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灰皿にスプリング

 4月1日にオレが始めたことといえば、読みかけで積読になっている短篇小説集を切りの良いところまで読んで栞を挟み直したくらいで、履き慣れたウォーキングシューズで歩くことになんら変化は無かった。昨日、散髪に行ったが、それは単なる偶然。
 
 床屋のドアを開けると、床屋のおやじが煙草を片手にこちらを見る。
「ちょっと待ってくれ。お前も吸うか?」
 そう言って差し出す煙草を一本受け取り、隣に座る。
 オレが子供のころから頭をやってもらっているから、それから考えるとこうやって同じ煙草を吸うことになるのは、だいぶ不思議な気持ちだ。自分の父親とだってしたことがないのに、意外と居心地が悪くない。この待合席のやり取りを遠巻きに見る床屋のおかあさんは、煙たそうにしている。
 お互い、口数が少ないのも変わらない。TVに映っているゴルフ番組を眺め、煙を吐き出した。特にすることがない時に、ペットボトルの成分表記を見るのと同じようなもので、別に興味があるわけではない。でもここは、そうする場所なんだ、昔から。
「さてっ」と、床屋のおやじが先に煙草を消して立ち上がる。手を洗ってから、こちらに向き直り、「いいぞっ」と言ってきたから、オレも灰皿に煙草を押し付けながら立ち上がった。
 
 手抜きの無い動き。不機嫌も上機嫌もない、恐らく時間の誤差すら無いだろうという動きで髪を切る。——40分くらいだろうか。途中で眠ってしまうのはいつものことだ。頭のそばで他人が刃物を使っているというのに、どうしてこんなに眠くなるのか分からない。
 髪を洗い、ドライする。
 肩にかけられたタオルからは、床屋の匂いがする。
 オレの肩が硬くなったのか、床屋のおやじの握力が弱くなったのか。くすぐったかった肩もみが、自然と耐えられる。——鏡で仕上がりを見てから、「いいか?」と聞いてきたので、「ああ」と返事をした。

 「じゃ、また」
 そう言って床屋を出る。
 最近はいつもここで髪を切るわけじゃないし、次にまたいつ来るか決めているわけでもないけど、そう言うのがお互い丁度いい気がする。
 嘘をついても良い日と新しいことを始めたくなる日が同じなのは、なんだか皮肉っぽいなと考え、グルグル回る模様がトリックアートみたいに昇っていく床屋の看板に目がいく。ただ廻っているだけなのに。
 
 

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