友を想って偲ぶお手紙。2通目
拝啓 ○○様
春眠暁を覚えずといいますが…
って、もうこのくだりいらないか。
やほやほ。
そんなに時間あいてないけど、また手紙送っちゃったよ。
そっちはどう?
相変わらず暇してる?
時間の概念がないってどんな感じなんだろうね。
ぜひ体験してみたいな。
いやね。
もしかしたら、私もそっち行くかもしれないなって思ってさ。
え?縁起でもないって。
まぁまぁ聞いてよ。
さっき記事にもしたんだけど。
こんなことがあったんだ。
簡単に概要説明するとね、
って話。
まぁ客観的にみてもヤバイよね。
明日、すぐ受診することにしたんだけど、もしかしたらトンデモナイもの見つかるかもな~なんて想像しちゃってね。
まぁまぁ。
「心配ごとの9割は起こらない!」って断言する名著もあるし。
ほんのわずかな確率だとは思ってるよ。
でも、私みたいな「書く人」にとってはさ。
そんな心配ごとでさえ真実として書けちゃったりする。
そう考えると不思議なもので。
今、私は「起こらないであろう9割のことを考えてる、ってことを書きたい」と思ってるんだよね。
別に反骨精神とかじゃなくて、自然にそう思ってるんだ。
そして不思議なことにこの考えは「心配ごとの9割は起こらない!」の内容に従えば、是とされるんだ。
まさに「今を生きる」私の文章であるから。
でも、ちゃんとマジメに生きてる人たちに。
そんな文章を向けるのも忍びないからさ。
きみがちょうどいいとおもって。
ごめんね~、都合よく付き合わせちゃって。
きみはいい聞き手だよ。
本当はお仏壇でも作って話しかけたいんだけどさ。
いっちゃえば、きみと私は友達だけど、他人。
そこまで踏み込む権利はない。
だから手紙くらいがちょうどいいのかなって。
あ、さっきさ、こんなこともつぶやいたんだ。Xで。
いやね、つくづく思うんだよ。
私はさ、運がいいことにソコソコ書ける体質に生まれて、自分の苦しみや葛藤を文章に置き換えることができる。
伝わるかどうかは別として、そうやって心を文字に変換する手間を惜しまない部類の人間。
でもさ、自分の気持ちと限り無く一致させた文章なんて、たいていは書けないじゃない?
というか、上手に書ける人は社会のコミュニティの中を上手く立ち回れるワケで。
えっとさ。
「しにたい」って書く人、ってどんな人だと思う?
「しにたい」としか書けない人。どうだろう。
私はさ。
「膨大な文脈を抱えてるけど、言葉や文章にうまくできない人」が答えに近いと思っている。
考える人なんだ。
考えて考えて考える人。
現代人はそれを「メンヘラ」って4文字に集約する。
そういう意味でいったら、私も「メンヘラ」なんだけどね?
どうも書けたり喋れたりしてしまうと「大人」って判定をもらうことが増えるらしいよ。正しかろうが、間違っていようがね。
でもさ、私なんてまだまだ未熟。
そもそも「メンヘラ」なのに「大人」ってのも、へんな話だよね?
わたしから言わせれば、「メンヘラ」に集約しようとする人って。
膨大な文脈を抱えることも
死にたいと思うことも
それらを想像する力も
そういうのが一切ない
考えない人
って文脈に捉えちゃうかな。
ところがこれまた不思議なことに
そういう人たちこそが「健全」って呼ばれるらしいんだよ。
ちょっと手を叩いて笑いたい気分になってくるよ。
例えるなら、分厚い辞書よりも、辞書の横に置かれた10ページくらいの詩集のほうがよく売れる、みたいな感じなのかな?
辞書より、ちんまりした詩集のほうが「健全」なんだってね。
ウケるよね。
「死にたい」に至るまでの流れは、どうやったって複雑な文脈になる。
考えたくない人は、すぐに「メンヘラ」って言葉に頼る。
でもね、私も大概メンヘラだから「辞書」を読み込む側なのよ。
「辞書」のほうが面白いから、わたしはこっちを読むの。
さっきのXのつぶやきって、一種のアイロニーなんだ。
でも、多分ほとんどの人がアイロニーだとは思わない気がするな。
おんなじ「詩集」ばっか読んでるから。
ん?今日はやけにトゲがあるなって?
いやさ、社会不適合者といえど、私も人間だよ?
一抹の死の可能性が頭をよぎったら、ちょっとはとげとげしくなっちゃうものさ。
「とげとげしい言葉の正体はさびしさ」
なんて書籍もあるじゃん。
私の大好きな名こ…精神科医 N先生の書籍。もちろん私も読みました。
きっと、私も、さびしいのだとおもう。
人間社会って、誰にでも優しいわけじゃないから。
それは死の淵にあっても同じこと。
難解な辞書をもっているとさ、人は離れる。
「メンヘラからは離れるべし」を「詩集の購読者たち」は実践してしまうから、孤独がまた溢れて、わたしたちは伝えるべき言葉を失う。
いや、たくさんメッセージは発信しているんだ。辞書として。
でも読む人がいない。読める人がいない。
「読める文章」を「読める人」に届かせる努力をしないと、報われない。
辞書をもたせられることと、本人がそれを読解して正しく伝えられる能力を備えているかは、まったく別の話なんだ。
そうしてチグハグな能力をもってしまったがゆえに社会から弾かれてしまった人を、わたし自身も含めて、何人、何十人、何百人と見てきた。
…まぁこの論理展開だと、わたしの偏見コレクションからカードをきるような真似になってしまうから、語ることは控える。
それも「バイアス」って4文字で集約されてしまうからね。
でも、私はそんな「辞書」たちを読むんだ。
これまでも。これからも。
いやね。
もしも、わたしがクモ膜下出血とかで死ねたら。
ラッキーだなって。
だって、きっとみんなはわたしを「人間」として扱ってくれるでしょう?
猫暮、がんばれ!
希望を、捨てるな!
って、きっと応援してくれる。
しかもね、この場合、わたしが書ける人間でなくてもいいんだ。
「クモ膜下出血」と「脳梗塞」って文脈が綴られた詩集さえあれば、みんなはわたしのことを人間だと認めてくれる。
それは、幸福なこと、らしいよ。
わたしという人間の「死」をコンテンツとして昇華して、消化できるとわかったら、たちまちベストセラー。
人間あつかいされなかったわたしの日々が、まるで二階級特進したみたいにもてはやされるんだろうなって。
「ラッキー」じゃない。それって。
「ラッキー」の4文字に集約できちゃうよね。
逆に言えば。
わたしのそれまでの生活はずっと「アンラッキー」なわけで、「メンヘラ」なわけで「人間じゃないわけで」
…ごめん、きみをこんな話に巻き込んじゃって。
わたしもちょっと冷静じゃないみたい。
わたしはさ、きみの死を、消費されるだけのコンテンツなんかにしたくない。
わたしの中では、きみはずっと死に続けてるし、生き続けてる。
可能なら、きみと私にかかわった全ての人に、「きみ」を刻みつけたいと思ってる。
いまだに私はきみの難解な「辞書」を読み続けているんだよ。
もし、私の手が動かなくなって。
前よりもうまくモノが考えられなくなったら。
わたしの辞書は裁断されてしまう。
文脈を失う。
そうして裁断されていって。
隣にあった「詩集」に近づいていく。
そしたら、いろんな人が、私に手を伸ばす。
「生きて!」
「遠くから応援しています」
「死なないで!」
その時、わたしの辞書はどこにいっちゃうんだろう。
わたしが大切にしていた辞書は
その辞書は
だれも読まなくなったその辞書は
何百万文字も書いた辞書は、20ページの「詩集」に集約される。
わたしっていう実存が「詩集」になる。
辞書は、なくなる。
詩集が、売れる。
それでいいのかもしれないね。
みんなが喜ぶのであれば。
きっと、私は自分の「死」ですらコンテンツにしてみせるよ。
私の「死」を刻みつけてやろうと思うよ。
生にだらしなく執着するよりも、そのほうがよっぽど私らしい文脈だろうから。
と、いうことで。
どう?ちょっとはそっちの退屈そうな死活にも、ハリがでると思わない?
まぁみててよ。どうせそのうち私もそっちにいくんだから。
好き勝手やってみるよ。
じゃあ、またね!
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