見出し画像

夫のちんぽが入らないこと×足の小指をぶつけないこと

 私はしょっちゅう、何かの角に足の小指をぶつける。しょっちゅうとは言っても一年を通してのしょっちゅうではなくて、時期の限定された、限局的なしょっちゅうである。そしてそれがどの時期に集中して起こるのかは思い出せない。素足ですごし、うだる暑さに注意が散漫になる夏季かと思えばそのような気もするし、鈍く縮こまった身体がバランスを欠き、末梢神経が痛みを感じやすくなっている冬季ではないかと言われれば「きっとそうだ」とあっけなく得心してしまうことであろう。わが家には箪笥がないので、その多くはドア枠であったり椅子の脚であったり靴箱であったりする。つまり相手は誰でもいいのだ。
 
 おそらく多くの人が一度は「何かの角に足の小指をぶつける」という経験をしたことがあることと思う。だからその痛みがいかほどのものであるかの共感は、私が満足できる分くらいは得られるであろう。

 人の感情は「理不尽な痛み」というサッカーパンチに対し怒りというカウンターパンチを食らわせたがるらしい。「あー!クッソ!痛って!」という三単語をもって私は毒づく。「フツー、こんなところに椅子を置かないだろ!」たとえそれが、自分の設置した椅子であったとしても。

 とはいえその理不尽に攻め苛まれ悶絶するのは、せいぜい二十秒程度である。二十秒後には理不尽は私のもとを離れ、消失し、どこかの家庭で誰かに不意打ちを食らわせていることだろう。

 では夫のちんぽが入らないまま二十年が経過した女性がいたとしたらどうだろう。二十年前から入らず、二十年後にも入る兆しのない女性がいたとしたら。

この作品は、そんな一人の女性の告白の物語だ。

                  ✳︎

 この作品に対して、ノートの形式をどうすべきか迷った。レビューとするか、はたまた読書感想文とするか。というのも、感想文にするには小説として私に訴えかけてくるものがあまりがなく、レビューにするにはこの物語の主題にまつわる多くの訴えたいことが出てきてしまったのだ。その迷いは好意的に捉えればあまりにも『切実』であるがゆえと言えるが、いじわるな見方をすれば『つかみどころのなさ』ゆえであると思われる。以下にあらすじを記す。

あらすじ:
 大学進学を機に一人暮らしを始めた『私』は、入居した日に同アパートに住まう一人の男性と出会う。男性の距離の詰めかたに躊躇いながらも、数日後には交際することとなる。早々に肉体関係に発展するが、彼の男性器が入らないという現実が立ちはだかる。二年後に年長の彼が大学を卒業。隣県の高校に就職し当面遠距離恋愛となる。何度か試行錯誤を試みたものの、性器が入ることはなく、行為のたびに傷ついている『私』からお互いが目を逸らす。
 大学を卒業し、彼と同県の小学校に就職した『私』は時を同じくして彼と結婚をする。依然性器は入らない。次第に夫が勤務先の高校で孤立していること、風俗店に通っていることを知る。小学校勤務が四年を経過した『私』は教育の惰性に疑問を持ち、願い出て別の小学校に異動をする。新たな小学校では学級崩壊を起こしかけているクラスを受け持つが、家庭環境に大きな問題を抱えるミユキという少女に翻弄され、次第に精神的な重圧を感じ心身の不調と希死念慮に苛まれる。
 妻の不調を察知しない夫を前に、生来、身近な人に思いを打ち明けることのできない『私』は希死念慮から逃れるため、インターネット掲示板に日々の苦しみを書き綴る。(のちに知ることになるが)掲示板は出会い系サイトと紐づいており、オフラインで会った複数の男性達と肉体関係を持つ。その時、夫以外の男性であれば性器が入ることを知る。
 家庭生活、社会生活、性生活のバランスが保てなくなり、不調が急性期を迎えた時、『私』は退職を決断する。一年ほど経過し、臨時教員の職についた頃に身体の不調を覚え検査をしたところ、自己免疫疾患の診断がくだる。
 病気の療養と、失業したことで自己肯定感はさらに低下したものの、時間的な余裕を持てたことや同時期に出産ラッシュとなった親族の話を受け、妊娠・出産を試みる。主治医に相談し服薬調整をしながら妊活に勤しむも、やはり夫のちんぽは入らない。服薬調整による不調と物理的な身体の痛み、夫のパニック障害発症、三十代後半での閉経、親族からのプレッシャーや気遣い等々に疲れ、夫婦は子を設けない人生を歩むことを決意する。


 読書中、タイトルにも冠してある『ちんぽが入らない』がフィジカルの問題なのかメンタルの問題なのか、あるいは何かの比喩であるのかを読み解こうとした。しかし読了後、そのいずれの読解にもあまり意味がないことに思いいたった。『ちんぽが入らない』ということはあくまでもこの女性の生きづらさを象徴する二次的な現象の一つでしかなく、たとえその現象が無くなったとしても、別の現象に足首を掴まれることは読み進めていくうちに次第に明白となる。幼少期から自己肯定感が低く、自らの思いを他者に伝えることに対し無意識のうちにブレーキをかけてしまう傾向にあるのだ。

                 ✳︎

 読了後、本作について世の中の人々がどういった感想を抱いているのかが気になり、種々のレビューに目を通したところ、概ね二種類の感想に大別された。

 そこでは満足にちんぽが入る人たちが共感あるいは疑問を投げかけていた。共感や疑問には多くの場合、怒りや同情が含まれている。すなわち「なぜ病院に行かないのか理解ができない。終始主人公にモヤモヤして腹立たしい」「主人公の自責が自分のことのようで辛い。普通であることを強要する社会を変えよう」と。

 生来、やさぐれ気質を持つ私は両者のような意見を目にすると、「どうせなら文末に『でも私はちんぽが入るけど』って書けばいいのに」と思ってしまうわけだが、それは彼らの純粋な気持ちであり、純粋な気持ちを表明してはいけない決まりはないし、その気持ちを理解できないわけでもない。
 しかしそこで立ち止まってしまって良いのだろうか。批判や同情を乞うために作者はこの告白をしたのだろうか、と私は思う。腹立たしくなるのは想像力の欠如だから放っておくしかないけれど、後者に関しては、自分自身も『普通であることを強要する社会』を構成する一員であるという事実に目を向けているとは、私にはどうしても思えなかった。

                 ✳︎

 冒頭に書いた、何かの角に足の小指をぶつけることに戻る。

『ある日、私は椅子の脚に足の小指をぶつける。予期せぬ無機質な衝撃に問答無用の暴力の匂いを感じ取り、反射的に怒りをもって抗議する。「フツー、こんなところに椅子を置かないだろ!」そして二十秒後にはその怒りは消失し、一年後にはいつ起こった出来事なのかさえ忘れてしまう』

それは私の身に起こった二十秒間の現象であり、私が自分勝手に詰めた椅子との距離感である。それではこれを対人関係に置き換えてみたらどうだろう。

『ある日、私は既婚女性の会話を耳にする。彼女は夫のちんぽが入らないと言う。予期せぬ無機質な衝撃と問答無用の要領の得なさを感じ取り、反射的に怒りをもってSNSにて抗議する。「フツー、病院に行くだろ!」
そして二十秒後にはその怒りは消失し、一年後にはいつ投げかけた怒りの言葉なのかさえ忘れてしまう』

彼女は思う。

「私は置かれた場所に座しているのに、どうしてこの人は自分から接近してきて、私を蹴り飛ばして怒っているんだろう。床に転がり壁にぶつかって塗装は剥げてしまったし、二十年間、何度も何度も何度も何度も蹴り飛ばされてネジも緩んでしまった。もう立っていられない」

                 ✳︎

この作品で暖かい気持ちになれたシーンがふたつある。うち一節を以下に引用する。

『母は信じられないくらい性格が丸くなった。老いて適度に頭のねじが緩んだのか、大雑把になり、いつもにこにこと笑っている。放射状に伸びた棘をあちこちに擦りつけ、長い年月をかけて、ようやくただの丸になれたのだ。』

『私』の感受性や思考システム、ブレーキ機構ができあがった背景に、幼少期の生育環境がある事は容易に想像できる。それでも『私』は決して母を恨もうとはしない。それが一つの救いとして映った。

 とかくSNS時代は効率的な0,100思考が最先端の思考システムであり、それは切り取られた他人の機微を受容するには最も労力を要さない方法だ。
「察知しない夫が悪い」
「母親が悪い」
「ワンオペ育児に追い込んだ父親が悪い」
「毒親ゆえの共依存関係」
「普通を強要する社会が悪い」
「あなたは悪くない」
「あなたは悪いない」
「あなたは悪くない」
 わかりやすい同情的解釈をしたい人はすればいい。それはあくまでも自分自身の生活の不満を作品に重ね合わせ補完する個人的な行為だ。

 しかし、『私』の擦り傷はそれで癒えるのだろうか。
 そして、作者は乞うた同情のレスポンスに長年の擦り傷への癒しを求めたのだろうか。
 私はどうしてもそうは思えなかった。

 きっと、彼女は書かざるをえなかっただけなのだと思う。
 紆余曲折の末、執筆をすることで作者は初めて「言ってはならないこと」のブレーキを解除できたのだ。
 それは似たような思いを抱える誰かのためであるとか、問題を解決してほしいといったSOSではなく、蓄積し抱えきれなくなった思いが溢れ出た末の、自然な心の動きだったのかもしれない。
 そういった意味ではいわばナラティヴ・アプローチ的小説と呼べるだろう。このナラティヴな告白が、四十年の間に負った擦り傷の痛みを少しでも緩和するのであれば、この物語は紛れもなくno problemだ。



この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?