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一度きりの大泉の話

強烈な読書体験でした。

本を読んだだけでこれほど打ちのめされたのは、カズオ・イシグロの【わたしを離さないで】以来。大泉が地名だとも知らずに手に取った。大泉と言えば、洋しか知らない。『変なタイトルだなぁ。何かの比喩なのかなぁ?』くらいにのんきだった。

あちこちのレビューを見ても、怖くなる。迂闊なことを書けば炎上必至。私ごときのnoteなんて誰も読んでないから、要らぬ心配と思いつつ、いや、多くの人が書名で検索するよね。私がそうしたように。

10代の頃、夢中で読んだ膨大な少女漫画の数々。自分は少女漫画に詳しい方だと自負していた。でも、大泉サロンを知らなかったくらいなので、たいしたことなかったんだ。私は【りぼん】【マーガレット】等の集英社贔屓だったので、小学館が主に活躍の場であった萩尾先生・竹宮先生の作品は代表作しか読んでいない。

【ポーの一族】【風と木の詩】、どちらも貪るように読んだ若かった日々。それ以外の作品も読んだはずなのに覚えてないのは、私がこの両作品は好きだったけど、どちらの作家の大ファンでもなかったから。だから大泉での出来事に公平にジャッジを下せる、というわけではない。

そもそもこの出来事に第三者がジャッジを下そうなんて、おこがましい。他人があれこれ言う話では無い。どちらかの先生を責めるなんて愚行。ただただ辛い。

読後、あまりの衝撃に、誰かと話さずにはいられなくなった。相手は萩尾作品、竹宮作品の両方を読んでいる人でないと。そんな友人、私の周囲にはほんの数人しかいない。【少年の名はジルベール】も合わせて読んでもらわないと。ますます該当者が減る。ネットのレビューを読みあさるしかない。

このnote、書いては消し書いては消し、読了からいったいどれだけ経った? 書けないならやめとけばいいのになぜ書きたがる私?

そんなおり、両方を読んだひとりの友人が言った。「モー様が、もうこのことには触れないでって言ってるから、触れない。ネットも読まない。この本は忘れる。読み返すこともないから、人にあげた」

なんて潔い。正しいファンのあり方だ。そうするべきなんでしょうが、興奮がおさまらない。興奮なのか?酔いが覚めやらぬ?ちょっと違うか。

「そっとしておいてほしい」思いで書いた本が、周囲を騒然とさせ、そっとどころか今の私のようにnoteに書き込み、人の書き込みに反応し。これは萩尾先生の望むところではないでしょう。

永久凍土の上に建つお墓の前で、私はただただ頭を垂れるのみ。花を手向けて手を合わせ、『一度きりの大泉』よ、安らかに眠りたまえと祈りを捧げます。その後は、もう墓参りはいたしません。それが萩尾先生に安寧をもたらすなら。

【一度きりの大泉の話】は、慟哭の書、でした。


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