3.11の原発事故により、実家が未だに帰宅困難区域な人の、震災当日から数日後までの話。

 想像以上に自分が疲れていることを知った。
 加えて、最近文章を読んでいないせいで酷い文章しか書けないことに気づいた。
 インプットの方は疲れるししんどいし何もやる気がしないときにするものではなく、前回の記事を読んで感じた余分な情報をできるだけ減らして事実だけを書いていく方が良さそうだな、と判断したもののそれをできる脳の状態でもないので、まあこういう前書きは私がそうしようとしてるんだな、くらいに思ってもらった方がよいかもしれない。
 
 前回までに書いたのが11日の夕方くらいで、水やトイレットペーパーを買いだめする人、公衆電話に並ぶ人を見ながら、一瞬だけつながった母との電話を思い出しながら帰った気がする。母方の祖母の家から自転車で10分から20分かからないくらいで、都下であり住宅街を横切る形の経路だったために、買いだめ以外の混乱は見られなかったと記憶している。
 スーパーに置いてある、普段は一切気にならない公衆電話に、何人か並んでいたのは覚えている。あ、ここも公衆電話あったんだ、って私も思った。
 それから家に帰り、もう一度テレビとネットで情報を集めていたら、原発がやばいらしい、という情報が入ってきた。
 それに加えて東海村JCO臨界事故の当時の状況をその時になって初めて詳細に読み、一気に怖くなって、もうこれはだめだから早く避難してくれと実家に電話を試みたけれどもやっぱり不通で、公衆電話なら比較的通じやすいという情報を信じて、アパート近くの大学前にある公衆電話に向かった。
 もう何人も待っていたり、代わる代わる電話をかけてまた並んだり……で、私も通じたのか通じてないのか記憶にないけど、たぶん通じなかった。
 そこで一緒に順番待ちをしていた人に「大丈夫?」って気にかけてもらった。自分がどんな顔をしていたのかわからないけれど、混乱の最中で自分も公衆電話にすがろうと来たお姉さんに心配される程度にはひどい顔をしていたのだろうか。
 この後利用する公衆電話はもっと近いところにあるものに変わって、当時は通話代がかからないように制限を解除されていたから、100円玉を持って度々部屋を出たり、何度も母の携帯の番号を押した。住宅街且つかなり大きな街道沿いの公衆電話だったからか、私以外に並んでいる人も居なくて都合がよかった。
 何回電話をかけたかも覚えていない。
 11日の20時前、繋がった電話で、原発がやばいから避難するように伝えた。
 同じ電話かは覚えていないが、避難することにして、祖父母と従弟と妹と母は、従弟の母方の家がある三春まで避難することを聞いてほっとした。
 と同時に、父は消防団で安全確認や避難誘導をしなければならなくて別行動になることも聞いた。
 そして、犬が含まれていないことも聞いた。
 犬は、と。
 母は言葉に詰まって「……ごめん。」とだけ言った。祖父母、従弟、妹、母。5人で一台の車はたぶんいっぱいで、荷物とかもほとんど持ってなくて、着の身着のままで出てきたんだと思う。でも私はたぶん電話で泣いてしまったか、その時は「そっか」って言って泣かなかったかもしれない。
 とにかく犬は一度置いていくしかなくて、地元の防災無線で20時には「原発が危ないから避難して」と避難勧告が流れたのを聞いた。
 それから夜中もずっとテレビを見ていて、気仙沼が火事になって、真っ暗闇の中で火事だけが煌々としていて、ネットではあれこれ情報が錯綜して、Twitterでやり取りしていた地元の、海沿いに住んでいる後輩が辛うじて津波から逃れたことを知ったりしていた。
 また夜中に原発の情報は次々と更新されて、もう東京もだめかもしれないから早く逃げられる人は逃げてくれ、とかそんな話になっていた。
 100円玉を握りしめて上着を羽織って公衆電話に向かった。
 夜中になって、比較的電話はつながりやすい気がした。
 母の携帯を鳴らすと、三春の親戚の家の離れを貸してもらってみんな一応は寝れたみたいだった。でもネットで集めた情報から絶対によろしくないし、そのうち三春にも居られなくなるだろうというのは私も母も把握していて、何かあったら母に電話するようにという流れになった。
 部屋に戻ってもネットとテレビでの情報収集を続けた。東海村の事故の記事は、見れば見るほど怖くなって眠れなかった。
 それでも、自分も都内である程度の揺れに襲われて、テレビの映像にもネットの情報にも疲れて、未明頃には意識が途切れていて、早朝の父からの電話で目を覚ました。
 多分、12日の朝5時とか7時とかそのくらいだったと思う。父一人が家業の工場の社用バンを私的に使ってただけなんだろうけど、それに犬も乗せて三春に着いたところだと。
 確か、犬が取り残されなくて、父も無事に避難して、三春の家は断水もしてないからお風呂とかも入れて一息つけたって話も聞いて、ものすごく安心した。心底良かったと思った。
 
 20時の、町内の広報での避難勧告が出てからその日のうちに避難のバスか、翌日か、とにかくどちらかわからないけれども、町主体の避難は若干、最初の原発の爆破を間一髪で免れたか免れてないかくらいのタイミングで、私が外部から情報を渡してた我が家は、そういう集団避難よりやや早く町そのものから離脱できたと、後日祖父母から「あなたのおかげで早く避難できたのよ」と毎年言われることになった。
 それと、町主体の集団避難先も三春で、先についていた祖父母や両親はそのバスが来るのを見てたらしい。
 ただバスの方はこれからさいたまスーパーアリーナに一度向かい、その後埼玉県加須市の廃校や借り上げ住宅で避難生活を送る人たちになる。
 
 最初の祖父母と従弟と母と妹の避難は夜間、見通しの悪い山道を、道路が崩れていないか、がけ崩れが無いか逐次確認しての山越えになったから、相当気を使った時間だったんだと思う。
 父は運転も上手いし、朝方になってのことで、バンに犬だけでなんとか通れたんだと思う。
 私は三春の家には一度も行ったことが無いのだけれど、288号線の山越えは大変だというのは身をもって知っている。幼いころに何度も山越えで車酔いして吐いた。
 
 ただ、三春に避難しても状況はやっぱりよくなくて、特に中学生だった妹と従弟のこともあり、三春の従弟の祖父母は年齢から被爆しても被害は恐らく最小限であることと、母方の実家が都内であることから、父方の祖父母と両親と妹と従弟全員が、一度三春での休息を経て、交通情報を頼りに、津波被害のない中通り会津方面の東北道等を経由して、震災の翌日か翌々日あたりには都内に到着して、そこからしばらく母方の祖母の家で6人が間借りする形になる。
 当時の私のツイッターを見ると、どうやら14日に妹だけが私の借りているアパートに泊まりに来て、安心したようにぐっすりと眠っていた、という記述があった。
 原発の状況はいまだ予断を許さない状況であったけれども、とにかく家族全員が無事で再び会えたことは不幸中の幸いだった。
 犬も母方の祖母の家の庭先に置いてもらい、恐らくこの時から、犬は異常事態を経験した被災犬として、元来持ち合わせていた聡明さに加えて更に賢く、人間に配慮するようになり、元々無駄吠えが無かったが、環境の変化でストレスがあったであろうにも関わらず、粗相をした話は聞かなかった。まあ、飼い主が全員揃っているから、比較的取り乱さなかったというのもあるかもしれないが。
 
 しかし原発事故が収束しなくとも、着の身着のままで出てきたわけだし、避難勧告が出ていたとしてもまだ町そのものは封鎖されておらず、原発事故や放射能なんか気に書けない、という世捨て人じみた人が居るような場所でもある(と後日聞いた)ので、家業の工場の状態やら置いてきた大事なものやらを回収しに、祖父と父は何度か地元に戻り、都度大事なものを持ち出してきていたらしい。
 
 もう少し加えて言うと、この原発事故により、やはり帰宅困難化し、家業の工場は事実上廃業で、自分の手で作り上げた会社の仕事を失った仕事人間だった祖父は、東京で避難生活がはじまって急激に老化が進み、震災までは毎週足しげくゴルフに行き、中々いい成績で賞品のみかんを箱ごと貰って帰って来たりの活発な人だったが、今や満足に歩くこともままならなくなってしまった。
 私はこのことに非常に憤っている。
 震災だけで原発事故さえなかったら、祖父母はまだまだ元気で、仕事という生き甲斐、古くからの実家環境、自分で手に入れて維持してきた会社、生活、人間関係なんかがそのまま残っていれば、こんなに急激に老けたり、歩けなくなったり、そんなことはなかった。
 祖母は新しい環境への適応力が高く、元々都会的というか、おしゃれな人だったので都内での生活にもすぐに順応できたし、社交的な人だから今では新しい土地でお茶を飲む友達も得られた。けれどもそういったことが苦手な祖父のような人間は、生まれ育った場所で培った関係性が無ければだめなのだと理解するきっかけにもなった。
 
 ざっと書いたけれど、この後も我が家には色々なことが起きる。
 


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