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ルドルフ・シュタイナーGA3『真理と学問』6章の読み方②

汝がまさに今理解していることを打ち明けよ。まだ残っている曖昧さは次第に明瞭になって来るであろう。そして分かっていなかったことが分かるようになってくるであろう。(フィヒテ『人間の使命(拡張)』)

読解ポイント2:最初に置かれたフィヒテの『知の理論の概要』の引用の構造について

「それ故、『知の理論』は、それが体系的な学問である限り、他の一切の可能な体系的な学問とちょうど同じように、自由が規定されることによって成立する。自由は、ここでは特に、「人間精神の行為性全般が意識に立ち昇ること」と規定される。[…]さて、この人間精神の自由な行為によって、既にそれ自体で形式であるもの、即ち人間精神の必然的な行為が、内容として新たな形式へ、知の形式ないし意識の形式へ取り入れられる[…]」(フィヒテ『知の理論の概要』より)。ここで、おぼろげに感じられていることを、明瞭な概念で述べるとすれば、「〈人間精神〉の行為性全般」という言い方で何を理解すればよいのだろうか?「意識の中で生じる認識の理念の現実化」、これ以外の何ものでもない。フィヒテが完全にはっきりとそれを意識していたならば、彼は前記の文章を単純に次のように定式化したはずであろう。即ち、「『知の理論』が教えるのは、まだ〈自我〉の無意識的な能動性である限りでの、意識に立ち昇る認識である」と。『知の理論』は、〈自我〉の中で必然的な行為としての認識の理念の客観化が行われることを示さなければならない。(シュタイナー『真理と学問』(強調は筆者))

順番が前後しますが、この難解な文章の内容がどういうことかについての詳細は次のノートで書くことにします。ここではまず文の構造を形式的に捉えるところから始めます。どういうことかというと、シュタイナーによって引用されたフィヒテの文も、シュタイナーがそこから言い出したことも、そもそもそれらはどちらも自我の事行の説明であるという構造から見えて来ることを把握する必要があるということです。「おぼろげに感じられていることを、明瞭な概念で述べる」。フィヒテを読んだことのある人からすれば、実はこれがそもそも『知の理論の概要』の文の根底にあるフィヒテ自身の方法であり、フィヒテの言う「自我の事行(Tathandlung)」の遂行の最も簡単な表現であることがわかります。現に、上記の引用内にあるフィヒテからの引用のすぐあとに次のように述べられています。

人間精神は、様々な試みを為す。人間精神は盲目的な手探りによって薄明に至り、そしてこの薄明から初めて白日に移行する。人間精神は始めはおぼろげな感情(私の「知の理論」はそれの根源と実在性を明らかにするに違いない)によって導かれる。もしも我々が後で初めて明瞭に認識したことを、おぼろげに感じ始めたのでなければ、我々は今日もなお明瞭な概念を有しないであろうし、依然として土から力づくでもぎ取られた土塊であるだろう。(フィヒテ『知の理論の概要』私訳)

若いころに導師からフィヒテを読むよう薦められ、徹底的に読んでいたシュタイナーは、当然フィヒテのこの方法についてよく知っていたことでしょうし、それが「自我の事行」の遂行にあたるということもよくわかっていたことでしょう。ここでポイントとなるのは、フィヒテ自身は「自我の事行」について、既におぼろげな感情から明瞭な概念を有したつもりで書いているということです。シュタイナーが引用してきた文も「自我の事行」についての記述です。つまりフィヒテも、その文でもって「事行の事行」を行っているつもりでいるということになります。しかし、この引用をもってシュタイナーは、フィヒテがまだまだおぼろげに感じられていることを書いているにすぎないとして、自分はもっと明瞭な概念で述べることができるとしています。つまり『真理と学問』の6章でシュタイナーは、初めからフィヒテ自身の手による「事行の事行」では事行がまるで明瞭になっていないので、更なる「事行の事行」が必要だと見做して、これを実践しているわけです。「おぼろげに(dunkel)感じられていることを、明瞭な(klaren)概念で述べるとすれば、「〈人間精神〉の行為性」という言い方で何を理解すればよいのだろうか?」と書かれたあとのシュタイナーの文は、シュタイナーなりの「事行の事行」だということになります。この「事行の事行」が行われるにあたっては、単に自分の確定した「認識」概念でもってフィヒテの言っていることを明瞭にするということだけが含みとしてあるのではありません。「明瞭さ」と、その対極である「おぼろげさ」とは何かが際立たされることで、フィヒテ自身が、その言葉に反して、おぼろげな感情の意識の中にいる人だということが際立つ形になっています。つまりシュタイナーがのちに形像意識、夢意識、イマジネーション意識について説明していることに合うことがここで彫琢されていることになるわけです。引用の最初から、明瞭な対象認識・表象意識として間違っているがおぼろげなイマジネーション意識として理解すべきという側面が現れているわけです。


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