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韓国映画『1987 ある闘いの真実』に見る、強権政治の昔と今

報じられているサウジのカショギ氏殺害事件と構図が似ている。(※殺害が事実だとすれば)
事実を基にした本作は、軍事政権時、ある学生運動家が韓国の治安本部による拷問により死ぬ。当局は拷問死を隠蔽するためあの手この手を尽くすが、心ある市民や記者、民主運動家の尽力により次第に真実が明るみになる。そのとき当局が会見で述べた言葉がこうだ。

「取り調べ中、机をバンと叩くと、心臓発作で死んでしまった」

かたやサウジ政府はこう言った。

「カショギ氏と職員が口喧嘩になり死んだ」

言うに事欠くとはこのことか。百歩譲ってそうだとして、ではなぜ隠蔽するのか?

このような言い訳にもならない言葉が出てくるのが強権政治だ。知性や道徳のかけらもない粗暴な者が力を持ち、強権者を忖度、忠誠心を競い、我先にと弾圧や無法を競い出す。やらなければやられる。

映画では、拷問の実行者が、とかげの尻尾のように切り捨てられる。カショギ氏の事件でも実行犯とされる十数人が拘束されたと報じられている。


韓国ではこの事件を契機に、学生たち主導のデモが全国で燃え盛り、そこに市民も合流することで、軍事政権は直接選挙の導入を約束せざるを得ず、その後の民主化の大きな一里塚になった。(6月民主抗争)

実際は、当時の全斗換政権は軍を使って弾圧する準備をしていたと言われる。しかし実施直前になって、レーガン政権による介入や、有力将校による反対、また、翌年に控えていたソウルオリンピックへのボイコットなどを憂慮し、断念したと言われている。

国内と在外公館、民主化運動の有無、などの違いはある。(※カショギ氏が本当に自由主義者だったのかという議論もあるようだ)しかし、事件に対する国際社会による批判や、国際的イベント(ダボス会議)の開催不安などの点が似ている。

まさに古くて新しい話である。民族や国家固有の話ではない。政治の劣化次第で、いつどこでも起こり得る話だろう。

ちなみに私は日本生まれのコリアン三世だが、映画の話(韓国6月民主抗争)の話は当時断片的に聞いてはいた。これに遡る光州事件の映像も何かの集会で観たことがある。しかしたしかまだ中学生だった事もあり、よく分からず、ただ恐ろしかったのを覚えている。ガスマスクを付け棍棒を振り回し追いかける機動隊、血まみで引き摺られ、後ろ手を針金で縛られ、頭を何度何度も蹴られる学生、催涙弾の白い弾幕、ざらついた映像。

同時にすごく覚えいるのは、当時の韓国の学生運動家の(又聞いた)言葉。棍棒で殴ってくる機動隊が怖くないのかという質問に、「あんな奴ら全く怖くない、俺たちの方が強い」と。怖くないはずはないと思うのだが、そのくらい強い義憤があったのだろう。そして反骨心の強い多くの仲間がいたから挑めたのだろう。タクシー運転手たちが(デモへの共感を込めて)一斉にクラクションを鳴らすのも聞いていたとおりだ。

映画のなかで、殴られても、催涙弾を打たれても前進した学生たちを観ながら、同じ怒りを共有していたが、同時になぜか強い罪悪感のようなものも感じていた。自分がその場にいたら闘えていたか?色んな思い出や感情が重なった。

本作は特定の主人公はいない。何人もの人物が同じぐらいの重要度で物語に関わっている。水、雨、酒、シンナー、雪、灰などが、最後に数え切れないほどのビラとなり、ビルとビルの間を舞うところが映像的に特に印象的だった。

これから観る方、既に見られた方も、できれば、『タクシー運転手 約束は海を越えて』と『南営洞1985』もご覧になると色々参考になると思います。

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