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空気は読んでいると入れ替わる(または、指数関数的変化と対数関数的変化)

もはやKYとかAKYとかは古語になってしまった。流行語の賞味期限は随分短くなったものだ。いや、、、それはただの主観で、そもそも流行の賞味期限は短いものか。で、今回は、よくある「空気は敢えて読まずに改革を断行する」的なストーリーって、現実的には難しいんじゃないかという話。

ガラッと入れ替えたら起こったこと

学生の頃、学園祭の運営委員会に入っていた。が、入ったときに感じたのは、活気が足りないんじゃないかということだ。僭越なことだが、当時の私の目からは、委員の皆さんはこういう風に考えているのではと感じた。

  • うちの学園祭はイマイチ盛り上がりにかける

  • でも委員会も人材不足で大した仕掛けはできない

  • 大した仕掛けができないから盛り上がりも生まれない

  • 持ち上がらない学園祭の運営員なんてやりたい人はあまりいない

  • 人が集まらないから慢性的に人材不足だ

  • 出口がないので諦めよう

私はこれを変えてしまおうと思った。そこでやったことは、新歓への注力だ。どこまでも新人をリクルートする。で、委員の中で新人をマジョリティにしてしまう。新人たちは諦めの気持ちなんて持っていないから、やりたいことをやろうとするし、やりたいことをやろうとしたときに技術や経験が必要なら先輩に頼る。そうすると先輩も動いてくれる。で、そうしているうちに先輩方も、「結構やれるかもしれない」という気持ちになる。

この作戦は素晴らしくうまく行った。組織は変わったし、学園祭も楽しくなった。私は自分のことを、組織の空気を一気に入れ替えて成功したヒーローだと思いこんでいた。でも、現実はそうではなかった。

成功裏に終わった(と私が思っていた)その年の学園祭が終わり、翌年の執行体制を検討する際、私の居場所はなくなっていた。何が起こったのかはなんとなくわかっていた。私のやり方が嫌だった人も多くいたのだ。私はそういう人たちの考え方は「僻み」だと思っていた。自分たちがやりたくでもできなかったことを私が一気に成し遂げたことを妬んでいるのだと思っていた。だから、そういう人たちのことを考える必要なんてない。成果を得ることが全てだ。そう考えていた。

一方彼らの側からみると、私はただの破壊者だった。せっかくの居心地の良い居場所を奪った破壊者。対立を呼び起こし、安心できる仲間の関係を壊した破壊者。彼らは、「あいつだけは許せない」というくらいにまで私を憎んでいた。

失意とともに私は委員会を離れた。でも私はまだ、自分が正しいと思っていた。つまりこれは固有の現象だ、たまたまそのような狭小なものの見方を持っている人がいたのが私の不幸なのだ。間違っているのは彼らだ。彼らもそのうちそれがわかるに違いない。そう思っていた。

空気を読んでいたら起こったこと

この失敗のあとは、一ヶ月くらい引きこもって何もせずに過ごした。何をすればよいのかわからなくなっていた。そんなあいだにたまたま昔の仲間から舞台の企画に誘ってもらえた。私は逃れるように新しい目的に向かって走り始めた。考えてみれば幸運なことだ。

学生演劇だから、言ってみれば素人集団だ。多少心得がある人もいれば、今回が初めてという人もいる。将来は舞台芸術で、と考えている人もいれば、ただの暇つぶしくらいに考えている人もいた。モチベーションも目的意識も技術レベルもバラバラの寄せ集め集団。でも、目指そうとしていたのは最高の舞台。この集団の運営は、客観的に見れば簡単ではなかったはずだ。

私は楽屋に一冊のノートを置いた。よくゲストハウスにありそうな、誰でも好き勝手に書き込むノートだ。アナログなSNSみたいなものだろう。みなそこに好きなことを書き込んだ。舞台のこと、練習のこともあったけど、そうではないこともたくさんあった。今日のランチが美味しかったこと、自転車でころんだこと、授業の課題が間に合わないこと。。。

また、練習の過程では摩擦もよく発生した。感情のすれ違い、行き違い、ぶつかり合い。その都度私達は話し合った。チームでも話し、個別にも話した。その都度話し合い、解いていかないと、ゴールには近づけないことがわかっていた。練習が終わると毎日のように夕食を食べながら話した。

このように過ごした数カ月間で、烏合の衆はチームになった。誰も強制されずに、舞台の成功を目指した。誰もが誰もをフォローしあい、クオリティは高まり、舞台は胸を張れるものになった。この最高のチームのおかげで私はゾーンを味わうこともできた。舞台上の各アクターの動き、注意の向き、観客の感情、これらが手にとるようにわかる。そして、自分が何をするとそれらがどのように変化するかすらわかる。私は普段やらないアドリブを試したが、それらはすべて思い通りになった。不思議な体験だったが、これはやはり環境がパーフェクトだったからこそ得られた体験だったのだと思う。

舞台は成功した。大成功だったと信じている。もちろん観客の評価という点でもそうだけど、関わった皆にとっても成功だったはずだ。なぜそう言えるかというと、その後も皆が「またやろう」と言い合う関係で終わったからだ。そして本当にその後も何度か企画は行われたし、その都度私達は自信を持って良い舞台を作り上げられた。

意図してそうしたわけではない。自然に必要だと思うことをしただけだが、考えてみると、私が学園祭でやったことと、舞台運営でやったことは随分違っていた。言うなれば、学園祭においては「空気は読まずに入れ替えた」のだが、舞台においては「空気を読み続けた結果、入れ替わっていた」と言える。そして、どちらがうまくいく方法だったかは明確だった。

対数関数的変化と指数関数的変化

空気を読まずに入れ変えるという変革は、可能だ。少なくとも一時的には。そしてそれは短期間で見れば、ドラマチックに組織を変えることができる。しかし、その結果組織には修復できない分断が生まれる。その分断は、組織全体を、そしてその中の個人を蝕む。サステナブルな成果をえることは難しくなる。

一方で、空気を読み続けるというのは一見「変革」には見えない。全くドラマチックではない。外から見たら、何もしてないようにしか見えないかもしれない。でも、その結果得られる成果は大きい。そこでは、本質的でサステナブルで不可逆な変革が静かに起こっている。

当時はこの違いがなんだったのかわからなかったけれど、社会人になって組織文化論やリーダーシップを学んできた上で振り返ることでようやく整理をつけることができた。私が今どちらの手法をとるか、答えは明確だ。

ちなみに、「空気を読んでいる暇はない。大胆に大鉈を振るわないと」という考え方を耳にすることもある。もしかしたらそうなのかもしれないけれど、私はそれでも空気を読み続けたいし、本当のところ、決してそのアプローチは「時間を要するもの」ではないと思う。感覚的には、大鉈の変革は対数関数的であるのに対して、空気を読む変革は指数関数的なのではと。V字回復的な演出で盛り上げたあとに失速するパターンか、いつの間にかスゴいことになっているパターンか。もちろん時短が経てば経つほどその差は開く一方だ。

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