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『論語と算盤』(渋沢栄一)を読んで

渋沢栄一著『論語と算盤 (角川ソフィア文庫)』を読みました。

“積ん読”状態だったのですが「中田敦彦のYouTube大学」で取り上げていたのを拝見して「これは読まねば」と、引っぱり出した次第です。

角川ソフィア版がいいのは、章のはじめに「ここが大事だよ」っていう要点を箇条書きで掲載してくれているところ(他のバージョンは知りませんが)。

ちょっと固い表現もあります。ただ、いざ読んでみると渋沢栄一の人間臭さというか腹割って話してくれているかんじが伝わってきます。

『論語と算盤』とは、言い換えれば、道徳と経済。

資本主義社会に対して異を唱えるというか、もっと人に寄り添った経済の仕組みにできないものか?

そういう議論がよりいっそう活発になっていることを考えると、テーマとして普遍性があり、この先も色あせないんだろうと思います。

中田さんの言葉を借りれば渋沢栄一の本書のタイトル付けは“秀逸”です。

内容についてはこちらも中田さんから言及もありましたが、“人間観察法”と“争い”についての部分がとくに心に響きました。そのあたりかんたんにクリップします。

人物観察法

その人がどんな者なのかを観察する。

①そのためには外側に現れる善悪正邪を視る

②その人の行為は何を動機にしているのかを観る

③さらに一歩進め、その人は何に安心し、満足しているのかを知る

これらによって必ずその人の人物像が明瞭になる。

行為と動機と満足する点をおさえること。これって現代でも通ずるし、人間関係を進める中でも役立つように思えます。

下記が原文のクリップです↓

「すなわち孔夫子の論語に説かれた人物観察法は、まず第一にその人の外部に顕われた行為の善悪正邪を相し、それよりその人の行為は何を動機にしているものなるやを篤と観、

さらに一歩を進めて、その人の安心はいずれにあるや、その人は何に満足して暮らしてるや等を知ることにすれば、必ずその人の真人物が明瞭になるもので、如何にその人が隠そうとしても、隠し得られるものでないというにある。」
「ゆえに行為と動機と、満足する点との三拍子が揃って正しくなければ、その人は徹頭徹尾、永遠まで正しい人であるとは言いかねるのである。」

争いについて

争いってよくないよっていわれます。でも争いはけっして排斥すべきものではなく、生きるうえで必要なときだってあるのです。人間は円くも、どこか角が無くてはならぬ。

江戸・明治・大正・昭和をまたいで生き、国の役人から「この国を発展させる」と一念発起し、実業の世界を渡り歩いた渋沢栄一ならではの説得力があると感じます。

下記が原文のクリップです↓

「人が世の中に処して行くのには、形勢を観望して気長に時期の到来を待つということも、決して忘れてはならぬ心掛けである。正しきを曲げんとするもの、信ずる所を屈せしめんとする者あらば、断じてこれと争わねばならぬ。」
「私一己の意見としては、争いは決して絶対に排斥すべきものでなく、処世の上にも甚だ必要のものであろうかと信ずるのである。

私に対し、世間ではあまりに円満過ぎる、などとの非難もあるらしく聞き及んでおるが、私は漫りに争うごときことこそせざれ、世間の皆様達がお考えになっておるごとく、争いを絶対に避けるのを処世唯一の方針と心得ておるほどに、そう円満な人間でもない。」
「苟も正しい道を飽くまで進んで行こうとすれば、絶対に争いを避けることはできぬものである。

絶対に争いを避けて世の中を渡ろうとすれば、善が悪に勝たれるようなことになり、正義が行なわれぬようになってしまう。

私は不肖ながら、正しい道に立ってなお悪と争わず、これに道を譲るほどに、いわゆる円満な腑甲斐のない人間でないつもりである。

人間には如何に円くとも、どこかに角が無ければならぬもので、古歌にもあるごとく、あまり円いとかえって転びやすいことになる。

そうだ最後に補足の情報です。

漫画版が出ていまして買いました。山県有朋との対比がメインで書かれていて、ふりかえってみると山県有朋は本書(原著)にはほとんど出てこないんじゃないかな?

そういう意味では漫画版は、大胆なアレンジを加えているとも取れます。渋沢栄一を伝記の切り口で知るという意味ではよいかもしれません。

大河ドラマ楽しみだなあ、というわけで以上です!


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