【短編ボツ小説】心のナイフ -arrange ver-

この小説は、自分が初めて書いた小説の『心のナイフ』を頂いたアドバイス通りにリメイクしてみたものなのですが、個人的にはオリジナルバージョンから無駄に長くなった上に没個性的な仕上がりになってしまい、面白さが無くなってしまったと思っています。
そのため、もし読んで頂ける方がいれば何の技術も持ち合わせずに初期衝動だけで書き切った、絶対に二度と書くことのできないであろうこちらのオリジナルバージョンを読んで頂けると嬉しいです。








○曲名:心のナイフ





(introduction)

 息を吐けば白い煙が淡くもその姿を見せては消えていく、そんな朝だった。
 それを見て俺は自分がため息を吐いていた事に気が付いてまたため息を吐いた。
 冬休みが終わって今日から三学期が始まる。教室に今年から設置されることとなった暖房に期待を寄せながら校門を抜ける。去年までストーブしか設置されていなかったことを考えれば田舎の中学校としてはかなりの好待遇だろう。
 だからだろうか、俺は多少の変化も当たり前のものだと思っていた。
 思えばこの時点で俺はこのとても小さな違和感に少しは気付くべきだったように思う。辺りは妙な静寂に包まれていた。

「よう良助、久しぶり」

 古びれた校舎に足を踏み入れた瞬間、後ろから誰かに肩を叩かれた。

「石泉か、別に部活で会っているんだから久しぶりってわけでもないだろ」

 そこにいたのは部活の仲間だった。そのことによってようやく冬休みが終わってしまったという実感がふつふつと湧き上がり始めた。

「それにしても文化祭のライブ凄かったな。俺今でもあの衝撃が忘れられないぜ。今年はもうあんなライブはやらないのか?」

 石泉はそういうと靴箱へと靴を大雑把に突っ込むと薄汚れた上靴を取り出した。

「いつまで何か月前の事を言ってるんだよ。まあ、今年は厳しいな。レギュラーに選ばれたから慎しめって監督に言われているから」
「何だ、お前も丸くなったもんだな。やっぱりサッカー一筋か?」

 俺は乾いた笑みでそれに答えた。サッカーなんて糞くらえだ。本当は今にでも投げ出してしまいたい。
 けれども俺はその言葉を飲み込んだ。人数不足もあっていつも出場すら危うかったサッカー部に今年は波が来ているのだ。そのため俺が独断で辞めるわけにはいかなかった。問題を起こして活動停止をくらってしまった日には目も当てられない。
 俺達は階段を登り切り、最上階の教室に辿り着いた。すると石泉は突如何かを思い出したようで、俺の肩にポンと手を置いた。

「そうだ良助。あの噂は聞いているぜ、まあ頑張れよ」

 それってどういうことだよ、俺がそう尋ねる前に石泉は既に隣の教室へと入って行ってしまった。
俺は石泉の言葉を少し不審に思いつつも自分のクラスの教室の扉を開ける。
 ガラガラと開けた扉が限界まで開いてしまったようで、ガシャンとまるで場違いな騒音が教室中に鳴り響いた。
 教室を間違えてしまったのだろうか? 俺は思わずそんな考えを瞬時に行ってしまう。 
 それはまさに異常な光景だった。誰もがわざと悲しい顔を作ろうと必死になっているような、そんな歪な雰囲気を感じた。まるで親に怒られる前に必死に言い訳を考えている子供のような、嘲笑と抑制が混じり合って異物を生み出している。

「横島か、早く座れ」

 まだ登校時間は過ぎていないはずなのに教卓に誰か立っている。その違和感に気付くのにあまり時間はかからなかった。
 そこに立っていたのは担任ではなかった。その人物が教頭だということに気付くと俺は黙って自分の席に着くことにした。
 俺が席に座ったことを確認すると教頭は沈黙を破って口を開き始める。どうやら俺が最後の一人だったらしい。全員が大人しく座って黙っていることをじっくりと確認すると威厳に満ち溢れた姿を醸し出そうと咳払いを数回行う。そして真剣な面持ちで俺達に向かってぽつりと言葉を漏らし始めた。

「非常に残念な話をお前たちにしなくてはならない」

 そういった決まり文句からその言葉は紡がれる。

「お前たちの担任である松木先生は今日からしばらくの間学校には来れなくなった」

 何だそんなことか、と俺は窓の外を眺めた。冬休みが始まる前は鮮やかな緑の景色が美しかったはずなのに、緑はいつの間にか失われていた。
 そろそろ教頭に視線を合わせなければ小言を言われてしまうだろう。俺は直感的にそう感じて視線を教室中に巡らせる。

 その時だった。
 何となく教室内にもう一つの違和感を覚えた。

 窓側の席の一番後ろの席が空いていた。そこに座っていたのは誰だったか。思い出すのに数秒間の時間を必要とする。
 俺がそれを思い出すよりも早く、教頭がそこに触れた。

「そして、このクラスの田辺は家庭の都合で転校することとなった。突然の出来事でお別れも言えず、悲しい事だとは思うがみんな受け入れてやってくれ。今日からしばらくは学年主任の安居先生にこのクラスを受け持ってもらうことになるだろう。俺からの話はここまでだ」

 そう言うと教頭は一瞬悲しい表情を浮かべたような気がした。
 教頭が教室を出て行くまでは誰も動かなかったが、数秒経ってからぽつぽつと人が動き始めた。そして一気に緊張感が抜けていく。

「何だったんだよ、今のは」

 俺は隣の席で机に突っ伏している達也へと問いかけた。達也は俺の声を聴くとむくりと上半身を俺の席の方向へと動かした。そして驚愕の表情で俺の瞳を覗く。

「知らないのか? 昨日裏サイトでも話題になっていただろ」

 達也はクラス共用のインターネット掲示板の話を持ち出した。田舎であるがために未だスマートホンの普及率が低いこの村ではSNSがあまりまだ一般化していない。パソコンの方が普及率が高いために必然的に使われることが多いのがインターネットを利用した掲示板となっている。

「見ていないな」

  それなら仕方ないかと達也はスマートホンを取り出して画面をスクロールし始めた。
達也は珍しく都会から引っ越してきた人間だ。掲示板サイトで俺達の通っている学校名を検索すると、また画面をスクロールしてゆく。やがて目当ての画像ファイルを見つけたようで、画像の拡大を行うと俺にその画面を見ろと言わんばかりに押し付ける。
 まず初めに視界に映ったのはよく朝のニュース番組で見る光景とポップな見えやすい字体で書かれている小さなニュース記事のタイトルだった。

『増加する少年犯罪、中学二年生男子が児童を殺害』

 記事自体は特別に注目するほどでもなかったが、自分と同じ中学二年生だという学年が少しだけ気に障る。

「よく見ろよ。この後ろ姿誰かに似ていると思わないか?」

 達也に言われたとおりにじっと凝らしてその後ろ姿を見つめる。
 黒い服に黒いズボン。背は中学二年生にしては小さく、猫背の姿がより一層身体を不健康そうに見立てていた。よく見ると耳の辺りに眼鏡の縁がかかっている姿が見ることが出来る。確かに、見覚えがある。

「この場所って」

 それどころか場所にも見覚えがあった。この田舎で唯一存在する小さなショッピングモールの前の広場だ。
 俺はその瞬間に、全てを理解した。
 言われてみればそこに座っていた男子と画像の後ろ姿はやけにピッタリと一致してしまう。
 石泉の言っていた事はこういう事だったのか。
 しかし、俺はそこまで考えを及ばせるとある一つの疑念にぶつかった。
 ならばどこに担任である松木が学校を休む必要性があるのだろう。もしかしたら事情聴取にでも行っているのだろうか。だったら俺達も事情聴取を受ける事態に発展しているはずだ。

「やっと理解したか。面白い事になってきたよな」

 今まで見た事のない黒い笑みを見せる達也に戸惑ったが、何か俺が言う前にその声は更に大きな声に遮られた。

「二人とも掲示板見てるんだ。これって絶対田辺だよね!」

 いきなり俺達の所にやってきて神崎陽子は教室中に轟く声を響かせた。しかしいつものことなので俺達は軽く流して陽子の言葉に反応する。

「陽子、こいつこの画像今見たらしいぜ。あの噂の事教えてやれよ」
「え、それも知らなかったの? 相変わらずあんた遅れてるわね」

 陽子はスマートホンの刺殺された少年を拡大してゆく。そしてまたその画面を俺へと突き付けた。

「たまたまこの広場にあたしの後輩がいたらしいんだけど、その後輩が言うにはこの子供が刺された直後に駆け寄ったのって松木らしいんだよね」
「それ、マジかよ」

 田辺は松木ではなくその子供を殺したのか。

「だからウワサだって。大通りでナイフで刺された子供を抱きかかえてさ、血みどろで派手な光景だったってさ。本当だったらウケるよね、あの地味な田辺が死ぬ前に文字通り一花咲かせたんだし」
「へえ」

 俺は、乾いた笑顔を浮かべながら内心底冷えした目で陽子を見つめていた。
 陽子はこんな事を言うような奴だったか? 
 こんな事件の後だ。多少感覚が麻痺しているのだろうが、少し不安になった。人の死を何とも思わないこいつらと一緒に居て俺は大丈夫なのだろうか?

「田辺はもう捕まったのか?」

 達也が陽子にそう尋ねる。達也もそこまで詳しいわけではないらしい。

「噂じゃまだ捕まっていないらしいわよ。こんな田舎町だし山に逃げ込めば警察も何も出来ないでしょ」

 普通なら注意勧告が出てもおかしくないはずだが、対応が遅れているのかはたまた穏便に事を進ませたいのだろうか。どちらにせよ危ないことに変わりはなかった。

「しっかし、田辺も頭おかしいよね? よくあんな殺人鬼と半年も同じクラスにいたわ」

 教室の中央で陽子がそうまくしたてる。それを宥める人間もいれば、舌打ちする人間、同調する人間、興味すら抱かない人間もいた。
 人が死ぬのは当たり前の事だ。しかし、しばらくはこの話題で持ち切りになるのだろう。俺はそう考えると机に突っ伏して次の授業に備えた。
 しかし、人間は忘れる生き物だ。
 朝礼を寝て過ごし、達也と話しながら訪れた終礼には既にこの話は頭の奥底にまで移動していた。まるで遠い昔に聞いた話のようで、たまに思い出したりするくらいだった。今日は部活もないので早く帰ろうと帰路につく。

 そしていつの間にか二週間の時が過ぎていた。

 誰かが田辺惇平の話題を出すことは少なくなっており、また松木有成の話題が出ることもなくなっていた。冗談で田辺に刺されるなんていう輩がいるくらいで平和なものである。消息も不明らしく、山の中でもうくたばってしまったのだろうと大人の意見も一致しているようだった。
 最初は誰もが不満を漏らしていた学年主任の指導にもいつの間にか慣れてしまっており、一年を終えるための締めくくりに向かおうとしていた。
 そんなある日の事だった。
 冬の最後を見せるかの如く降り積もった雪のおかげでグラウンドが使えなくなり、サッカー部は二週間ぶりの休日を迎えていた。
 そのせいか、俺はなんとなく田辺惇平の名前を思い出していた。

 自分の家のある方向まで歩き続けると友人と別れて独りで歩き始める。イヤホンで曲でも聴こうとスマートホンの電源を付けた瞬間だった。

「何だ、これ?」

 そこで、登録した覚えのないメールアドレスからメールが来ていることに気が付いた。

 心臓がバクバクと音を出して鳴りやまない。一旦携帯を閉じて雪道を数歩歩いてからまた開いた。
 そこには、既に死んだと思われていた元クラスメイトの殺人犯の名前があったのだ。

『お久しぶりです、田辺惇平です。
 これを見たときに恐らく僕は人として生きてはいないでしょう。
 一つだけお願いがあります。
 どうか僕を人殺しにした真犯人を見つけてください。
 もし誰かにこの事を話せば、あなたの一番大事な人の命をこのナイフで奪います』





(Aメロ)

○あなたはいつも僕らの上に立って「みんなは平等だ」なんて言っています。
○何故真実を告げはしないのでしょうか。それが僕には理解出来ませんでした。
○先生、あなたは僕に「期待してる」と上辺だけの笑顔で、僕が嫌いなのはもうわかっているよ。
○最後に聞く言葉は「俺はお前のためを思って」
○平等って何ですか?

「惇平、悪いが転勤することになった」

 中学校に入学して約一年が過ぎた頃、父親の言葉によって家庭が久しぶりに揺れた。
 田舎とはいってもそれなりに栄えてはいるし小さいがショッピングモールもある。人口も少ないわけではない。学校にも少なくない人数の生徒がいると父親は熱弁していた。

「引っ越しは怖くない?」

 友達に何度もそう尋ねられた。

「怖いよ」

 口ではそう言っていたが、内心では少し楽しみだった。親も何も心配していないようで、案外何とかなるものだろう僕は高をくくっていたのだ。
 どのくらいの時間が経ってこの場所に着いたかは覚えていない。車の中で長い間眠っていたらいつの間にか着いていたのだ。

「すごい、緑がいっぱいだ」

 新しい家はどうやら借家のようで、少し古びれていたがとても広く住み心地は良さそうだった。

「惇平、部屋が一つ余っているからこの部屋はあなたが好きに使っていいわよ」

そして嬉しいことに僕は自分の部屋を宛がわれた。中々大きくて良い部屋だ。窓からの見晴らしは良く、景色もいい。
 最初は見慣れない自然の多い風景が楽しかった。
 軽く街を父親の車で一周する。新しい中学校も悪くはない雰囲気だ。転入手続きをする際に軽くグラウンドを覗く。

「はい、私が責任を持って面倒を見ますよ。何、みんな良い子たちです。すぐに馴染むことが出来るでしょう」

 担任になると紹介された松木有成という三十代くらいの人の良さそうな男が両親と世間話を続けている。
活気のある声が聞こえて窓から校庭を眺めると、サッカー部が練習試合を行っていた。
 僕は、それを見てただ良いな、と思った。そこに少しだけ違和感を感じる。
 集団の中で先頭を走る少年。快活そうな表情で縦横無尽にグラウンドを駆け抜ける少年は何故かあまり楽しそうにないのだ。
 それが少しだけ気にかかった。
 ただ、それだけだった。

 四月に入って僕は今の学校に編入した。
 クラスは二年四組。それは良いのか悪いのかは入ったばかりの僕にはよく分からない。

「田辺惇平です。その、よろしくお願いします」

 転入時の決まり文句を言って僕は教室の一番隅の机を宛がわれた。
 二つ前の右隣には入学手続きの時に窓から見たサッカー部の彼が座っていた。
 彼と仲良くなりたい、そう思った。
 だけど僕じゃ生きている世界が違うのだろう。彼は休み時間の度にグラウンドへと大勢の友達と消えていった。

 僕は友達が出来ないでいた。
編入といえども小規模なこの学校では全員が知り合い同士である。何ともいえない疎外感がそこにはあった。
 それに、友達の作り方が分からないのだ。前の学校ではどうやって友達を作っていたのか、そう考えると更に頭の中がグチャグチャになっていく。
 落ち込んで勉強も手につかなくなった。

「田辺、自分から話しかけに行かないと友達なんて出来ないぞ」

 松木先生は心配して僕にそう言ってくれた。
 けどもう四月も終盤まで来てしまっていた。今頃積極的に話しかけたら変じゃないのか? 気持ち悪いと思われないのだろうか。そう考えると途端に身体が凍り付いて動かなくなる。
 夜更かしして転校前から持ってきた漫画を読む時間が長くなった。

 そのまま五月が訪れた。奇妙な事にこのクラスに僕と同じで都会からの転校生がやってきた。名前は井出達也といい、東京からの転校生なのだそうだ。

「井出達也です。前の学校ではバスケットボール部に入っていました。まだ転校してきたばかりで全然分からないことばかりなので色々教えてくれると嬉しいです!」

 彼はとても話しかけやすい雰囲気でありサッカーも上手く、みるみるクラスに溶け込んでいった。
 彼の周りにはよく人が集まった。僕の時は全然誰も話しかけてくれなかったのに。転校生同士仲良くなれるかと思ったけれど井出君はすぐにクラスの中心になってしまった。
 僕と井出君を比較する噂をよく耳にした。

 そんなある日の事だった。
 僕に初めて友達が出来た。きっかけは僕が休み時間に読もうとたまたま持ってきていた漫画だ。トイレに行こうと廊下を歩いている時に話しかけられたのだ。僕は驚き何事かと思ったが、どうやら彼は僕の漫画に興味があったらしい。

「ちょっと着いて来いよ」

 彼の名前は大島友吾といった。
 不審に思いながらも旧校舎への廊下をゆっくりと時間をかけて歩いていき、昇降口を最後まで昇る。そして屋上へと続く扉に向き合った。

「ここの扉は少し細工すれば外れるようになっているんだ。ちょっと仕掛けを外せば簡単に入る事ができる」

 彼はそう言うと簡単に屋上への扉を開けた。
 そこには、大空のもとにコンクリートでできた硬い地面が広がっていた。
 僕たちは屋上で陽の光を存分に浴びて、少し冷たくなってきた風をその身体に受ける。

「あの漫画、俺に貸してくれよ。その代わりここの扉の開け方を教えてやるからさ」

 僕は二つ返事でその提案を了承した。断る理由なんてない。彼とは友達になれる、そんな予感がしたのだ。
 しかし、彼が教室で僕に話しかけることはなかった。彼はいつも無口な人と行動していた。そんな奴より僕の方が楽しく話せるのに。しかし僕はその理由を聞くことはなかった。 

 何故だか分からないけど無性にむかむかすることが増えた。それとは対照的に、教室で眠ることが増えた。

「惇平、友達はもう出来た?」
「うん、まあまあね」

 家でもあまり寛げないようになってきていた。授業の内容は難しくてよく分からなかった。

 七月に入ると、少しずつ教室内に変化が現れ始めることになった。
 僕が大島に貸すために持ってきた漫画が松木先生に没収されてしまったのだ。そこまで怒られることはないだろうと思っていた僕は豹変した松木先生に怒られて泣きそうになってしまった。
 思えばこの頃から井出君が松木先生に対して反抗することが多くなってきた気がする。
 そういった事をする人間はこの学校では珍しく、神崎陽子さんが軽口を叩くのが精々だったようなのだが、それがクラスの間でみるみる流行るようになっていってしまったのだ。
 しかし、それを見ているのは気分が良かった。僕も漫画を没収されたばっかりだったし、その時だけは僕もこのクラスの一員になれた気がしたからだ。

 七月に入ってから叱られる頻度が徐々に増え始めた。成績も目に見えてどんどん落ちていく。帰ったら親に怒られることも多くなり始めた。それに比例して僕が反抗することも多くなり始めた。
 何故僕が怒られるのだろうか?
 両親が勝手に僕をこの学校へと転校させた結果がこれなのに、何で責任が僕に背負わされているのか分からない。
睡眠時間は更に減り始めていた。起きていても寝ているような感覚になることが多くなってきていた。

 それからは、代わり映えしないつまらない日々が続いていた。





 俺は携帯を眺めるのにも直ぐに飽きて、ベッドの上でいつの間にか天井を眺めていた。
 松木の息子を殺したのは田辺であることはほぼ間違いないのだろうし、田辺を追い詰めてこんな状況に追いやったのは紛れもなく松木自身だ。
 だったら犯人は紛れもなく松木ではないのか? 
 しかし、現にこうやってメールが来ている。意味がないということはないはずだ。

「だけど、何で本当に俺なんだ?」

 一度もこれといった接点はなかった。それなのに俺が選ばれたということは何かしらの意味があるということなのだろうか。
 俺はため息を漏らしながら机の上の携帯電話にもう一度手を伸ばす。二回目のコールで達也は電話に出た。どうやら今日はバスケ部も休みらしい。珍しい事もあるもんだと俺は少し驚いた。

『どうした?』
「少し野暮用で田辺のことが知りたいんだ。お前ら転校生同士だろ、何か接点があったりしないのか?」

 達也は転校生とは思えないほどのスピードで俺たちに馴染んだ。空気を読み、よく動く。教師に反抗する強さを持っていながら気遣いの出来る優しさも持っていた。そんな達也が俺たちと仲良くなるにはそう時間はかからなかった。

『いや、全然知らねえな。……いや、あいつなら何か知ってるかもしれねえ』
「それって誰だよ?」
『大島だ』





(Bメロ)

○あなたは長く生きてきたから、僕はあなたに従わなければならない。
〇それなのにあなたはいつも自分勝手だ。
○もしかしていつも自分より経験のない子供たちに囲まれているから。
〇だから自分が神だとでも思い上がってしまったのでしょうか?

 僕はそこまで書いたところで手元に置いていたルーズリーフを裏返して現在行われている授業用のノートを広げた。夏休みが終わって文化祭が終了した。何の面白味も感じられず、退屈ではあったが両親が仕事の都合で来られなくなったことが救いだった。
 僕はもう一度さっきのルーズリーフを取り出すと、教科書の下に隠した。
 これは歌詞だ。決してポエムなんかじゃない。楽器なんて触ったこともないけれど、僕は歌詞を書き続けていた。
 いつか、こんな田舎を僕は出ていく。そして僕はこの歌詞を使って曲を作るのだ。

 しかし、そんな僕を邪魔するヤツがいた。
 そいつはわざわざ通る必要のない一番後ろの僕の席の前までやってきて、気持ちの悪い薄ら笑いを浮かべるのだった。
 ああ、終わったな。そう思った。
 その人間は当たり前のようにルーズリーフに書かれていた歌詞を朗読する。読んだのはさっき書いた続きの二行だ。
 誰かが息を吹きだす不愉快な音が聞こえた。続いてクスクスと女子特有の感に障る笑い声が響く。
クラスのお調子者がやれ中二病だ、などと騒ぎ出した。先生やめてあげなよー、なんて声も聞こえてくる。
 その人間はそれを聞いて満足すると、取ってつけたように僕を自慢の説教へと導いた。
 教師とは楽な職業だ。適当に最後に説教へと持って行けさえすれば一体どんな罵詈雑言だって許される。

「お前は授業中に何をやっているんだ?」

 その人間は醜い顔を歪ませて僕の顔に唾を浴びせる。僕はそれを冷えた目で見つめていた。ぶんぶんと纏わりついてきてそのわりに殺しにくいのが蠅のようだと感じた。
 そう思った瞬間、そのイメージがすんなりと僕に当てはまっていった。言動、顔、その一挙手一投足までもが蠅の不愉快な行動のように思えてくる。その姿はとても滑稽だった。それに、意味もなく僕が怒られる理由を僕が蠅の供物として選ばれたと仮定した方が気分が落ち着くのだ。
 僕のそんな表情が気に食わないのか、妙に苛立った声でわめき散らし始める。

「授業を受ける気がないのなら廊下に立ってろ、他の生徒の邪魔だ」
「別に僕、先生の授業の邪魔をしていないじゃないですか」

 我慢ならず反論してしまう。

「それが何の言い訳になる? お前がそんな態度だから教える側の俺のやる気が下がるんだ。早く立て!」

 僕はその人間、いいや蠅をひとしきり睨んだ後黙って席を立った。
 他の生徒のために追い出すなら最初から僕に構うなよ。
 僕はそう言おうとした口をつぐんでゆっくりと教室の隅にある扉の前へと歩き始める。他の生徒はまたか、といった空気で僕の行く先をじっと見つめている。この時間がチャンスとばかりに何人もの人間が塾の宿題やらをやっている様子が目に見えた。
 何で僕だけ?
 何で僕だけがこんなにたくさんいる中からこの蠅の供物に選ばれてしまったのだろう。
 何で、何で僕だけが叱られる。前に立たされる。意味が分からなかった。
 僕は扉の前で立ち止まるとくるりと教師の方へと姿勢を向かい直した。教室の隅で黒板へと戻った教師と対峙する。僕はその人間に問いかけた。

「先生、何でみんな授業を全然聞いていないのに僕だけいつも外に立たされるのですか?」

 周囲から余計なことを言っているんじゃねえよ、といった視線をぶつけられたが僕は構いやしなかった。別にその人間の反応は分かりきっているのだ。
 その人間はまるで子供のようにキレて、僕だけに汚い涎を飛ばすのだった。
 僕の中で黒いものが生み出された気がした。それはやがて黒いバケモノとなっていずれ僕という存在は呑み込まれてしまう気がした。
 気がしただけだ。熱さえも出なかった。

 僕はいつの間にか屋上へと来ていた。少し肌寒くなってきているようで、時折冷たい風が僕の肌を覆った。

 乱雑に屋上の扉を叩く音が聞こえる。

「おい」

 どうやらいつの間にか眠っていたみたいだ。僕は急いで目を覚ますといつものように屋上の扉を開けた。

「松木が怒ってたぞ、どこに行ったのかってな」

 寝ている間に六時間目の授業が終わってしまっていたようだ。明日面倒くさいことになるだろうが、一日に怒られる回数が一回増えた程度だ。気にすることはない。

「いいよ、そんなに気にすることじゃない」

 大島はそれ以上何も言わなかった。二人して屋上で仰向けに寝転がると何も喋らなくなってしまった。
 大島は意外と話題には貧困だ。だから二人でいる時は話題を出すのは僕の役目だった。

「昨日、面白い夢を見たんだ」

 僕は思い出した風を装って大島にそう言った。

「面白い夢?」

 大島は少しだけ興味を示したようで、姿勢をどことなく僕の方へと向けた。僕はそれが嬉しくなって少しだけ大げさに話題を振りまいた。

「僕があいつの心臓にナイフを突き立てるんだ、グサリッてさ。血が出てクラスの皆はパニックになって。そうしたらさ、パトカーのサイレンが聞こえて警官が僕に手錠をかけたところで夢から覚めたんだ。そんなタイミングでおパトカーが来るところが夢って感じがするよね」

 大島の顔が歪んでいくのが分かった。頭のおかしいことを言っているということも僕は自分で分かっている。
それでも、自分が頭のおかしい人間、特別な人間だと思われる事がとても気持ちよかったのだ。
 そして僕は何でもっと痛めつけなかったんだろうと続けて言葉を洩らした。
 大島が何も言わずその場に寝転がった。つられて僕も同じように寝転がる。風邪がとても心地よかった。
 僕は昔の事を思い返しながら歌詞の続きを書いていた。隣で大島は寝転がったままでいる。
 大島といる時だけがこの世で一番生を実感できている気がした。どんな形であれ人に求められている、その事実だけが僕の充足感を満たしていた。
 引っ越してきてからの全ての生活が夢で、このままずっとこんな時間が続けばいいのにと考えてしまう。
 そんなわけないと知りながらも少しだけ希望を持ってしまう自分に嫌気がさした。僕の中で何かが壊れてしまっているようだった。

 そして、それは唐突に、だけで必然であるかのように訪れた。
 突然サイレンのように扉を叩く音が鳴り響いた。
僕と大島はすぐに跳ね起きて目を合わせて危険を察知する。ここに僕たちがいるのを知っているのは僕と大島だけだった。だから他にここにくる人間は僕たち以外にはいない。だからこそ胸騒ぎが収まらなかった。
 そして、その予感は的中する。鍵が開錠された音がしたかと思うと、薄ら笑いを浮かべた蠅がのそりと顔を出したのだ。
 絶望感が僕の心を支配する。
 歪な笑顔を見せた蠅はゆっくりと僕と大島を見下して質問を投げかけた。

「お前ら、こんな所で何をやっているんだ?」

 僕には分かる。蠅は心の底で良いオモチャを見つけたとほくそ笑んでいるのだ。

「ここは入ってはいけない場所だって分かってる?」

 ぼくたち二人は黙り続ける。

「田辺君は引っ越してきて間もないから知らなかったのかもしれないけれど、大島君はずっとこの学校に通っているから知らないってことはないよね?」

 大島が否定しようと松木を睨みつける。それを見て松木は面白いものを見つけたように気持ち悪い笑顔で笑った。

「部活に入っていない大島君が旧校舎の方に向かっているから、何かあるなと来てみればさあ、まさかこんなことをやっていたなんてね」

 そして、この男は信じられない言葉を口にした。

「大島、田辺と仲良くしたいのは分かるがこういうのはよくないと思うよ?」

 一瞬、この男が何を言っているのか分からなくなる。しかし、すぐにその言葉の意味を理解した。

「田辺がクラスに馴染めていないのは僕が一番よく分かっている。だからこうやって拠り所で溜まったストレスを発散しているんだろう? けれどルールはルールだ。二人ともあまり成績はよくないんだからこういう事に固執せずに勉強方面にストレスを発散しなさい。それにしても意外だな。まさか二人の仲が良かったなんて。大島、これからは田辺を良い方向に導いてやってくれよ? もしこれからもこういった事が続けばお前も連帯責任で教室から追い出すからな?」

 言葉は難しかったが、僕にだってこれくらい分かる。
 先生、

「特に大島、こういうことが続いたら田辺と一緒に廊下に立たせるぞ?」

 先生、なんで、
 大島と目が合う。
 先生、なんでそこまで分かっているのなら、
 大島は僕から目を逸らした。
 僕から全てを取り上げようとするのですか?

 黒いものが全身から溢れ出そうになるのを抑えて、心の中で何度も何度もこの男を殺す。  
 包丁を刺して、かき混ぜて、蠅を潰すかのように踏み潰す。だけど、そんなことをしてももう失ってしまったものを取り返すことは出来ないのだ。
 そして、次の日から僕と大島は目も合わせなくなっていた。





 俺と達也は休日明けの放課後に大島友吾を呼び出した。
 大島友吾は急に呼び出されたことに怯えている様子で、こちらの様子を伺い続けている。

「そう固くなるなよ、ちょっと聞きたいことがあっただけだ」

 俺はそんな状態が煩わしくなって手っ取り早く本題を大島友吾へと突き付ける。

「……聞きたいこと?」
「田辺惇平のことだ、仲良かったんだろ?」

 達也が皮肉を言っているような口ぶりで大島友吾に威圧を掛ける。
 何故達也がここまで大島友吾の事を嫌っているのかは分からないが、俺は気にせず質問を続けた。

「ちょっとした質問なんだけどな、あいつが松木の息子を殺した理由に心当たりはないか?」

 大島友吾は俺の言葉にビクリと身体を震わせた。
 大島友吾は唇を噛んだまま何も喋らない。
 そんな様子に達也は舌打ちをした。

「良助、俺はやっぱりコイツが嫌いだ。仲が良かったのにまるで腫物を扱うかのように教室では話しかけねえし、自分のせいで人殺しを作り出したかもしれないのに何も感じずに自分が殺されなくてよかった、みたいな面してやがる」

 その言葉が達也から出たのが意外だった。

「まあ、このまま待っても埒があかねえしな。このまま何も喋らなければ俺らにも考えがあるぜ」

 大島友吾は青ざめた顔で俺たちの顔をゆっくりと見渡す。
 そしてたっぷりと時間を取った後、震えた声でポツリポツリと語り始めた。

「……俺があいつと絡んでいたのは十一月までだ。だから一月に子供を殺したあいつは俺とは関係ない、はずなんだ」

 沈黙。

「俺はあいつと屋上で……、あんなことを言われたらしょうがなかったんだ。俺まで廊下に連れ出されたら……」

 沈黙。

「そもそも、あいつは友達じゃ……」

 沈黙、とはいかなかった。

 俺と達也は無言で帰り道を歩いていた。

「珍しいな、お前があんなに感情をむき出しになるなんて」

 達也は大島友吾へと掴みかかり掛けた。俺が全力で引き留めなかったら暴力沙汰になっていたかもしれない。

「良助、笑わないで聞いてくれるか?」

 達也は意を決したような顔で俺に向き直った。俺はただそれに頷いた。

「俺、前の学校じゃ友達いなかったんだ。それで転校するってなってチャンスだって思ったんだ。慣れないスポーツ始めて、大きな声出して話しかけて。だけどそんな不安定な立場だったから田辺に声をかけれなかった事をちょっとだけ後悔してるんだ」
「……そうか」

 俺はそう答えると、この時だけ田辺に感謝した。
 お前のおかげで見れた世界がある。
 俺が生きている世界では見えなかった何かだ。

「何で田辺はあそこまで松木に目を付けられていたんだろうな」
「さあな」

 そう俺は返答した。だけど、やはり松木のあの異常なまでの田辺への執着には疑問が残った。





(Chorus)

○あなたの権力によって従わなければいけない僕ら、あなたはいつも自分勝手だ。
○いつまでその力を振りかざして僕らを操り続けるのですか?
○あなたは「愛」を知っていますか? あなたは「心」を持っていますか?
○もし知っていたら僕たちにそれを分かるように「教」えてください。

 作ることのできない歌の歌詞、それを書く腕が止まっていた。
 同じような場所でグルグルと時が止まっている。たまに何かを少し変えてはまた戻したりの繰り返しだった。
 黒く濁った黒板をじっと見つめる。そこに書かれている文字の羅列をノートに記し終わってはまたルーズリーフを広げた。
 ただそれだけの日々が続いていた。
 いつの間にか眠くなっては寝て、起きて、移して、睨んで、ただそれだけだった。
 僕の人生に意味はあるのだろうか。生きている意味なんてあるのだろうか?

「ねえ」

 一瞬、それが誰に向けられての言葉なのか僕には理解できなかった。最近は誰とも会話しない日々が続いていなかったからだろう。

「ねえ、田辺君」

 久しぶりに自分の名前を聞いた気がする。声をかけてきたのは隣の席の女子だった。

「ルーズリーフ貸して欲しいんだけど、いいかな?」
「……いいよ」

 そう言って二枚のルーズリーフを手渡す。その女子はありがとと言って僕からルーズリーフを受け取った。

「田辺君っていつもノートの他に何かルーズリーフに書いてるよね? それって何なの?」

 前々から気になっていたのだろうか。ひっそりと小声で僕にその質問を投げかけた。いつもならこんなことを誰にも教えないが、もう僕は何もかもどうでもよくなっていたらしい。気付けば口を開いていた。

「歌詞を書いているんだ。高校に入ったら曲を作りたくて」

 笑い飛ばされるか、そうなんだと気まずそうに返事されると思っていたのだけど、その子の返事は少し違っていた。

「へえ、そうなんだ。凄い、頑張ってね」
「え?」

 思いもよらなかった言葉を聞いて、少しだけ世界が色付いたような気がした。大島と会話をしていた時のような、どこか懐かしい穏やかな気分になった。

「もし良かったら曲が完成したら私に聞かせてよ」

 返事も出来ずにただ頷く。
 そうだ、まだ自己紹介をしていなかったねと彼女は言った。こんな時期に自己紹介をするのも変な話だと僕が笑うと彼女もつられて笑った。

「私は小山由香、よろしくね田辺君」
「うん、よろしく」

 それから、学校に来ることがまた少しずつ楽しみになってきた。
 人間とはなんて単純なものだろう。たった一度、たった一度だけ会話しただけで世界が明るく変わっていった気がしたのだ。
 そして、僕に再び幸運が舞い降りた。
 屋上が完全に封鎖されてからは僕は図書館に行くことが多くなった。

「あれ、田辺君?」

 そこで小山さんに出会ったのだ。

「珍しいね、図書館にクラスの子が来るなんて。何読んでるの?」

 人と会話するのはここまで楽しかったのだろうか。僕にとって小山さんはまるでメシアのような存在となっていた。

 小山さんと少しずつ話すようになってから二週間くらいの時が経ったのだろうか。
 僕が書き終わった歌詞をまとめていた時に、神崎さんが小山さんを連れて女子が集まっている場所へと連れて行ったのだ。
 そして口を開く。

「それで小山、あんたあの後どこまでいったの?」

 それは何てことはなく、他愛のない普通の恋愛話だった。
 だけどその女子の口ぶりと、小山さんの照れ具合から、小山さんの恋が実ったのだということは分かった。
 前の方の席で横島君がオレンジジュースを吹きだしている姿が遠目に映った。

 僕はそれから一度も図書館に行くことはなくなった。
 そして、冬休みが始まる頃には僕はまた教室で誰とも話さなくなっていた。

 冬休みが始まっていた。
 僕は固く閉ざされた小さな自分の部屋で一人、歌詞を書いていた。
 耳にはヘッドホン、ルーズリーフの隣には膨大な宿題と自動販売機で買った炭酸飲料のボトルがあった。それは僕のちょっとした幸福だった。
 聞いていた曲も終盤に差し掛かり始める。
 僕は次の曲が流れる前のつなぎ目が嫌いだった。その瞬間だけいつも現実に引き戻される。
 いつしか、僕はずっと最後まで大声で叫び続ける、そんな曲ばかり聞くようになっていた。僕の代わりに叫んでくれる、そんな気がしたのだ。
 僕もこうなりたい、そう思った。
 仲間は見つかるのだろうか。
大丈夫、こんな田舎町ではない都会の普通の高校に進学すればきっと同じ志を持つ仲間が現れる。
 それに、最低でも一人は創った曲を聞いてくれる人がいるのだ。
 小山さんはそう僕に言った。だけど、何故かもう僕はそれもどうでもよくなっていた。
 本当に何でだろう。
 僕はヘッドホンを付けて、自分の部屋に鍵をかけて、ベッドに潜り込み、そして僕と世界を切り離した。
 小山さんがいなくても僕の世界は終わらない。
 恐らく僕がいなくても小山さんの世界は何も変わらないだろう。
 それでも、あの小山さんの言葉であの時の一瞬だけでも僕は救われたんだ。嬉しかった。また希望が持てた。
 別に彼氏がいたって関係ないはずなのに、僕は救われたはずなのに、なぜだか僕はまた心にナイフが突き立てられたような痛みを感じていた。

 歌詞を書く腕が止まっていた。
 もう我慢の限界だった。
 冬休みも中盤に差し掛かったところで、僕はとんでもない虚無感に襲われていた。
 布団の中で抑えきれない衝動を無理やり押さえ続ける。
 僕の頭にはナイフが刺さり続けている。
 もちろんそれは僕の想像でしかないのだけど、常に僕の頭にナイフが突き立てられているような、そんなグチャグチャになってしまった感覚の元で僕は唯一の活路を見出そうともがき続けていた。 
 しかし、次第に現実と夢の境目が曖昧になってきていた僕はいつの間にか現実でもナイフが突き立てられているような錯覚に陥ってしまっているのだろう。
 しかしそこまで考えが至っても僕の頭にナイフが刺さり続けている事に変わりはない。
 頭がおかしくてどうにかなりそうだった。
今までも何もしてこなかったし、これからも何もしない日が続いてゆく。
 もうこれ以上この家にいたくなかったし、かといって訪ねるあてもなかった。

 いや、一つだけあるじゃないか。
 僕は貯金箱を砕いてパソコンを点ける。パソコンを立ち上がるのを待ちながら僕は電話帳を取り出して目的のページを探し始める。

 ――あった。僕は携帯電話でゆっくりと、間違えないように一つずつ数字を確認しながら入力していく。

 数秒の雑音の後、ゆっくりと繋がった気配がした。

『はい、もしもし。小林です』

 その声は僕のナイフを一瞬で消し飛ばし、陰鬱な纏いを照らしていく。
 僕はぱくぱくと口を動かし、嬉しさを噛みしめると平静を装ってその言葉に返答する。

「もしもし、俺だよ。久しぶりだな和樹」
『その声は惇平か! 久しぶり! どうしたんだ?』
「いや、今度の週末に一回そっちに行こうかなって思ってて、もしかしたら会えないかなって」

 スラスラと嘘が口から飛び出していく。とくに罪の意識なんて感じなかった。

『……あー、悪い。週末は野球の試合があって厳しいんだ。また今度でいいか?』
「え、お前野球なんて始めたのか?」
『ああ、前々からやりたいと思ってたんだ。お前が引っ越してから暇な日が多くなったからさ、ちょっとやってやろうかなって思って』

 意外だった。ずっと俺の後ろを着いてきていた和樹が自分からやりたいことを始めたのだ。俺は複雑な気持ちになりながらも親友の勇気を祝福する。

「……そっか、頑張れよ」
『ああ、お前もな!』

 電話は切れた。

 窓からの月明かりを頼りにのそりとベッドから立ちあがり、勉強机の電気を付ける。部屋全体がうっすらと明るくなった。
 虫の鳴き声だけが夜の闇を彩っていた。もう家からの音は消えている。さすがに寝静まったのだろう。
 時計を確認すると既に夜中の二時だった。既に日曜日になっている。
 懐中電灯をポケットに詰め込んで、荷物をまとめていた鞄を肩にかけるとそっと部屋の鍵を開けた。
 木の擦れる音が響いたが人が起きるほどではない。
 僕はそのまま廊下を進んでいった。そして玄関に差し掛かる。 

 会えなくても構わない。頑張っている和樹の顔を一目見たい。
 そしたら僕も頑張れる。
 根拠はないけど僕はそう確信していた。

 今からなら今日の昼の試合を見てすぐに帰れば今日の深夜には帰ってくることが出来るだろう。書置きを残せば両親も納得するはずだ。
 玄関をゆっくりと開錠する。
 冬に近づいてきたのだろうか、少し冷たい風が僕の身体を襲った。
 少し早いがコートに身を包み、僕は家を出た。
 行き慣れた街へと移動して、少し離れたところにあるバス停まで歩き続ける。そして唯一深夜に運航するバスに乗って転校以前の場所へと向かう。
 いつもとは少し違う、夜の田舎町の風景が綺麗でやけにリアルだった。

 三時間ほど経って少し都会に近付いてきたようで、段々明かりが差し込み始めた。
 見慣れた街へ着くと僕はバスを降りて街を見渡した。
 僕は近くの駅へと移動し、始発に乗り込むと目を閉じた。

 懐かしい匂いだ。
 駅の改札から街へ飛び出すと僕は懐かしい気持ちになった。
 そろそろ親が僕の書置きに気付いた頃だろうか。
 都会の朝は田舎とは比べものにならないほど喧騒に満ちていて、友達と仲良さそうに騒いでいる同年代の子供たち、親しそうに過ごしている子供連れの夫婦、楽しそうに話しているカップル。その誰もがたった一人でこの場に存在し、誰とも打ち解けられない僕を嘲笑っているように感じた。

 見慣れた町を僕はどこか囚人のような面持ちで徘徊していた。
 そしてやがて僕は目的地のグラウンドへと到着する。
 そこでは、和樹が本当に、本当に楽しそうな表情で仲間たちと勝利を分かち合っている姿が見えた。
 僕はそれを見て、どこか別の世界からこっそりとこの世界を窺っているような気分だな、と感じた。
 僕は既にこの世界に生きてはいなかった。
 僕の存在自体が否定されている。
 この世界は僕を必要としていなかった。
 僕は世界から逃げるように外に出ていった。

 そして僕はどこか晴れ晴れとした表情で帰りの電車に乗った。





(Interlude)

 俺はこれ以上クラスメイトから得られる情報はないと判断し、知り合いの人脈を頼りに、松木の行方を追い始めた。
 当人は誰にも言わずに消えたつもりだろうが、こんな田舎ではすぐに足跡は見つかる。
 県内とはいえそれなりに遠く、移動費もばかにならなさそうだったがあのまま答えを出せないままというわけにはいかない。
 それに、大島との一件もある。何となく、あのメールにそれだけの心が詰まっているような気がしてきたのだ。

 しかし、俺はその他に気にかかっていることが出来ていた。
 それは松木の行方を追っている間に聞いた、とある噂だった。

「二週間振りですね、先生」

 バスで二時間、歩きで三十分の場所に小さな民家があった。人口数百人の小さな村らしい。まるで時代に取り残されているような、そんな印象を受けた。
 そこに松木はいた。
 松木の奥さんであろう人に俺たちは通されて、俺たちは松木の書斎であろう部屋へと連れていかれた。。
 松木は生気を失った顔で、焦点の合わない視線を俺たちに向けていた。いや、合わせるきはないのかもしれない。

「事の顛末を訪ねてもいいですか?」

 青白い表情は変わらない。
 しかし、松木は懺悔をするようにぽつりぽつりと何かを言葉にし始めた。
 俺はそれを聞き洩らさないようにそっと耳を傾けた。

「教師という職業は俺の憧れだった」

 そんな言い訳のような言葉からぽつぽつと次の言葉が紡がれ始める。

「子供の人生を良いものへと導く。それは俺の理想とする仕事だったんだ。俺の教師生活は可愛い生徒たちに囲まれた、希望のあるものだった。
 しかし、そんなものは幻想に過ぎなかった。
メディアはいじめが起こらないように教師はちゃんと管理すべきだと激しくバッシングを行い、PTAや何も知らない馬鹿な親たちは子供たちの人権を主張し管理主義の批判で盛り上がっていた。
 あいつらは自分の子供なら教師の管理なしで成長できるものだと勘違いしている。それなのに自分の家庭環境に問題があると責任の全てを教師に擦り付けようとしてくるんだ。
 更に、生徒たちとは大きな溝があった。
 その溝を潰さなければ本音で関わりあえることもできない。
 俺がいじめられている生徒を助けたとしても、生徒たちはそれを望んではいなかった。そうすることで余計ややこしくなる。俺にはそれをどうにかするような才能なんてなかった。
 やがて子供が生まれ、あまり生徒たちに強く関心を持つことは次第になくなっていった。別にこれだけなら良かったんだ。
 全てが狂ったのは俺がこの田舎町へと転勤したことにあった。
 学校が必然的に一つしかなく、小中一貫校であったため自分の息子はやがてもうすぐ俺の勤める学校に入学してくる。
 格好悪い姿は見せられなかった。
 幸いにも、未だクラスに馴染めない田辺を除いては俺のクラスはとても恵まれたクラスだった。
 しかしそれも井出が転校してきてからは何もかもが壊れ始めた。
 井出の影響により、次第に沢山の生徒たちが俺に反抗してくるようになり始めた。言い訳のしようもない、これまでが甘すぎたのだ。
 俺は必至でクラスを良い方向へと持っていこうとした。
 何度も井出やお前、吉田や神崎を指導しようとしたし、必至で勉強して授業の効率も上げていこうと努力した。
 しかしそれはどれも無駄に終わった。
 小さな田舎町では情報の出回りは早い。家に帰ると妻が最近あなたの生徒たちの素行が悪くなって問題になってきていると呟いた。
 おかしい。
 俺はもっと上手くやれるはずだ。
 絶望に満ちた表情で教壇へと登る。俺が必至で組み込んだ授業を一切聞かないでルーズリーフに落書きを続けている田辺の姿がふと目に入った。
 こいつは俺が生徒たちに反抗をされるととても嬉しそうな顔をする。最初は親身になって助言をあげたりしてやったのになんて生意気なんだ。俺は激昂した。ストレスでどうにかなってしまいそうだった。
 そんな時、悪魔が囁いた。横島、生徒を最も簡単に掌握する方法は何か分かるか? それは教師という絶対の権力を振りかざす事だ。
俺が田辺に溜まった鬱憤を吐き出すかの如く強くしかりつけると、反抗する生徒が何か新しい面白い玩具を見つけたような顔して反抗しなくなっていくのが分かった。 
 子供の時からそうだった。自分の身を守るには他人を利用するしかなかったではないか。
 俺は教師になってから生徒全員が幸せになれる方法を考えてきた。しかし、それは無理ではないのか? 人間同士に相性というものがあるように、教師と子供の間にも相性というものがある。そう思い込むことで幾分か俺の罪悪感は薄れていった。
 それからは、俺の何かが壊れ始めた」
「それで、あの噂は本当なんですか?」

 俺はその話を聞いて、何も答えるでもなく次の質問をぶつけた。

「……ああ、本当に不幸な偶然が重なっていたんだろう」

 俺は、松木の消息を探すにつれて親たちが子供たちには何かを隠している雰囲気に気が付き始めた。
 そして、ふと田辺の両親たちはどうしているのだろうと思い至ってしまったのだ。

「田辺の両親が交通事故に合って事件当日の朝になくなっていたっていうのは」






(Cメロ)

○僕のような膿が出来ることで他の人間が豊かになるこんな世の中ですが、
○僕はまた別の膿を守るために、この命を捧げます。
○そして理解できないなんて言わないでください。
○あなたは昔僕たちと同じだったんですよ。
○もし、もし、
○考えはしないのでしょうか。
○僕が今ここに立って、憎しみの心とあなたの教えをナイフに変えて、
○ああ、ああ、

『家出したかもしれないと言って君の両親たちはすぐに車で……』

 僕は黙って携帯電話をポケットに入れた。
 先ほどまでは幸福に満ちていた表情だったはずなのに、今はそんなことはどうでもよくなっていた。
 友達が幸せになったからといっても所詮他人は他人。僕が幸福になったというわけではない。そう考える時点で僕は既に人間ではなくなっていた。
 僕はバスから降りて感慨深げに夕刻の風景を見た。
 それは出発の時とはまた違った風景で、当然初めてここに来た時に見た風景とも違って見えた。
 僕はどこともなくただフラフラと歩き始めた。

 生きていた中で本当に様々なことがあった。
もっと賢く生きていけたのかもしれない。
 大島に直ぐに声をかけたら仲直りできていたのかもしれない。
 小山さんに告白していれば悔いは残らなかったのかもしれない。
 もっと幸せになれていたのかもしれない。
 もう冬も終わりを迎えようとしていた。とくに外の世界に出ても何かが起きるわけもなく、自堕落な生活を送るうちにもう財布も底をつき、僕はどんどん薄汚れていった。
 僕はいつの間にかショッピングモールへと来ていた。とはいってもショッピングモールの中に入ったわけではなく、噴水が目印で分かり易いために集合場所によく使われている所だショッピングモール前の広場だった。
 子供連れの親子が多く、かなりにぎわっていた。
 彼らはとても、本当に楽しそうに笑っていて、まるで僕を嘲笑っているようだった。
 そんな僕の所に、一個の青いボールが転がってきた。

「ご、ごめんなさい」

 まだ幼稚園を卒業したてのような、そんな幼い笑顔が僕の前に現れた。
 ボールを拾って親の元へと駆けていく。
 そしてそこには奥さんと子供と、幸せそうに笑うあの蠅の姿があった。僕は気付かれないように無表情でその姿を凝視した。睨みつけるわけではなく、ただ見ていた。
 なんであんなに幸せそうに笑えるんだろう?
 僕はこんなに辛い思いをしているのに、何であそこまで楽しそうにできるのだろうか。
 あんなに可愛らしかった子供がまるで悪魔の子供ように見え始めた。
 かわいそうに、とそう思った。
 それはただ純粋に、ただの逆恨みの一つもなく本当にそう思ったのだ。
 僕と同じで生まれてきたことから間違っていた子供は、少しずつ成長しているのだ。
 僕はぼうっとしたままその姿を眺めていた。
 今はまだあんなに幼いのに、いつかはあの男と同じように薄汚い笑顔を浮かべるのだろうか。
 あの子供には未来がある。
 それは限りなく広い、様々な数の未来の可能性があるのだろう。
 所詮あの男はもう限りない命だ。今更あの男が死んだところで救える命はたかが知れている。
 しかし、あの子供は違う。あの子供には数えることのできないほどの人間を不幸にする可能性があるのだ。だったら、今あの子供を殺せばたくさんの人間を救うことができるのだ。
 そして唐突に思いつく。
 僕が今あの子供を蹴れば死ぬだろうか。
 そうしたらあの男は苦しむのだろうか。
 泣くのだろうか。
 それはとても喜ばしいことだった。
 僕はいつの間にか筆箱からカッターナイフを取り出していた。 

 周りからの視線が心地良い。
 同じ人間じゃない。そう僕を見るその目が気持ちよかった。
 僕のことを認識してくれることが嬉しかった。
 最初の蹴りは驚くほど綺麗に決まった。ぐにゃっとした感触と共にボールのように飛んでいった。
 そして僕は驚くほど上手く作れた笑顔であぜんとしていたあの男に笑いけかけた。
 そしてカッターナイフを柔らかななその肢体に突き刺した。
 そして、名前の知らない女性の悲鳴と共に僕はその場から消えていった。
 心の中は晴れていった。
 とてもとても心地よかった。
 あの男は僕以上に生きる価値なんてなかったのだ。だからこそ痛みを知るべきなのだ。
 あの男の「愛」はまがい物で、あの男の「心」は薄汚れていて、それを教えた子供たちも生きる価値が薄れてゆく。
 誰がそんなあなたに教わることを請うのだろうか。
 知らないなんて言わないだろう。
 あなたも昔僕たちと同じ子供で、同じことを思っていたはずなんだ。
 ああ、ああ。
 そしてあなたは考えなかったのだろうか。 
 自分を痛めつけてきた他人の心が、刃となって大切なものを壊してしまうこの未来を。





 さて困った。
というのはどうやって今回の事件の真犯人を導き出すかという事だ。
精神的に追い詰めたのはやっぱり松木だし、それを助長したのは俺たちクラスメイトだ。
 もっと大島が人間味のあるやつならばあそこまで追い詰められなかったかもしれない。
 けれど。
 けれど、やっぱり犯人はあいつしかいないじゃないか。しかし、それで納得するのだろうか。

 ……会って話がしたい。





(Chorus)

○心の赴くままに生きているだけの僕、それを見て世界は僕を嗤う。
○僕の世界に標はなく、僕が生きているのはおかしいですか?
○僕の世界は酷く醜く、滑稽で目も合わせてはくれなかった。
○だからあなたは僕のようにはならないでください。正しい方向に刃を向けてください。

 冬が本格的に始まっていた。
 少しずつ降る雪に子供たちのはしゃぐ声が聞こえていた。
 僕は学校の屋上で冷たい風を一身に受けながら携帯電話を取り出した。そこには、一通のメールが届いていた。

『真犯人が分かった。会って話がしたい』

 本当だろうか?
 犯人はどう考えても松木だ。嘘をついて警察でも呼ぶ気なのだろうか?
 ……まあ、それもいいのかもしれない。
 その時はここから飛び降りるだけだ。





(Outro)

 田辺に指定された場所は学校だった。
別に幽霊を信じているわけではないが、深夜の学校というものは心が騒ぐものがある。
 途中に寄った教室はまだ人の温もりがあった。まさか校舎に潜んでいるとは誰も思わなかっただろう。新しく導入された暖房の中で田辺は冬の寒さを凌いでいたのだ。
 鳥肌が経った。同じ人間だとは思えないその行為に段々と田辺と会うのが怖くなっていく。
 しかし、俺は何故自分が選ばれたのか聞かなければならない。それは俺の義務なのだろう。それに大切な人が殺されるのは嫌だ。

「こっちか」

 指定された場所は、本来ならば禁止されている校舎の屋上だった。なるほど、授業中はずっとここに潜伏していたのだろう。
 俺はメールに書かれた通りに屋上への扉を開けた。

 そこに、田辺はいた。
 何日も風呂に入り続けていない田辺はむくみ続けていて、見るだけで異臭がするようだった。

「久しぶりだな。随分手間をかけさせてくれやがって」
「動くな、先に真犯人の名前を聞く方が先だ」

 随分警戒されているらしい。

「そうか、なら単刀直入に言うぜ」

 まるで推理小説のクライマックスのような展開が少しだけ面白かった。唯一違うのは、俺が何の推理もしていないということだ。

「真犯人は、お前だ」





 最初、彼が何を言っているか分からなかった。一体どんな的外れな答えを言って自分たちの身を守ろうとするのかを期待していただけにぴんと来なかったのだ。

「幾ら心が痛めつけられていたからって、自分の身体に人を殺せと命令を送ることが出来るのはお前自身の心だ。これが俺の答えだ」

 その答えに、俺は酷く納得してしまっていた。
 そうか。
 あの子供を殺したのは僕の心が作り出したナイフなのだ。
 あの時、僕はまるで自分の頭部に刺さっていたナイフを引き抜くように簡単にカッターナイフをあの子供の腹部に突き刺した。そのナイフは非常に滑らかに一つの命を終わらせた。
 あの男とこの世界が僕に刺さっていたナイフの先端を研ぎ澄ませて、僕がそのナイフを引き抜いただけなのだ。
 何で僕が分からない事の答えを彼は一瞬で導き出せてしまうのだろう。
 何で僕と彼でここまでの差が生まれてしまったのだろう。
 でも何故か僕は彼の事を憎めなかった。





「最後に一つ、聞かせてくれないか?」

 田辺は何も答えない。

「どうして俺なんだ?」

 ずっと、それだけが不可解だった。どうして一度も接点がなかった俺なのか。

「憧れ、だったんだ。文化祭にギターを弾いている君が格好良くて、真似して僕も歌詞を書いた。
 生きている中で、僕に足りない物を君は全て持っていた。多分僕と君は決してかかわる事のない平行線で、今までもこれからも混じり合う事はない。だから僕は少しでも君の世界に存在してみたい、そう思ったんだ」

 君は僕の死は簡単に乗り越えられるだろうけどね。
 田辺はそう呟いた。

「死って何だよお前、自首しろよ! 出てきたらいつだって俺がギターくらい教えてやるじゃねえか!」

 俺のその言葉に田辺は段々と泣きそうな顔になっていく。松木に怒られている時と一緒だ。

「ごめん、ありがとう。でももう僕には生きていけるだけの理由はないんだ」

 田辺が一歩ずつ後ずさってゆく。驚くほど速く田辺は屋上のフェンスの向こう側に到達した。

「お、おい!」
「僕は君のギターを弾いている時が一番好きだった。サッカーをしていると時はなんだか無理をしている風に思えた」

 なんで。なんでこいつは誰も知らない俺の本音を……。

「だって僕は君のファンだったから。だから君には僕のようにならないでほしい」

 そして田辺は屋上から飛び降りた。 
 俺は近くに置いてあった封筒から紙を抜き出してそれを読んだ。


○心のナイフを研ぎ澄ませ 
〇だけどそれは自分の幸せのために。

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