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自分のために料理ができない

「料理ができない」について三部作くらいで書いてみたい。まずは「自分のために料理ができない」ことについて。

山口祐加さんの『自分のために料理を作る: 自炊からはじまる「ケア」の話』を読んで、「あ、これは自分のことだ」と思った。

私は自分のために料理ができない。

タイトルどおり、自分のために料理を作るにはどうすればいいのか、「自炊とは」という話から始まり、自炊が苦手という人に徹底的に言葉を尽くして自炊のレッスンをしていく話まで、書かれている。

本のなかで、具体的なレシピはほとんど出てこない。でも、とにかく料理についての山口さんの言葉の引き出しの多さにただただ驚かされる。
料理がいかに難しいことなのか、とても丁寧な言葉で綴ってくれていて、それだけで料理研究家と呼ばれる人もそういう気持ちが分かってくれるのか、と泣きそうになる。

「家族のためにごはんをつくる」という作業は想像以上に複雑だ。山口さんはこの複雑さをとても丁寧にこの複雑さを解きほぐしてくれている。

・家にどんな食材があるか、先に使うものはなにか
・いま自分が食べたいものか、食べれるかどうか
・昨日、一昨日と同じものでないか
・家族がそれぞれ嫌いな食材・調理法でないか
・家族の帰宅時間に合わせて作れるか
・後の予定が押さないよう短時間でできるか
・自分に作れる余裕はあるか
・栄養バランスはとれているか
・無理なく安い食材が買えているか

考えることがとにかく多すぎるのだ。わたしはうまくこれらのことが全然整理できない。子どもを迎えにいって、夕飯を食べるまでのごく短いあいだ。頭の中がぐちゃぐちゃになりながら、料理する。

うちの場合は、下の子はまだまだ幼児食だから別メニュー。小学生になった上の子も好き嫌いが多くて、親二人でメニューが違うこともある。
だから、もう冷凍食品を解凍するだけ、簡単なお惣菜で済ませることも多い。仕事が終わったあとの頭で何も考えられない、しんどい。

普段こんなふうに料理をしているので、家族のために料理をしなくていいときがくると、自分のためだけに料理をする気になれないのだ。例えば、妻と子どもがでかけているときの食事、在宅勤務のときの一人のお昼ごはん。

そういう自分のためだけにごはんを作らないといけない場面では、つい手を抜いてしまう。なにも作りたくないし、カップラーメンでいい、となる。

自分のためにだけ料理をする、ってとても贅沢でもある。

子育てに仕事に時間を割いていると、自分のための時間は一日のなかでも限られている。その貴重な時間を「自分のための料理」に使うという贅沢。
でも、その時間をカップラーメンで済ませることが豊かな時間の使い方だろうか、といえば、そうではないのはなんとなくわかる。

自分自身の「ケア」のために、自分が食べたいものを自分で作ってじっくり味わう、ということができたら、どんなにいいだろうか。

「そのままでは食べられないものを食べられるようにすること」「そのままではあまりおいしくないものに味をつけること」が料理であると、とてもシンプルに山口さんは料理を説く。

ただそれだけのことなのに、料理を複雑にするたくさんのものに私達はとらわれていて、いつもこんがらがっている。

自分のためにする料理も、特別かしこまってやらなければいけないものでもない、ただ自分を大事にするというシンプルなことでいいのだ。

わたしはいつも、慌ただしく料理を作っていて、いつも「作っている」感覚があまりない。冷凍や冷蔵のお惣菜をレンジでチンして用意しただけ、ご飯を炊いただけ、鍋に具材を突っ込んだだけ。でも、この「~しただけ」とか、作っているなんてとても言えない、みたいな感情の根っこにあるのは、自分のなかの自尊感情の問題ではないだろうか。そして、それは「料理」の問題なのだろうか。

そういう料理と自尊感情の根深い問題についても、山口さんは精神科医の星野さんと行う自炊コーチングのなかで明らかにしている。おいしい料理を無理なく毎日自分で作って食べる。たしかに、それができたら忙しい毎日すり減った自尊感情を取り戻せるかもしれない。ああ、私も受けたいコーチング。

でもやっぱり、いまは、私はまだ自分の料理にも、自分のために料理をすることにも、前向きな気持にはなれない。次は少し別の視点でこの問題について考えてみたい。

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