わないでと言うけれど、100パーセントそうなら絶対やらないのだ。

身寄りの無い高齢者は…。
もっとこちらが辛くなる。万引きをすることで、やっと血の通った言葉を向けられる。それが怒りや嘆きだとしても。ただただ謝っている。泣いている。

顔を背けて、警察に電話する。迎えに来てもらう。

被害届けは出さない。

警察も調書は取らないだろう。小さな町の交番だ。
迷子のように、あの常習犯のおじいさんも住処に返されるのだろう。

もう来るな、と思う。
その自分に辛くなって、すぐに、また、お越しください、と思う。

だから店主は、どんな万引き犯にも、もう来ないで下さい、と、言ったことはなかった。

主婦の万引きはタチが悪い。娘や息子に知られたら、どうするんだ、と思う。
小さな子供を傷付けることだけはするなよと思う。

自分は知っているんだ、娘のことも、息子のことも。

絵に描いたように幸福そうな家族が東京から越してきた。
少し、景気の良くなったこの商店街に店を構える自分としては、自分のおかげのように感じられて嬉しかった。

娘は、自分の姉の息子、甥と同じ小学校に通っているじゃないか。

どうしてそんな危険なことができるのか、病気だとしても、店主は理解に苦しんだ。

もう三回目だった。

店主は、彼女の悪びれない反応に、苛立っていた。
夫に言わないで下さい、家族が、そんな風に懺悔しようとしないのだ。

まるで、店主である自分が店を築いた思い、どんな客にも強く言えないこと、そんな心中を、見透かされ馬鹿にされているように思える。

だから、もう知るか。

「警察に通報しますよ」

店主は言った。

「取りましたよね。商品棚からこの瓶詰めを」

オリーブの瓶詰めだ。
商品の中では安くは無いし、美味いので店主は好きだった。
そんな商品が万引きされたことも、怒りを増幅させた。

彼女は口を開いた。

「……つ、です」

表情を変えずに、何かを主張している。

聞こえなかったので、店主は眉をひそめて口を見続けた。

同じように淡々と彼女は主張した。

「商品棚は私のパンツです」

はあ?
意識の低い語音が、口からそのまま出てしまった。

「商品棚は私のパンツです」

どういうことだろう。考えたくないけど考えなければならない。

「商品棚は私のパンツです」

やっぱり考えたくないな。自分のパンツの中の商品を取っただけだと、言いたいのか?

「商品棚は私のパンツです」

なんか責めるような口調に変わった気がする。
自分のパンツに、商品を入れたほうが悪いってこと?

「商品棚は私のパンツです」

他人のパンツに商品を入れたら何罪になるんだっけ?
暴力?
…やっぱり性的な犯罪の種類になるのかな。

「商品棚は自分のパンツです。おまわりさんを呼んで下さい」

やっぱりそうだ。俺が商品を並べた商品棚だと思っていたのは、自分のパンツ。そう言いたいわけだ。
店主は言った。

「それはやめて下さい」

あ、違う。警察を呼びたいのは自分だった。

「商品棚は、このお店の商品棚です。その商品をあなたが獲ったんです。警察を呼びますよ」

どうにか気をとり直した。彼女がやっと違う言葉を発した。

「商品棚は、このお店の商品棚ですか?」

良かった。話を聞いてくれたようだ。

「そうです。このお店の、商品棚です」

貴女のパンツではありません、そう言いたかったけれど、口に出したら負けだと思った。

「このお店は、私のパンツです」

酷い。酷いことを言う。

「ここは俺が作ったお店。元は親の八百屋。あんたのパンツじゃないよ」

素の自分が出てしまった。
それでいい。この商店街では、余所行きの顔なんてない。

心がある。支えてくれた人は少なくない。今もパートさんが店を回している。
俺だけの店じゃない。この町の皆の店なんだ。

「俺の店だよ」

こうなったら、とことん付き合ってやる。
向こうが根負けしてきちんと謝るまで幾らでも言ってやる。悪いのは向こうだ。

「あなたの店ですか?」

「そうだよ。俺の店の物盗るなよ」

幼児を相手にしているようだ。

「あなたの店ですか?」

「そうだよ。この町の皆と助け合ってここまでになったんだよ。この店のもの盗ったら皆怒るよ。悲しむよ」

「悲しみますか?」

「悲しむよ!」

やっと解ってくれそうだ。向こうが泣いて謝るまで言ってやる。俺が泣いている場合じゃ無い。なんだか視界が滲むけど。

「この町は、私のパンツです」

店主は深い溜息を吐きながら、膝に肘をついた右手に顔を沈ませた。手にも額にも汗が滲んでいる。
万引き犯をバックヤードで問い詰める時には目を逸らさないように気をつけるが、今回は無理だった。

「…わかりました」

わかりました。貴女に話が通じないのは。だから、警察を呼びますね。その略だった。

「わかりましたか?」

彼女の声が聞こえた。だがどこか遠くから聞こえるようだった。疲れた。ミルクティーが飲みたい。そろそろ店の深津さんが休憩の番だったはずだ。俺も店に出ないと。
早く警察にお任せしよう。

汗が滲んだ手から、顔をあげる。
なんだか薄暗い。
そして、さっきまで椅子に座らせていた万引き犯の姿が無い。

逃げた?そんな気配は無かった。

周りを見渡すと…

おかしい。照明が違う?薄暗いというよりは、薄明るい。

「この店は、私のパンツです」

突如、女の声が聞こえた。聞こえたと言うよりは、響いた。上から響いた。店内放送か?

店主は息を飲んで、上を見上げた。

すると…

天井が、無かった。
天井が無く、蛍光灯もない。上の空間はどこまでも霞んでいるが、壁は見える。壁は上に向かって続いている。壁は真っ直ぐではなかった。
柔らかい薄いピンク色の布地だった。
布の壁がどこまでも高く続いていた。

サーカスの天蓋か?

動悸と震えが始まるが、まだ大丈夫だ。スマホも握り締めているし、ドアもある。
外には出られるはずだ。

店内BGMも流れ続けている。けれどどこか歪んで聴こえる。

「この店は、私のパンツです」

上から声が響き、同時に上界へ続く柔らかな壁が波打って震えた。
振動で棚に置かれた書類達が落ちてしまった。

目眩がする。

壁はゆっくりと呼吸するように揺れ続けている。

ここから出なければ。

店主は壁に向かって少しの距離に足を出した。何故だか床までも柔らかくなっている。

ドアレバーに手をかけ、開いた時には助かった!と喜びで心臓が跳ねた。
この空間から出られないような気がしていたから。

周りを見渡した。良かった、店だ。棚がある。商品が陳列されている。けれど…けれど…

やはり、天井が無くて、その代わりに布の壁が上空に続いていた。

くそ!この空間から出られるかわからない。

「深津さん!」

居るはずのパートの女性の名を叫んだ。

「深津さん!遠山さん!大丈夫ですか?!誰か!」

床も柔らかい。

商品は、どこか輪郭がくっきりとせず、それらも色と形が仄かに歪んでいるようだった。

返事をしてくれ!どこに居る?

レジへと向かった。お願いだ!居てくれ。一人にしないでくれ。

深津…

姿が見えた。レジ内に立っている。

良かった!すがる思いで駆け寄る。

この状況で、呆然としているのだろうか。まるで客を待つように彼女は立っていた。

息を切らしながら、店主はレジへ駆け込む急いだ客のようだった。

「深津さん?大丈夫ですか?」

店主は彼女の前に立って、顔を見た。
違和感がある。
こんな異常事態で、俺は深刻な顔をしている。深津さんも同じ表情をしていたら良かったけれど、どうして彼女は微笑んでいるのだろうか。

「深津さん、大丈夫ですか?」

呼びかける。こちらを見ない。笑ってる。
でも口を開いた。

「店長。気持ち良いですねェ」

そして気持ち良さそうに微笑んだまま立っている。

正気を…失っているのだろうか。
俺が正気を失っているのだろうか。

気持ち良い?

気持ち悪いだろう。床はぐにぐに。全体的にグニっとしていてスッキリしない。
しかも生温かい。

照明は薄暗く、仄かに明るく、目が休まる。
休まる?
深津さんをもう一度見た。微笑んで、目を閉じている。
休んでいるのか?

確かにもう休憩時間に入っているはずだ。
だから休んでいるのか?

もしかしてここは休憩所で、俺の空間認識能力がエラーを起こしているのかもしれない。
では、深津さんと一緒に休まったほうがいいのかもしれない。
ひとまず深津さんに倣い、呼吸を深く落ち着かせる。

なんだか温かいな。
それでいて暑くはない。
うん、ここは休まる。日頃の疲れが取れますね。

待て待て。締まろうとするドーパミンの蛇口を力を籠めてこじ開ける。

取り敢えず店を出よう。この空間を出よう。
難しいかもしれないが出来る限りのことをしよう。

レジからすぐにガラスの大きな自動ドアがある。
外から光が入っている。
きっと出られる。いつも透明で見渡しの良いガラスが今は曇りガラスのようで、はっきりとは見えないけれど明るい感じがした。

自動ドアは効かなかった。こじ開けることは、頻繁にメンテナンスで行うので造作もない。

明るい。霧が深いのかもしれないけれど外に出れるようだ。

ふわっ

花が咲いているのか?地面にふわふわした淡いピンクが咲き誇っている。

商店街の道路に花が咲いた。

なあんだ!異常気象だったのか。
それならこれまでのことも納得できる。

異常なのは俺ではなくて気象だった。花畑に出たので店主は取り急ぎスキップをした。
外に出られた。
ちゃんと他の建物もあるし。

相変わらず、布地の壁が遠く近くに見える。

でも異常気象なら仕方がない。

例え、足下の花畑が、全てレース飾りだったとしても。

「この町は、私のパンツです」

上空から…天から声が響いた。声というよりはそのような音波だった。

そうかよ。なら、出てやるよこの町を。

店主は心のどこかで諦め、受け入れながらも、足先にだけ反骨心を集めて歩き続けた。

車はやわらか戦車のようになっていたし、道行く人はみんな、幸福そうに笑って佇んでいた。

この世界は正しいのかもしれない。

交通事故で誰も怪我をしないだろう。

全てが柔らかく、温かい。

誰もが皆、幸福なのだろう。

優しく包み込まれ、護られている。

異性愛者の男で、女のパンツの中から出たい奴が居るだろうか?

いや同性愛者でも女性でも関係ない。女のパンツの中というのは優しく護られている。幸福が約束された場所だ。

「この町は、私のパンツです」

町境いの橋が近付いて来た。橋の下に流れる川もピンク色にキラキラと光っている。

ああ、なんという甘く輝く液体…

歩き続けた店主は、喉が渇いていた。
あれを飲んだら、過ぎ去って来た町人達のようになれると思う。

「この町は、私のパンツです」

いやしかし!

俺だけは出るだろう。
この温かく幸福なパンツの中から出てやる。

お前は確かに、俺の店の商品を盗ったんだ!
お前がなんであろうと、万引き犯なんだよ!

「ああああああああああああああ!!」

店主は全力で橋を走り抜けた。

橋を渡り切り、隣町に足を踏み入れた、そう思った瞬間。

目の前に現れた壁に身体全体をぶつけた。目を瞑っていたので、いつ現れたかはわからない。でも、目を開きたくはなかった。

「うう…」

壁は、柔らかかった。でも布ではなかった。身体を伝うのは弾力よりも、押し込まれる感触だった。

「うう…」

人肌だった。両腕を開いてのめり込んでいるので、抱き締めているのと変わらない。
それはどこで終わるかわからない巨大な肉塊だったが、人肌であることには変わらなかった。確かに人肌を抱き締めていた。

走って来た自分が熱いせいか、滑らかな肌の壁はひんやりとしていた。気持ちが良かった。

パンツの町は確かに抜けたんだ俺は。でもこの町は…

「この国は、私のパンツです」

そうか、パンツを履いている人が自分のパンツ、という場合、パンツの中身も暗に指すかもしれないな。
その中でも確かに俺の町はパンツ成分が高かったんだ。
日本国土がその、パンツである場合、布地の成分というのは希少だ。幸せな顔をしている人が多くてもおかしくはない。

「う…」

でも、ずっとこうして肉を抱き締め続けても仕方がない。

此処ではない、何処かへ!

幸福でなくても、冷たく尖った固い鉄の乗り物が、乗り手が操作を五センチずらせば命が飛び散る世界でも!

俺はここから出るんだ!!!

店主は叫びを上げて、肉の壁を抱き締めた手を、更に挿し込んだ。
手がよく沈む。このまま窒息するかもしれないがもういい。

店主は、柔らかな肉の壁の中に、自らの身体を挿し込んだ。

身体の感覚と自由を全て肉に奪われる中、声を聞いた。



「この地球は…、……きゅうは、私のし…………きゅう…は…………」



窒息するかと思ったが、苦しくはないな。息ができているのかは、わからない。
重力が無かった。暗いけど、明るかった。
見えないけれど、眼下に海が見える。空は晴れている。
夢とは違うとわかった。
夢は、思考からはある程度解放される。
でも、感情はある。だから夢から覚める時は大抵感情の波の衝撃で覚める。

けれど、感情からも解放されていた。
ああ、こうなんだな。
感情からも解放されるとこんなに軽いのだな。
店主は飛んでいた。
思えば何処でも行けそうだとわかる。

何処へ行こう。

その時、人影が見えた。
夫婦だ。

あれは…

「とうさん?かあさん?」

静かだった心に、熱い雫が二滴、落ちた。

近付くと、確かに父親と母親だった。

父親は、店主が店を構えるのを見届けるように、急な病気で他界した。葬儀には八百屋時代の知り合いが結集したので、皆が全力で店主の力になった。

そのため葬儀や後の喪失感を感じる暇もなく、店の成長が速まった。

「とうさん…」

とうさん、俺の店、大きくなったよ。良い店だよ。
言葉にならない。が、目の前の父親は満足そうに笑っている。

父親の一年後、母親も静かに亡くなった。
もっと見守っていて欲しかった。

「かあさん…」

かあさん、俺、こんな歳で嫁さんまだいないんだ…。ごめん…。

気にするな、というように、母親も満足そうに笑っている。

とうさん、かあさん、ちゃんと見てくれている。
だけど、生きて見ていてくれたら……とうさん、かあさん、もっと旅行に連れて行ったり、旅行に連れて行ったり…あれ、親孝行ってあんまり思い浮かばねえ…。

シンプルに洗い流された心が、波打っている。

そして周りも波打っている。
暗く明るく、冷たく温かい、この空間が波打っている。

誰も傷付けない世界。
何もかもが柔らかく温かい世界。

どうして俺は、そんな世界から出ようとしているんだろう。


でも行かなきゃいけないんだ。
傷付け合わないといけないんだ。

そうして何が見つかるのかは知らないけれど、傷付かない限りは何も見付けられないんだ。

だから俺は万引き犯を捕まえる。

世界が波打っている。苦しそうに。
収縮している。世界は痛がっている。

産まれようとしている—









はっ!

目を開けると、店のバックヤードのテーブルに突っ伏していた。

天井を見上げる。
殺風景で蛍光灯風LEDが点いている。

天井がある…。天井がある…。

心臓の鼓動が凄い。夢だったのか。汗だくで、震えている。

なんて夢だ。なんだったんだ。

ガチャン。

出入り口の扉が開く。

パートの深津さんが入ってきた。

「あれー?店長今起きたんですか。凄い良く寝てて、全然起きないから。休憩遅らせましたよ(笑)大丈夫ですか?休憩行って良いですか?」

「ああ…はい。ごめんなさい」

そうだ万引き犯は?それが始まりだった。
深津さんも知っているはずだ。必ず声をかけるので。

「午前中に万引き、ありましたよね?女性の」

「まん…びき…ですか?なんですか?それ」

「ああ…窃盗の。オリーブの瓶、盗られそうなのを深津さんが教えてくれて、俺が現行犯で…ここ連れて来て…」

彼女の顔がどんどん曇っていった。

「えー何言っているんですか。嫌だ怖い。そんな夢見たんですか?」

彼女の顔があまりに曇るので、それ以上は言えなくなってしまった。


彼女が休憩に出ている間、レジに立った。何も変わらず、日常に戻ってきたことを実感した

しかし、万引きは夢ではなかったはずだ。休憩から戻ってきたパートと交替した店主はすぐに、タブレットの店の管理アプリを開いた。

これまでの万引きについて記録してある。

しかし、見つからない。その項目自体が消えている。

彼女の反応が気になって、ブラウザを開いた。

「まんびき」

万匹。変換候補はそれだけしかない。
検索結果も、大量の魚の話ばかりだ。

「せっとう」接頭、「ぬすみ」偸み。盗むという漢字の存在が消えている。

漢字だけではない。概念そのものが消えてしまったようだ。

殺人、事故、あらゆる犯罪が消えている。

明るいニュースしかなかった。

店主は、日常に戻ったが、夢を見る前と後で異なっていた。

車にぶつかるとどうなるのか。
車体がポヨンと跳ねてバウンドするらしい。そういう素材で出来ているそうだ。

物理法則が変わっている。
命を傷付けるものは無いようだ。
病気で苦しむこともない。
死期は大体2年前から本人が勘づき、その時を穏やかに待つ。
皆子供の時からそんな大人を見ているから、死期を知ることが怖くはないらしい。死後、幸福でいつでも側に居られ、寂しくないことも解明されているらしい。

だからなのか、人の心も変わっている。
人が人を、命が命を傷付けようと思わない世界のようだ。

店主は、なにもかも変わってしまったこの世界で、不自由を感じなかった。

あの万引き犯は一体何者だったのだろう?
でも今やそれはどうでもいいことだ。

まるで、夢の前に居た世界が、悪夢のように思えて来ていた。
傷付ける世界。
傷付く世界。
苦しい世界。
逆ギレされる世界。
斜に構えなくてはいけない世界。

いや、もう忘れよう。あんな悪夢のことは。

命より大事なものがあるだろうか。
心より大事なものが…

棚の上で、ピンク色の液体と赤いオリーブの実が揺らめいていた。

















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