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合理的というシステムに依存することの怠惰について

合理性というシステムに依存する怠惰ということを考えてみようと思います。
これを思ったきっかけは友人と話していて思ったことです。
友人はとても合理性を求める人で自分の選択をより最適化するために常に合理的な選択をしていきます。
しかし、この合理性というものはいわゆる怠惰なのではないかという疑問からこのようなことを考えてみようと思いました。

合理性、これは私たちの社会を劇的に進化させた思考のシステムです。
科学の発展、産業の効率化、技術の革新、全てはこの合理性という名のもとに成し遂げられました。しかし、私たちはこの合理性にどれほど依存しているのでしょうか?そして、その依存がもたらす「怠惰」とは何なのでしょうか?

私たちは合理性を求め、常に最も効率的な方法を選び、目的を達成しようとします。
これは、時間とリソースを節約し、生産性を向上させるための優れた戦略です。
友人も「何か」をしたいという目的は最短距離でゴールを目指すことができる人間でこれが尊敬に値する部分でもあるのです。
しかし、その一方で、この合理性への過度な依存が私たちの創造性や人間らしさを奪っているのではないかという疑問が生まれます。

まず、合理性がもたらす「効率」は、時には私たちの思考を制限する「檻」ともなり得ます。
新しいアイデアや革新的な解決策は、非効率的なプロセスや間違いから生まれることが多いのです。常に最短距離を選ぶことが、未知の可能性や創造的な喜びを見過ごすことにつながるのではないでしょうか。
つまりはこの檻、マックス・ウェーバー的にいうのであれば「鉄の檻」というものに言い換えてもいいかもしれません。
この計算可能性の外に出ることがその人生の楽しさと人間の生きるという醍醐味といってもいいのかもしれません。

次に、合理性への依存は、私たちの感情や直感、倫理といった人間らしさを軽視することにもつながります。
数字やデータが全てを決定する世界では、愛や慈悲、公正といった価値が犠牲になる恐れがあります。合理性が最優先される社会は、冷たく、無機質なものになりがちです。
これはすべてを合理性に委ねた場合ですから、こう考える友人は当てはまらないからよかったと胸を撫で下ろすところでございます。
もし、合理性において人間関係を構築するとこの先はAIしか一緒にいられなくなってしまいますし、人間であってもそれは合理の最適化された人間関係ですから取り替え可能であるということにもなるからです。

また、合理性に完全に頼ることは、私たちの学習と成長を妨げる可能性もあります。失敗や困難から学ぶことは、人間にとって非常に重要です。しかし、合理性を最優先すると、リスクを避け、安全な選択ばかりをするようになり、結果として成長の機会を失うことになるかもしれません。

では、私たちはどのように合理性と向き合うべきでしょうか?
答えは、バランスです。合理性は非常に有用なツールですが、それだけに依存するのではなく、感情、直感、倫理といった他の要素とバランスを取りながら使うことが重要です。
また、時には非効率的な道を選び、新たな可能性を探求する勇気も必要です。

言語化できない何かを大事にしてもいいかもしれませんし、人にそんなことをと理解されないものがあるかもしれません。
しかし、それは気にしないでいいのかもしれません。
そういうものこそ、AIという最高の合理性から逃れるのかもしれませんから

私たちの生活や社会における合理性の役割を再考し、その限界を理解することで、より豊かで充実した人生を送ることができるでしょう。合理性を一つのツールとしてうまく利用しつつ、人間らしさを大切にすること。
それが、私たちが目指すべき未来の姿ではないでしょうか。

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