見出し画像

「乗り越えられる壁だからあなたに訪れたんだよ」という考え方について

クライアントから聞かれた質問。
どうにもならない試練を前にしたとき「神様は、乗り越えられる試練しか与えないよ」といった励ましを受けることがある。どう思いますか?

私自身はあまり好きじゃないんだなぁ、この言葉。与えられた試練、壁、山、などを乗り越えられるかどうか、何の基準で測るの?と思う。他人から見たら乗り越えられる、乗り越え
られそうな試練でも、本人にとってはそうじゃない。それは、どんな親から育てられたかでも変わるから(他にもいろいろあるけど)。心を見てくれない親から育てられたら、どんな小さな試練も計り知れない壁となる。あなたの心がどう扱われてきたかですべて変わるからだ。

例えばなんだけど…

親が殺人にあったら?
我が子が早く亡くなってしまったら?
「神様は、乗り越えられる試練しか与えないよ」と、その友達にそう話すのだろうか?きっと、そんな言葉は言えないはずだ。つまり、死に関するときには使えない励ましとなる。

本人の生き方は本人しかわからない

どんな生き方をしてきたかは本人のみ知ることで、他の誰も想像する以上でも以下でもない。つまり「神様は、乗り越えられる試練しか与えないよ」という励ましは、本人の抱える悩みや試練を軽視しているように感じてしまう。相談を受けたあなたが、その人の悩みを受け止めきれなかったからいう言葉に感じる。乗り越えられる試練ばかりじゃない。辛い悲しみとともに生きなくてはならない試練もあるのだ。耐えられないと毎日思いながら日々を過ごす人もいるのだと。

そもそもなんでこの言葉が広がったのか

10年ほど前にヒットしたテレビドラマ JINー仁ー の主人公のセリフで どんなに苦しいことがあっても、それは神の試練であって、必ず乗り越えられる、覚えてるかな?この言葉を聞いてがんばろう!と思った人は多いはず❗この言葉はもともとキリスト教が始まりみたい。

神は真実な方です。あなたがたを耐えられない試練にあわせることはなさいません。

(コリント人への手紙第一 10章13節)

なるほど。これからそう解釈されたのか。なぜそうなったのか調べたら詳しく考察してあったので載せます。

英語版の聖書を見ると分かりやすいのですが「試練」にあたる部分にはTemptationという語があてられています。これを訳せば「試み、誘惑」となります。けれど日本語では「試練」と訳してしまっているために、「辛いこと、悲しいこと」という間違った意味に思われがちなのです。
 ですから、さきほど引用した聖書のことばは「神様は、あなたを耐えられない誘惑にあわせることはない」という意味になります。「罪」は様々なルートで私たちを誘惑してくるけれど、神様は必ずその誘惑から逃れる道を備えてくださっている、と言っているわけです。

上馬キリスト教会ツイッター部の
「キリスト教ってなんだ?」より

励ましの言葉はいろいろあるけど

人生いろいろな壁にぶつかる。悩んで苦しみ抜いて、乗り越えたと言えるかなんてわからない。分からないながらも生きていけるのは、誰か側にいるからだと思う。側にいるのは人間じゃなくてもいい。誰も側にいないと感じても「自然」は誰の側にもあるから。木や森、草花に空はみんなにある。独りぼっちに感じたら自然を感じてほしい。

でも、生きている以上、誰も側にいないように感じても必ず誰かはいる。必ずいる。あなたがその存在を感じようが感じなかろうが。

もし、あなたの近くにどうにもならない試練を抱えた人がいたら、そっと寄り添ってみて。何もいわずただただ寄り添う。いつか独りじゃなかったんだと気がつくときが来るまで…

読むだけで皆様の流れが良くなるようにエネルギーを込めて書いてます。よろしければサポートお願いします。頂いたサポートは土地の浄化などの活動費に使わせていただきます。