書評#3 岡田尊司『発達障害「グレーゾーン」』

ジェイラボの活動の一環として、『発達障害「グレーゾーン」』を読んだ。800字以内の書評が下のサイトにて公開されているので、興味のある方はぜひ読んでみてほしい。


発達障害をはじめ、精神疾患とは考えてみれば不思議なものである。精神とは脳のいち機能であり、われわれの「行動」そのものではない。私たちは表情筋を駆使して顔の各部位の配置を変化し、それは例えば笑顔と呼ばれたりするが、そこにあるのは単なる顔のパーツの位置変化であって、「精神」そのものではないはずである。私たちは笑顔を浮かべた人が置かれた文脈を経験によって判断し、その人が「嬉しい」のであろうと勝手に推測するのである。精神が直接見えることはない。つまり、精神に欠陥があるかどうかは外部からは判断できない。あるのは表出される具体的な言動のみである。
であれば精神の障害とは何なのだろうか。自分の精神を測ることができるのは自分だけであり、自分にとっては自分の精神こそがすべてである。他者のそれと比較することは原理的にできないのなら、社会は精神疾患を真に定義することはできないはずである。
つまり、いまは表出される言動を何らかの基準で判断して暫定的に精神疾患を定めているということであろう。科学が脳機能を完全に解明する日が来ない限り、あるいは来たとしても、そうする他はないと思われる。

発達障害とは何だろうか。DSM-5によれば、例えばASD(自閉症スペクトラム障害)の診断基準は下であるらしい。

以下のA、B、C、Dを満たしていること。

A:社会的コミュニケーションおよび相互関係における持続的障害(以下の3点で示される)

①社会的・情緒的な相互関係の障害。
②他者との交流に用いられる非言語的コミュニケーションの障害。
③年齢相応の対人関係性の発達や維持の障害。

B:限定された反復する様式の行動、興味、活動(以下の2点以上の特徴で示される)

①常同的で反復的な運動動作や物体の使用、あるいは話し方。
②同一性へのこだわり、日常動作への融通の効かない執着、
 言語・非言語上の儀式的な行動パターン。
③集中度・焦点づけが異常に強くて限定的であり、固定された興味がある。
④感覚入力に対する敏感性あるいは鈍感性、あるいは感覚に関する環境に対する普通以上の関心。

C:症状は発達早期の段階で必ず出現するが、後になって明らかになるものもある。

D:症状は社会や職業その他の重要な機能に重大な障害を引き起こしている。

DSM-5   精神疾患の診断・統計マニュアル

かなり形式ばった基準である。発達障害においては、インターネット上のチェックテストによるセルフチェックの危険性がしばしば問題視される。そのようなチェックリストはDSM-5に基づいていることが多いが、これらは「読みよう」によっては誰にでも当てはまる事実である。Aの①について、現代を生きていて社会や人間関係において問題を感じていない人はほとんどいないだろう。Bの②について、頭では分かっていてもどうしても譲れない「こだわり」にはみな心当たりがあるものだと思う。
この診断基準を曲解すると、自分が発達障害ではないかという過度な心配を抱いたり、自分の気に入らない他人を発達障害に「仕立てあげる」悪意に繋がったりする可能性がある。ほとんどの人が発達障害に当てはまってしまう。
そこで、臨床上でもっとも重視されるのはDであるという。社会や職業その他の重要な機能に「重大な」障害を引き起こしている。例えばASDでは、A、Bのような特性がある程度見られ、それが原因で退職・退学に追い込まれたり、うつ症状を呈したりしている場合である。この「重大」の度合いに主観が絡むことは間違いないが、少なくともそのような場合に診断を限れば、発達障害の統計的な希少性を担保することができる。もちろんこのような診断のやり方が本書で取り沙汰された「グレーゾーン」を生み出していることは言うまでもない。

このような実際上の診断基準を見てわかるのは、発達障害と「社会」の存在は切っても切り離せないということである。欠陥を孕んだ「行動」の表出が精神疾患と同値であるという話は既にした。発達障害の場合、欠陥であるかどうかの基準は社会との適合性だということになるのだろう。社会生活、とくに労働や通学で問題を起こしやすい人がそうみなされる。発達障害とは社会が明確に「創り出した」精神疾患である。
もちろん障害という概念そのものが社会を前提としていることは間違いない。発達障害とは養老氏が『唯脳論』で指摘した、人間による外界の「脳化」が招いた1つの悲劇であると私は思う。
「社会とは何か」という問いに向き合うことが急務である。

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