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『流浪の月』李相日監督/松坂桃李 ティーチイン上映 2022.06.12

※映画『流浪の月』本編ネタバレおよび原作小説の内容を含みます。閲覧の際はご注意ください。

映画『流浪の月』結局ティーチイン含めて3回も観に行ってしまった。
毎週のように新作が公開されていく中で2時間半上映の同じ作品を劇場で複数回見るというのはなかなか出来ないのでよくやったなと思う。
そもそも公開初日に観た後、2週間の有給の後半の使い道に迷っていた時タイミングよくこのティーチイン上映の情報を知って、チケットが取れてしまったため、"質問できるかもしれないし、今一度観ておこう"で2回目を鑑賞し、当日3回目の鑑賞と相成りました。

せっかくの機会だったので、ティーチインの際のお話をつらつら書いてみようと思います。殴り書いた手書きメモを解読しながらなので、全部は拾い切れてないし正確性は微妙かも。どうぞお手柔らかに..。
(今後追いで原作を読み始めていて色々見方が変わった部分もあるのですが、とりあえず、所々に入る感想や疑問は、私が原作未読、本作を3回見て、ティーチインを終えての感想です。)

しかしやっぱり松坂桃李パワーすごいというか、400席くらいのうち9.9割が女性。中には15回本作を見ているという強者もいらっしゃいましたね。すげ。私もイケメンを見てはしゃぐことがないとは言いませんが、俳優の追っかけってすごいなと思うし、あと、見られる仕事ってすごいなって、たくさんのフラッシュを浴びる桃李氏を見て思いました。
と、言いつつ、散々いろんな作品で拝見してきたし、ラジオもバッチリ聞いていたご本人が登場となると私も「わぁ本物だぁ」とつまらない感想しか出てこず。でも目が悪いのと、李監督と背格好似てて最初どっちがどっちか分からなかったです、すみません。2人ともテレビで拝見するまんま!っていう印象。桃李氏は体重戻ってきたのかな、一時期ほんとゲソゲソだったので安心(誰目線)。

というわけで上映後にティーチイン。400人ほどに対して30分(プレス対応含む)というのはなかなかえぐい短さでした。今回司会はなく李監督と桃李氏で進行。まず、桃李氏から最後のケチャップを拭うシーンをどう捉えたかの問いかけ。

桃李氏は演じるにあたって原作に沿った心境(真実[クラインフェルター症候群であること]と向き合うより、ペドフィリアだとしてしまった方が自分が解放されるのではないか? -> じゃあ更紗で欲情するのか試してみよう -> ケチャップ拭う -> 何も感じない -> 真実と向き合う絶望の瞬間があのラストの回想シーン)で演じたとのこと。

対して李監督の解釈としては少し違うようで、
本作は、前半は「人は見たいようにしか見ない」という更紗視点で始まり、中盤になるにつれ「人は見たいようにしか見ない」に観客を引きずりこむ、そして後半で、「では私たちは文をどのように見るのか?」
その中で出てくる、ポーの詩集の"神秘に触れる"という一節、あのケチャップのシーンはまさにその「神秘に触れた瞬間」であり、更紗も時間を経て「神秘に触れ」たことで、2人は交わっていて、つまりあそこのシーンが始まりであり結びである、という解釈だそうです。

私もあの最後のケチャップのシーンはすごく好きで、どっちかというと李監督が意図した方に捉えていたので、むしろ原作そういう方向だったのか!と思いました。
性被害にあっている更紗からすると、あの動作は快不快で言えば本来「不快」になるものだったと思うのだけど、拭われた後、文から視線が外れ、また文を見つめる仕草になるのであそこが監督の言う「交わった」ポイントなのかな?

ケチャップの話が長くなりそうと言うことで質疑応答へ。

まず、文のコーヒーを淹れる時の手つきが左右で違うのは意味があるのか?という質問は、そこまで深い意味はなさそうで、観客による意味付けの面白さがありました。(私は利き手というより、あそこでアイスカフェオレにしたのは理由あるのかな〜と思ったんだけど、そこも大して理由はないかもしれませんね。更紗が更紗であることを隠していた時に飲んでいたのがホットのブラックコーヒーに対して更紗だと明かした後がアイスのカフェオレだったので。)

引きこもっていた時に鳥を彫刻していたことについては、あの天窓から見えるものが "空" "雲" "鳥"であったという裏設定があり、流石に鳥は使えなかったので蝶々や虫を飛ばしてみたとのこと。「鳥」はひきこもりである文の反対の「自由」の象徴であるが、それが空に大量に見えるときは「世間の目」を象徴しているものにもなる、と李監督。
ちょうど3回目を鑑賞している時に、警察が来てりかちゃんを保護しにきた時の「もうやめてくれ」と文が暴れるシーンの後、夕焼けに大量の鳥が飛んでいるシーンが入って、それまで空の描写は澄んだものばかりだったので、ちょうど「これって世間がまた文と更紗の間の澄んだものの邪魔をする描写っぽいな」と思っていたところでした。
また、別の質問で、あのはなれの壁に貼ってあるものはなんだったのか、については、ポーの詩集の英語訳とか桃李氏が描いた絵などがあったそうです。あんまり言わない方がいいかな、とのことでした笑

ピザを食べながら見ていたDVD、借りていたDVDのセレクションは誰が?の質問には、あまり多くは語らない方が良いとしつつ、セレクションは更紗のセレクションで、彼女の生い立ちを考えてみるとわかるかも、ということを仰っていました。作品は更紗の心境と被ったりもするかも、とのことでエンドクレジットに出てきた作品を見るとまた色んな見方ができそうです。

最後に、原作や脚本を初めて読んだ時の印象が聞かれた時に、李監督が原作というよりも脚本を読んだときの感想を知りたいと桃李氏に振って、桃李氏が、原作にはなかったあのシーンについて、最初はどうしようかと思った(そもそもオファー受けた時どんな役をやるのかとかは知らずに引き受けたので)けど、半年かけて準備してきて、そのシーンを撮影するときには緊張することもなく「もういつでもあのシーンが来てもいいぞ」という心持ちになっていたとのこと。

李監督も本作が松坂桃李の到達点だと、桃李氏と硬い握手をしてティーチイン締め、でした。ティーチインの様子についてはここまで。

改めて振り返ると、印象的なシーンがとても多い作品だったなあ。
子更紗がアイスをバケツごと食べる時スプーンにちょびっと残しながら食べてるシーンすごく好き。子更紗が画面の上、文が下、になっている構図も何箇所かあるけど印象的で、最初の更紗が起きるのを床に体育座りして見上げる格好になっているのも「神秘に触れている瞬間」なのかな、と思いました。
それから、何度見てもやつれた亮とナイフが映るシーンは「もう絶対このナイフ使われるじゃん...」という絶望があった。

ちょっと残るのは、あゆみに対する文の感情というか気持ちがいまいちしっくり腑に落ちないところ。「彼女(あゆみ)のことは大事にしたいんだ」と更紗に打ち明けるけれども、週刊誌の記事を読んであゆみに問い詰められた時に「大人でもできるかなって試してみたかったんだ。試してごめんね」と言い放つ。あそこの文の切り替わる感情の演技は凄まじかったんだけど、とはいえ、更紗も大人になっても文のことはペドフィリアと思って接していたわけで、なぜ更紗はOKで、あゆみはダメだったのか?更紗はそれでもいいと受け入れてくれていたから?分かるような分からないような...登場人物で一番近いなと思ったのがあゆみだったので余計、あゆみの立ち位置やらなんやらがずっと謎だったな(文と更紗の話なので、あゆみが謎のまま終わることが作品として嫌な訳ではないのだけど)。

松坂桃李もすごかったのだけど、横浜流星演じる亮の、全女性を敵に回すレベルのモラハラ演技も凄まじく、よくこんな役引き受けたなって思うし、演じてるなとも思う。広瀬すずのあの幼少期から育った女性になった更紗も、白鳥玉季の幼少期も、趣里演じる同僚のシンママも、もちろん多部未華子もとにかく演者がすごくて2時間半があっという間だった。

作品は、世に出たら受け取る側のものであると言うのも一理あるとは思うのだけど、繊細な作品だからこそ、こういうティーチインの機会があると、監督や役者の意図を少しでも知ることができて、Q&Aセッションでは彼らが意図しない読みを観客がしているということも知れて、それもすごく面白かった。制作者の意図を読み取って見れていたときは良かった〜と思うし、全く予想していなかった設定や意図もあると作品の見方も広がる。忙しい方ばかりなのでなかなか毎回という訳にもいかないとは思いますが、舞台挨拶とは違ったこういう交流の機会が、他の作品でも増えるといいな。

回し者ではないです...が...「流浪の月」見て損はさせません。ぜひ劇場で味わってほしい。見たらこう思ったとか、自分はこうは思わなかったとか、(こっそりでも堂々とでも)教えてほしいです。2022年上半期邦画はぶっちぎりの満足度でした。

2022.6.17 追記:
ティーチインのお話を聞いてから、原作読んでみよう、と読み出したところ、映画では描かれていない部分の話(更紗の両親の話)や、子更紗の心理描写が映画で描かれていた部分のしっかりとした裏付けになっていて、うわぁ、と思いながら読み進めている次第です。だからと言って「原作のここがない!むきー!」とはならなくて、相乗効果が凄まじいです。小説だけでも、映画だけでもきれいに収まるように出来ているのだけど、読み終わりが楽しみ..。あと更紗の両親のなれそめのバンドってフジファブリックですか....泣

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