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野に咲く花があるだけ

花は野にあるように、と誰かが言った。

あるものがあるように、そこにあるというそれだけでもう

これからは十分だと思ったのだった。


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ついこの間、ある集まりみたいなものに顔を出した。

音楽家とか、声楽家とか、そういう人たちがいろんな場所からめいめい好きに自分の楽器を持ってやってきて

酒を片手にその気になったら演奏したりとか、歌ったりとか、そうやっているうちに朝になってしまうような

眠くもならずに幸せな感じの集まりだった。


そういうところに今まで顔をだしたことがないものだから

何人かのひとが話しかけてくれたりもして。


「豊かでしょう?」

「贅沢よね」


まったくだ、とそう思い、愉快な夜を過ごしながらも

その言葉がなんとなく、糸を食べてしまったみたいに飲み下せないまま朝を迎えたのだった。


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それで夢から醒めてしばらくして、その言葉の飲み下せなさについて考えてみることにした。


豊かとか贅沢とか、今まではわたしも、なにかが素敵であることを指摘するために使っていたことがあるかもしれない。

でも今はそれがなんとなくしっくりこない。そうなってしまった。


たぶん、それらの言葉がいまのわたしには

常より多いものを欲しがっているように響いているのだ。

欲が深いのはよくないことだと、やっぱり心のどこかで思うような

楽しいこともつらいことも、どちらにせよ心が揺れるのを好まないような

そういう静謐でまっしろいものを望む自分がまだいるのだろうと

水の中を覗きこんでみてそこまで気づいた。


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楽しいことも、豊かであることも、贅沢であることさえも

わるいことではないはずなのに、どうしてわたしはそれらに対して

どこか気が引けてしまうのだろう。


相も変わらず生きていくのが得意ではないなと思ったそのときに

ある言葉が浮かんだ。




“花は野にあるように”



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花は自然のなかにあるようにいけなさい、という

それが幾重にも幾重にも解釈されるみじかいフレーズ。


だからわたしが思い至ったのはきっと、この言葉の本来の意図とは全然違うはずなのだけれど、でも。

野にあるように、というその言葉がそのとき

突然すごく腑に落ちたのだった。


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豊かであるとか、贅沢であるとか、

その言葉はどこかで身構えているような、日常ならざるものに相対しているような

そんな匂いがして心にひっかかっていたのだきっと。


ほんとうは歌も、音楽も、楽しいことも、幸せなことも

すべてはあるものがあるように、そこにあるだけ。

欲深く求めているわけではなく、さりとて避けるわけでもなく

すべては野に咲く花のように、そこにあるだけ。


そう思えばなんだか、心が揺れるのも怖くないような気がした。


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あるものがあったように、なくなっていくこともある。

なくなったそこから、生まれ出でるものもある。

幸せも喜びも怖がらない、こだわらない。

ただあるものがあり、なくなり、またあるようになるというそのときどきを

野に咲く花を愛でるように、受けとめながら過ごしていきたい。






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