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アングルの愛弟子。ラファエル前派とマネ

日めくりルーヴル 2020年12月20日(日)
『海辺に座る裸体の青年』(1837年)
イポリット・フランドラン(1809年−1864年)

はじめて画像を見たときからとても印象に残っています。
ずっと、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルの作品だと思っていました。

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2019年秋に訪れたルーヴル美術館。アングル作品の近くに展示されていました。
カンヴァスいっぱいに青年が描かれているせいなのか、縦0.98m × 横1.24mというサイズよりもう少し大きく感じました。円を描く美しい背中のカーブが、この作品の決め手となっていますね。膝を抱えた青年の理想的とも思える骨格や肉付きの見事なこと!均整のとれた肉体はそれ自体が芸術品です。
滑らかな肌の描写からアングルを思わせますが、古典的なアングルに対して少し近代的な香りがします。男性の裸体という題材のせいなのか?青年のポーズのせい?海辺という設定でしょうか?

チラッと見たキャプションの作者名が見知らぬ綴りだったので、後で調べよう!と、それきりになっていました。

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HIPPOLYTE FLANDRIN(イポリット・フランドラン)さん…はじめまして。あなたの事を少し調べさせてもらいました。

1809年リヨンで生まれたイポリットの父は工芸画家。1829年20歳で弟のポールと二人でパリに出た後、ドミニク・アングルの弟子になります。そして1832年、アングル門下生として初めてサロンでローマ賞を受賞。おめでとうございます!
5年間ローマに留学します。そのローマ4年目の成果としてパリに送られたのが『海辺に座る裸体の青年』です。

この作品は描かれてから18年後の1855年の万国博覧会に出品され、1857年にナポレオン3世の帝室費によって購入された後、皇帝からリュクサンブール美術館に寄贈されたそうです。高い評価を得たのですね。

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全く名前を聞いたことがなかった画家であり、私の美術図鑑に名前が載っていなかったイポリット・フランドラン。フランスに戻ったあと、彼がどんな作品を制作したのか知りたくなりました。

調べていると、サン=ジェルマン=デ=プレ教会に代表作『キリストのエルサレム入城』がある!との記述を発見。慌てて2019年秋に訪れたサン=ジェルマン=デ=プレ教会の写真を探してみると…。

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おーっつ!あります、あります。
写真右中央に馬に乗ってエルサレムに入城するキリストの壁画が…。古い時代の人が描いた宗教画だなぁ、と思って注目していませんでした。
この 金地の背景に平面的とも思える少し古めかしい(←すみません)宗教画が、『海辺に座る裸体の青年』を描いた同じ画家の手によるものだなんて…💦

イポリットの描いたこの作品はなんと、イギリスのラファエル前派・ロセッティらにも影響を与えたそうです!
1849年、ロセッティはハントと一緒に訪れたパリで、リュクサンブール美術館やルーヴル美術館で多くの作品を見た後でこう記しました。

ハントと私が生涯に見た中でもっとも完璧な、完全に描かれた作品だと正式に決定したのは、サン=ジェルマン=デ=プレ聖堂にあるイポリット・フランドランの2点の作品(『キリストのエルサレム入城』と『道行き』)です。素晴らしい!素晴らしい!素晴らしい!!!ハンコックにも伝えてください。

(喜多崎 親先生『ラファエル前派と前ラファエッロ主義』より)

1848年にハント、ミレイと共に<ラファエル前派同盟>を結成したロセッティがこれほどまでの賛辞を贈った作品だったなんて…。

この『キリストのエルサレム入城』を、私が “古めかしい” と感じたのは間違いではなく、
__スクロベーニ礼拝堂にジョットが描いたような構図、金地にフレスコ風の色彩、光を全体に亘らせることで弱められた明暗などクワトロチェント(1400年代の初期ルネサンス)的な手法が用いられている__
そうです。(喜多崎 親先生の別の論文『パリに顕れるビザンティン』より)

ラファエッロ以前への様式的回帰は、すでにダヴィッドのアトリエの中で一部の弟子達に認められ、やがて「ゴシック的」と評されたアングルの活動や…(中略)、前ラファエッロ主義として着目されていた。

という一文も見つけました。
自身も熱心なカトリックであったフランドランが指向したクワトロチェント以前の宗教画への回帰…。なるほど。<ラファエル前派>のロセッティにびんびん響いたのですね。
ふむふむ🤔。

現地でもっとしっかり見るべきでした。
美術館にある作品と異なり、教会に入ると、建築、ステンドグラス、厳粛な雰囲気に呑まれて、ついつい壁画を素通りしてしまいます。絵画作品として見ることを忘れてしまうのですね。今度からしっかりチェックします!

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さて、フランスで宗教画刷新運動の先頭に立つ画家になったイポリット・フランドランは他にも、サン・バンサン・ド・ポール聖堂の壁画をはじめ、各地の城館の装飾画のほか、『ナポレオン3世の肖像画』(1861−1863年・ヴェルサイユ宮殿)も制作したそうです。

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こちらもヴェルサイユ宮殿に行ったときに撮影した写真を探しましたが、本作はありませんでした。残念😭。

フランスに戻ってからはアカデミーの教授となっていたイポリット。時の皇帝ナポレオン3世の肖像画を描けるということは、アカデミック・システムの王道を進んだのですね。

そんなイポリットは、1863年にはアングルらと共に “サロン” の審査委員を務めていました。1863年、その “サロン” への反発から開催されたのが、マネ『草上の昼食』がスキャンダルを巻き起こした<落選者のサロン(le Salon des refusés )>です。
ということは、『草上の昼食』をサロンで落選させた審査員だったのかしら?

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なんとも、なんとも。マネとも無関係ではなかったのですね。

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イポリットは、翌年1864年にローマに行き、滞在中に天然痘のため死亡したそうです😭。

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こうやって全く知らなかった画家のことを調べていくと、思わぬ発見があり 自分の断片的な知識が繋がっていきます。頭の中のマップが広がっていくようでワクワクします。
そして “イポリット・フランドラン” という名前をしっかり覚えられたことも大収穫なのであります😊。

<終わり>

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