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the Whale 救われたいと思うか否か

ブレンダン・フレイザーのカムバックで話題の映画『the Whale』。既に多くの評が出ていますので粗筋を含め諸々省略します。

登場人物の関係や心理について感じたことをいくつか。ネタバレありです。

主人公のチャーリーとリズは共依存にあると思いました。それが彼等にとってのコンフォートゾーンだったのでしょう。どこがコンフォートなんだと思うような状況でも、そこから抜け出す恐怖に比べれば遥かに楽な緩やかな破滅の道です。

トーマスはチャーリーを救おうと装いつつ、本当は自分が救われたい一心です。

エリーはかつて親を失った喪失感故かそれとも本人の本質的性質か、拒絶されることを恐れるあまりあらゆる人を拒絶して生きています。母親曰く邪悪な子。

メアリーは夫が去っていった状況への怒りのやり場を夫以外に向けたくても向けられず、娘と夫の断絶を強い、しかしそんな自分も許せず酒に溺れています。

そしてアラン。家族が信じる新興宗教をある種洗脳的に信じて生きて来ましたが、彼の本質的性質は教義に反するものでした。彼はその相反を乗り越えられませんでした。

私はアランとチャーリーに同情します。もっとエゴで生きれば良かったのに。拒食して死ななくても良かったし、過食に溺れて死ななくても良かったのに。

でも、2人はそれが出来なかった。アランは信仰にがんじがらめになり抜け出せませんでした。信仰は人を救うものであるはずが信仰故に生きられなかった。チャーリーはアランの死を自分のせいだと言うトーマスに怒り狂います。チャーリーにとっては教義が全てなのでしょう。

登場人物は皆、生きることにもがき苦しんでいますが、主人公は娘を肯定することで自分の人生も肯定しようとします。

この映画はキリスト教の大罪を全て盛り込みながら、それらの罪と共に生きることこそ人の本質ではないかと説い掛けているように感じました。

気楽に生きようと思っても生きられないのが人生です。誰かや何かに救われたいと思うか、自分で自分を救うことで生きる道を選ぶか。宗教的不寛容には救いはないけれど、主人公は文学に対して誠実に向き合うことに救いを見出そうとしたのではないでしょうか。

本当はそんなことで救われる訳はないと分かっていたと思います。信仰という偽善に縛られたアランは救えませんでした。でも、娘の書いた文章に誠実さを見出すことで、自分の人生を肯定して終わらせたかったのだと。彼は肯定感と共に人生を終えられたのでしょうか。そうであればいいと思います。

個人的な感想です。



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