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【note】香港 戦争の記憶と伝承に挑む⑦「多民族・多文化・多角的な視点を伝えたい」呉力波さん 海濱文化導賞会元会長

「波叔(波おじさん)」の愛称で親しまれている香港人の呉力波(ポール・ン)さん(72)。香港生まれだが、中国建国の父、毛沢東が展開した文化大革命(1966〜76年)の初期に中国・広州の中学に通い、「紅衛兵」となった経験を持つ。「武力闘争(武闘)」に参加し、農村部での「下放」も味わった。

現在は香港の歴史や文化の魅力を街歩きで伝える民間団体「海濱文化導賞会」の創設メンバーとして会の活動を後方支援する。太平洋戦争(大東亜戦争)勃発後、英国統治下の香港に日本軍が進攻。その後の香港島上陸作戦で日本軍がたどったルートの一部をガイドとして案内し、「香港防衛戦」の歴史の継承に努めている。呉さんに話を聞いた。

「東海林の謎」に迫る

黄泥涌での激戦の様子をツアー参加者に説明する呉力波さん(21年12月19日、本人提供)

――日本軍の足跡をたどるツアーを開催されています。きっかけは何でしょうか。
特に大きな理由はありません。香港バプテスト大学歴史学部の鄺智文副教授の市民講座に出席したことがきっかけです。鄺副教授が香港防衛戦では、日本軍による香港島上陸作戦で「陸軍第38師団歩兵第230連隊長だった東海林俊成が道に迷った」と説明をされたことに大変興味を持ちました。わたしの両親と祖父が中国大陸で抗日活動に参加していたことも理由です。

ツアーは当初の計画から遅れましたが、香港島上陸作戦から80年目の2021年12月19日に実施することができました。1941年12月18日夜、英軍は島北東部の海岸線(約8キロメートル)から日本軍が奇襲上陸し、沿岸防衛に当たっていた兵を大幅に上回る数が投入されるとは想像だにしていませんでした。第1陣として上陸した日本軍 3500 人に対し英軍は900人。2〜3時間後には 7000人 対 900人となっていました。

このうち東海林隊長が率いた第230連隊の一部は無謀な進攻により道に迷い、黄泥涌で三方を敵軍に囲まれた狭い道にすっかり入り込んでしまいます。その後、両者の間で激戦が展開され、英軍側に多大な死傷者が出ただけでなく、日本軍側にも800人以上の死傷者が出ました。

個人的には、平和な時代に生きるわたしたちが過去の戦争の一例を挙げて笑うことはできないと思っています。当時はレーダーも無人機もない時代でした。

――参加者の反響などを教えてください。
21年12月にこのツアーを企画した際は、会員約30人が参加し、大盛況でした。

黄泥涌の戦いにはもう一つ特徴があります。香港防衛戦の象徴だったと言っていいかもしれません。世界でも唯一、多文化で多様な国籍、出身、宗教、言語を背景に持つ兵士で軍が編成されていました。

イングランド、スコットランド、インド(パキスタンの分離独立前)、カナダを含む6つの正規軍旅団(大隊)、中国、フランス、ポルトガル、オランダ、マレーシア、さらにはポーランドが自分たちの家を守るために共に戦いました。ツアーは今後も企画していく予定です。

黄泥涌の戦いで袋小路に陥った日本軍の状況を説明する呉力波さん

歴史的錯誤はなぜ起きたのか

――若者に伝えたいことはありますか。
日本人が中国や香港を侵略したことは歴史的な錯誤だったと思います。太平洋戦争勃発から80年以上経ちましたが、あの時代、戦場の日本軍が突然、なぜ(捕虜や救護員を殺害し、残虐行為を行う)怪物と化してしまったのか、なぜ戦前戦後の日本人と大きく違ってしまったのか、わたしたちは探ってみたいだけなのです。

しかし、全ては当時の日本軍が行ったことで、現在の日本政府や日本国民を憎むべきではありません。(民主的な)選挙で生まれた政府であり、過去に戦争を起こした政府とは連続性がないからです。私たちが知る必要があるのは、(戦争が起きた)その世代に何が起き、なぜ起きたのか、そしてどうすれば回避できたのかということです。

わたしは何かをゼロから生み出すことが好きだし、この団体もその一つです。わたしが述べたような多民族、多文化、多角的な視点は、香港が前進、発展していくために、必要かつ貴重な特質だと理解してもらえるよう願っています。

人懐っこい笑顔が印象的な呉力波さんは、最高指導者ひとりの意向により多くの一般国民の人生が翻弄、あるいは破壊された、いわゆる「文革世代」だ。香港生まれであるにも関わらず、自ら広州で進学し、期せずして文革を経験し、自ら紅衛兵にもなった。香港人でも珍しい経験の持ち主だ。
 
 両親ともに共産党員だった呉さんも幼少期は自然に党を支持していたが、年を経るにつれ、考え方が変わっていったという。それはなぜだったのか。呉さんの半生を振り返ると、黄泥涌ツアー開催の必然性も見えてくる。

 呉さん自身は「家族との複雑な経験があったからこそ、40歳を過ぎてからは物事を多面的に見られるようになった」と話す。両親のこと、文革、現在の中国と香港の状況・・・。忌憚なく語ってくれた今回のインタビューは6時間余りに及んだ。

共産党員だった両親

――生い立ちについて教えてください。
両親はともに中国共産党員で、10代で「抗日救亡(反日愛国)運動」に参加しました。父は広東省東莞、母は同省開平出身です。父は単身で広東省広州の中学に進学した際、友人を通じてマルクス・レーニン主義を学びました。その後、「中国文化総同盟」広州支部や「中国左翼文化界総同盟」の会員として抗日救亡をテーマとする脚本執筆などに関わります。38年に正式に党員となりました。
 
日中戦争勃発を受け、37年9月に第2次国共合作が実現すると、父ら広東省の党員は選抜を経て国民政府軍の訓練を受けました。父は中華民国陸軍第160師団第478連隊に配属され、重機関銃中隊上尉指導員を務めました。日本軍とは39年に広西チワン族自治区南寧(桂南会戦)で、41年末に広東省恵陽で、2回戦いました。恵陽では香港救援に向う途中で日本軍に阻まれ、数日間にわたる激戦を展開。多大な死傷者を出したものの突破できず、日本軍による香港陥落を知って撤退したそうです。

呉さんの父、呉邨氏 

戦後、父は病気のために退役し、広州で教鞭(きょうべん)を取りました。その後、連絡を取り合っていた母と結婚。中華民国時代の48年に共産党員逮捕の情報を得ると香港に渡り、新生活を始めました。わたしは51年に第1子として香港の病院で生まれました。ほかに3人の弟と妹がいます。
 
父は香港で共産党が主導する労働組合「香港洋務工会」の書記となり、多くの労働争議(ストライキ)に参加したほか、50年代末からは中華人民共和国の国営映画会社「新聯影業公司」でプロデューサーや編成、脚本家として数多くの作品を残しました。

広州の中学へ 体制の矛盾に気づく

――なぜ単身で広州の中学に行くことになったのですか。
わたしは香港で育ちましたが、63年に自ら香港を離れ、広州の僑光中学(大陸に帰還した華僑の子女向け中学、前身は1889年設立の培正中学)に通いました。戸籍は大陸に移す必要がありました。
 
その頃、香港から大陸に帰国した叔父が遼寧省大連市(旅順)の海事大学に留学し、尊敬していたことが大きな動機です。制服姿の写真がカッコ良かった。当時、香港には香港大学しかなく入学はとても難しかった。でも、大陸の大学なら入れるかもしれないと嬉々として進学したのでした。
 
中国は当時、ちょうど毛沢東が発動した「大躍進政策」(1958〜62年)が終わったばかりでしたが、家族が支援してくれ、生活にはそれほど困りませんでした。しかしそんなわたしも、最初の夏休みに香港に戻ってきた時には、毛沢東の主導体制に矛盾を感じていたのを覚えています。他の香港人の同級生も大陸には自由がないことに気が付き始めていました。口にこそ出しませんでしたが、わたしの両親もそうでした。
 
香港の共産党と大陸の共産党は区別する必要があります。 香港の党員は(中国共産党機関紙である)「人民日報」以外のニュースを見て、大陸で何が起きているかをよく知っていましたし、毛沢東が大躍進政策の失敗により国家主席を辞任したことも理解していました。

武闘と香港人同級生の死

紅衛兵だった頃。武闘に参加し、銃も携帯していた(呉さん提供)

――文革を経験されました。最も印象に残っていることは。
初級中学3年の卒業試験の日、文革で授業が突然停止されました。社会は極度の破壊と混乱に陥りました。

赤い腕章をつけた紅衛兵は当初、高級幹部の子弟で構成されていました。初期の紅衛兵は彼らの両親への圧力をそらすために、大学教授や学校の教師、さらには宗教、文化、芸術、古い風俗・習慣を標的にするようになりました。後から知りましたが、毛沢東は自分を辞任に追い込んだ高級幹部に報復したかったのです。
 
わたしが通っていた学校は華僑や香港・マカオ出身の生徒が多く、(キリスト教系で)比較的西洋化された生活を送っていました。このため、紅衛兵の標的にされ、学校党委員会(校内の共産党組織)も彼らを支持していました。ちょうどその頃、北京の大学生が同党委から権力を奪取しようと造反し、「造反派」の紅衛兵を組織して同党委を批判。しかし「反党行為を行った」として厳しく処罰されたと伝わってきました。これを契機に校内に造反派の紅衛兵を組織することになり、15歳だったわたしも加わることになったのです。
 
66年8月、中国共産党中央委員会は「プロレタリア文化大革命に関する決定」(16条)を発表し、文革の目的は「(資本主義の道を歩む)実権派(※名指しされていないが劉少奇・鄧小平を指す)」と戦うことであり、生徒・学生を追及することではないと説明しました。当時、わたしやほかの香港人同級生は毛沢東をとても尊敬していたので、この決定を支持しました。
 
67 年、紅衛兵の2つの派閥(造反派と実権派擁護派)はついに武器を手に取って衝突します。7〜8月に広州で展開された武闘にわたしも参加しました。まだ16歳になっていなかったと思います。
 
ある日、軍用倉庫で武器搬送の準備のための車両に乗っていたところ、敵の待ち伏せに遭い、同級生3人が射殺されました。このうち1人は香港から戻ってきたばかりでした。67年は香港でも左派による反英抗争「六七暴動」が起きましたが、亡くなった彼は六七暴動を主導した闘争委員会副主任の息子でした。
 
社会の混乱を一掃するために、毛沢東はほぼ全ての生徒・学生を地方に送りました(上山下郷運動)。多くの教授、教師、下層の幹部も都市部から人里離れた農村部に追いやられましたが、これは(肉体労働を通じた)「思想改造」による監禁だったと言えます。 大きな反対の声はあまりありませんでしたが、68~69年にはさまざまな階層の知識人が反省し、毛沢東の「専制」(独裁体制)が不当であると気づいていたのをわたしは知っています。

過酷な下放 「香港へ逃亡」が目標に

下放時代の写真。2年3カ月を農村で過ごした(呉さん提供)

68年11月、初級中学を卒業したわたしは広東省江門市恩平県の農村に下放されました。同時にわたしの大学進学の夢も潰えました。村は泥とレンガ造りの家で、電気もありませんでした。
 
2年3カ月を農村で過ごしましたが、下放されてから3カ月後の69年2月の旧正月には香港から来た両親と、香港への密航について話していました。こそこそというのではなく、カフェで公然と話していましたね。その後は香港に逃げるという目標を胸に、農村での作業は機械的に行い、逃亡に必要な書類の準備に専念するようになりました。同時に香港の電子工学通信講座に入学し、親に教科書を送ってもらって猛勉強しました。

60~70年代には(大陸から)10万人以上の若者が密出国したと言われています。農村では月5元で生活できるので、両親からすれば支援は難しくありませんでしたが、下放されている状況下で(配給による)食糧割り当てを得るために、最も辛い田植えや稲刈りの作業に参加しなければなりませんでした。勉強に疲れた時は、同級生に教わったバイオリンを弾いて、気持ちをリラックスさせていました。
 
はっきり言っておきたいのは、下放の経験を美化するつもりは全くないということです。かつての生活を懐かむようなことも一切ありません。ウジ虫が大量にわく肥溜めを掘り起こしたり、膝までつかる魚塘(魚を養殖する池)で泥をさらったり、腰をかがめながら長時間作物を刈ったり、田植えをしたりする生活でした。全て香港に脱出するという目的のためにやったことです。
 
71年にようやく香港に戻ることができました。それまで学んだ電子技術と知識が生かされ、電子機器工場ですぐに採用されました。

「転向」の変遷 失望も

――今はどのような立場を取っているのでしょうか。
民主主義と自由を支持する立場です。まず、わたしが63年に中国に戻った時、「憧れていた祖国で自由が搾取されている」と感じました。文革以前から中国大陸では香港や台湾、海外の新聞・ラジオを聞くことも見ることも一切許されていませんでした。わたしは学校側に「内容を知らなければ批判できない」と抗議しましたが、結果は叱責の嵐でした。 
 
わたしの両親も毛沢東政権の誤りには気づいていましたが、党員の「規律」のため黙認していました。毛氏がよく「規律を強化すれば、革命は無敵だ」と強調していましたから。しかしこれは党員の性格的欠陥です。
 
共産党の文書によく「革命闘争の情勢は極めて厳しい」「党の規律を厳格に遂行してこそ、党組織の存続と発展を確保できる」といった文言が出てきます。国歌となった「義勇軍行進曲」は、「中華民族に最大の危機が迫る・・・」と今も毎日歌われていますが、党・国家の危機を引き合いに出して独裁を合理化しているのです。
 
一方、中国人の多くは少しは独立的な思考を持っていて、何かおかしいと感じてはいます。しかし、伝統的な「意志を統一し、心を一つにし、大局に服従する」という考えがしみつき、「皇帝に服従せよーー領袖に従え」という千年越しの呪いにかかっているのです。

わたしは広州で学業のため5年半暮らしましたが、後半の2年半は文革期でした。天地を覆すほどだった文革について徐々に分かったことは、毛沢東が言うような官僚に対抗するために大衆を結集させる闘争ではなく、単に彼が権力を掌握するための闘争だったということです。
 
わたしは子供の頃から社会の底辺に近いところで生きてきたため、苦労に耐える大衆に深い同情心を持っています。3~5歳の頃、母は働きに出なければならなかったので、日中はわたしを祖母のところに預けていました。わたしは祖母と、下層の行商人がよく出入りしていた九龍地区・油麻地の路地裏の露店で砂糖水を売っていて、彼らの様子を間近で見ていました。
 
61年に紅磡地区で木造バラックの大火災が起き、複数の小学校の同級生の家が全焼しました。彼らは皆、泣き崩れることもなく淡々と火災の跡を片付け、ある友人はガラスの破片を楕円形に焼いてつくったガラス玉をいくつかわたしにくれました。
 
広州の中学に進学した頃、「布票」(綿製品の統制のための衣料切符)が使えなかったため、同級生がある「闇屋」を紹介してくれたことがあります。彼はもともと香港のホテルでドアマンをしていたインドネシア系華僑でしたが、(わたしの父が所属していた)香港洋務工会に動員され、広州に開業したばかりの外国人向けホテルにやってきたのでした。しかし、すぐに解雇され、やむを得ず人力三輪車の運転手となりました。収入は全く安定せず、闇屋となって布票を売りさばく手伝いをしても困窮した状況を変えられませんでした。
 
文革が始まってから、わたしはある農民と知り合いました。人民解放軍の退役軍人でした。通常、退役軍人は故郷に戻って農作業をしなくても都市部で仕事を得られますが、当時は経済状況が非常に悪かった。軍部の規律に背いて働いても、与えられるのは不定期の仕事だけでした。かと言って故郷も飢餓と食料不足に見舞われており、戻ることもできなかったのです。
 
特に一生忘れられない出来事があります。下放された村でよく面倒を見てもらっていた70代の老人がある日、首を吊って自ら命を絶ったのです。彼は自分の病が長期的に家族の金銭的負担になると考えたのでした。わたしはその時、中国のいわゆる社会主義は偽物であり、苦労を抱える大衆は(現状を変えることが非常に難しく)幸せな生活など送れないのだと強く感じました。

下放された農村で撮影。後方の泥とレンガ造りの家に住んでいた
40年後に再訪した際に撮影。当時とほとんど変わっていなかった(呉さん提供) 

ただ、71年に香港に戻って電子機器工場で働くようになってからも、わたしは苦しい大衆の福祉を向上させたいという理想を持ち続けていました。また当時、香港の労組「香港工会聯合会 (工聯会)」も共産色を隠して「政治的な権力闘争ではなく、労働者福祉のためだけに闘う労組を設けたい」と考えていました。そうしたなかで縁があってわたしが下部組織の「港九電子工業職工総会」を立ち上げ、理事に就任することになりました。共産党が背後にあるとはいえ、労働者福祉のためだけに闘うとうたっている。逆に中国当局の資源を借りられると思ったのでした。
 
しかし、香港や世界の経済・社会の変化に伴い、5、6年後にはこうした考えも変化していきます。

資本家は良好なビジネスを行うために多くの人を雇用する必要があり、労働福祉も市場によって自然に調整される。資本主義を転覆させる必要はなく、労働組合がすべきこと・できることは、最低賃金や労働環境、安全関連の法整備を推し進めることだ。民主主義システムのチェック・アンド・バランスによって、政府は草の根の声に耳を傾け、産業環境の改善や低所得者へのセーフティネットを提供するために立法化を図っていく。北欧の一部の資本主義国はすでに「社会主義」的であるーーといった考えに至ったのです。わたしはその時点で一般組合員の資格だけを保持し、労組の理事を下りました。
 
80年代以降、産業や商業の繁栄こそ、労働者に高い賃金をもたらすことができると考え、セールスエンジニアに転じました。コンピューターが勃興し、技術が分かる販売員が求められていた時期でもありました。その後は、台湾のパソコン会社香港支社の副社長を務めました。89年の天安門事件以前、中国について考えることと言えば、ある種の「民族感情」しかありませんでした。中国が市場化路線を歩み、自由競争を通じて独裁体制を解く後押しができるよう願っていました。
 
しかし、89 年の天安門事件で、わたしは完全に(中国と共産党に)失望しました。市場化は中国を「権貴資本主義(既得権を有する人々が支配する資本主義)」に導いただけでした。共産党は頑なに権力にしがみつき、新たに生まれた中間層が平等な競争を要求する時にも容赦なく弾圧します。
 
香港の「一国二制度」の欺瞞(ぎまん)性がますます暴露されていることも理由です。「真の普通選挙」(候補者は全て中国の承認が必要)や「真の自治」(中央政府が全面統治し、香港政府の権限は限定されている)もありません。ここまで来ると、政策や政治システムの小手先の改革や調整ではどうにもならないでしょう。
 
今後どうなっていくのか。もはやわたしたち70代の問題ではありません。若い人たちに選んでもらいましょう。

以上の話はわたし個人の見解であり、海濱文化導賞会を代表するものではありません。

19年の抗議活動参加中にハーモニカを吹く呉さん(本人提供)


略歴  呉力波(Paul Ng)1951年10月香港油麻地生まれ。香港の共産党系小学校に通い、広州の華僑向け中学に進学。文革と下放を経験し、71年に香港に戻る。電子系工場の技術者やパネルメーカーのセールスエンジニアを経て、台湾コンピューターメーカーの香港支社副社長に就任。その後、カスタムオーダーギフトの貿易会社を創業。海濱文化導賞会の創立メンバーで元会長

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