支那の古典に学ぶ

 支那の古典に学ぶ
 現代の中国という国は大嫌いだが、中国の古典には人生を豊かにしてくれるものが多い。
 明の時代に、崔後渠(さいこうきょ)という人がいた。その人の六然訓(りくぜんくん)というのが非常によいので紹介したい。

 自處超然(じしょちょうぜん);自分自身に関しては、一向にモノに囚われず、恬淡(てんたん)としている。人はよく見ているもので、モノに執着している人は、人が離れていく。

 處人藹然(しょじんあいぜん);藹然とは、草木が盛んなさまをいうので、處人藹然とは、人に接するときは、相手の気持ちが和らぎ、穏やかになるよう心がける。
 
 有事斬然(ゆうじざんぜん);いったん事がおきれば、グズグズしないで、束ねたものをマサカリで切るように一気呵成にやる。

 無事澄然(ぶじちょうぜん);事がない場合は、静かな湖面のように澄み切っている。私利私欲がないから心が澄んでいる。澄んでいるから融通無礙に動くことができる。得意澹然(とくいたんぜん);澹というのは、水がゆったりと揺れ動くさまをいう。従って、得意絶頂の時こそ、逆に静かであっさりとしていることが緊要だ。そうすると足をすくわれることがない。

 失意泰然(しついたいぜん);失意の時にはうろたえ、呆然となるのが人間の常だが、だからこそ逆に泰然と構え、大所高所から眺めてみる。するとそれまでは見えていなかったことに気づき、死地を脱することができる。そこで意気消沈したらおしまいだ。
 
 これは、神渡良平氏著「安岡正篤珠玉の言葉」(講談社+α新書)からの孫引き。

 私のお気に入りは失意泰然である。日本の首相経験者でA級戦犯として処刑された広田弘毅の句に、こんなのがある。
「風車 風が吹くまで 昼寝かな」
 やはり、大人物というのは腹の据わり方が小市民とし違うのだと言わざるをえない。
 

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