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『自殺サークル』とはなんだったのか

 『自殺サークル』という映画をご存じだろうか。今からおよそ20年前に公開され、話題を呼んだ映画だ。

 特に衝撃的で話題になったのは冒頭のシーン。新宿駅のホームで談笑している女子高生たち、やおら手をつないで一列に並び、明るい口調の「いっせーのーで」という掛け声とともに線路に飛び込み集団自殺をする。車輪に切り裂かれた肉片が飛び散り、ホームで電車を待っていた人々は血の雨を浴び、地獄絵図と化す。

 そんな衝撃的な描写や、日本全国で集団自殺が流行するという狂ったアイデアから、好事家たちの間で話題になった。しかし観た後の反応は決して芳しいものとは言えなかった。意味ありげに登場しながら何も説明されない少女アイドルグループ、変態チックなルックで期待させておいて尻すぼみな「自殺クラブ」、そして度々連絡してくる謎の子ども……。また集団自殺が流行する理由も、作品内で一切提示されない。同じように人がなんらかの理由で大量に死んでいく作品(例えば『デスノート』や『王様ゲーム』)では、人が死んでいくことの理屈が、少なくともその作品内の論理では成立している。しかしこの作品では自殺が流行するという奇怪な現象を引き起こすものが何ら説明されず、困惑した方も多かっただろう。時間を無駄にした、わけのわからないだけの映画だ、という意見も聞かれる。

 確かにこの映画のなかで事態は何も収束していないし、回収されない伏線も数多くある。しかしこの映画は本当にただわけのわからないだけの映画などでは決してない。以下に私がこの映画を観て考えたこと、そしてこの作品のテーマをまとめる。



 この作品のテーマは、謎の子どもが示してくれていると思う。家族を失って絶望している黒田との電話の中で謎の子どもがしきりに聞いてくる「あなたはあなたの関係者ですか?」という質問。この意味ありげな言葉から、この作品のテーマが”関係”にあることがわかる。

 この質問はまったく意味をなしていない質問である。なぜなら関係とは独立に存在する二つ以上の物事がかかわり合うことであるにもかかわらず、この質問では対象がただ一つしかでてこないからだ。

 しかしこの質問は、逆説的にこの作品のテーマを表現している。

 ところで、現代日本でストレスになることの一つに他者との関係性がある。現代日本の他者との関係で特徴的なのは学校や職場といった環境で醸成されるムラ社会的閉塞感であろう。「出る杭は打たれる」という言葉に端的に表される環境で、我々は全体に迎合することで、なんとかこの現代日本という社会を生き抜いている。

 ではその中で、自己はどこにいってしまったのだろうか? 私たちはなにかを自分の頭で考え、自分で決定するという行為を忘れてしまってはないだろうか? これは自分のことを自分で決められないという点で「自分に関係していない」ということができないだろうか?

 もう少し子どもの言葉を紐解いていこう。先ほどの「あなたはあなたの関係者ですか?」という質問の後に、子どもの言葉はこう続く。「なぜ人の不安を自分のように感じ取れなかったのですか? なぜ自分のことのように他人の不安を抱えられなかったのですか? あなたは犯罪者です、あなたはあなたのことしか考えていないゲス野郎です」

 自己を失う過程で、我々は考えるということも同時に放棄する。なぜなら他人と異なる考え方をすることは、ムラ社会ではすなわち死を意味するからだ。ならば何も考えずに迎合していたほうがずっといい。そうして我々は思考を放棄し、ついには他人の気持ちを考え、推し量ることすらやめてしまった。それが子どもの言う「人の不安を自分のように感じ取れない」状態だ。

 では自己を失ってしまった人が、自己を取り戻すために必要なことはなにか。この作品の中では、それは自殺だ。自ら命を絶ち他者との関係を強制的に切断することで、迎合する必要のなくなった私は自己を取り戻すことができる。それがこの映画の中で集団自殺が流行する理由だろう。自己を回復するには死ぬしかない。そのことを気付かせる存在だから、子どもは「敵ではない」のだ。むしろ福音をもたらす者だ。

 しかし終盤でこの構造の転換が起きる。みつ子は彼氏の自殺現場に体を寄せ「人の不安を自分のように感じ取る」。デカルト的に考えると、他人の痛みを自分のもののように感じることは、感じる自分がいないと成立しない。つまり彼女はこの瞬間、自殺という手段を経ないで自己を回復することに成功するのだ。だから子どもたちに「あなたはあなたの関係者ですか?」と問われても、自信をもって「私は私に関係ある私だよ」と答えられるし、皮を削り取られてもホームに飛び込むことはなかった。人の不安を自分のように感じることで自己を回復すれば自殺する必要はないのだ。


 現代の日本人は他者の存在を認められなくなっているように感じる。自分と異なる考え方を受け入れられないのだ。自己決定を放棄し、他者に迎合することで日本独特のムラ社会である世間を作り出す。そうすることでなんとなく傷つくことなくぬるま湯につかっているような浅はかな安心感を抱ける。そんな世間と異なる意見を言う人間は、自分の安心感を脅かす敵として認識してしまう。私自身もその感情から自由であるとは到底思えない。

 でも自分自身を取り戻すことでしか得られないこともある。他者を自分自身のように受け入れ感じることでしか触れられないものがある。そのためには常に自分自身や他者と向き合い続けるしかない。そうして自己回復を成し遂げた暁に私は高らかに宣言したい。「私は私に関係のある私である」と。

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