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読書のついて

突然noteを始めてみようと思いたちました。
私は他のSNSで読書について時々発信しているので、これまで発信する場所は一つで十分だと思っていました。
なぜ二つ目の発信場所を作ろうと思ったかというと、時々SNSでは書ききれない内容を書きたくなってしまうためです。ここでは、SNSのスペースでは書けなかった内容をまとめて書いてみようと思います。読書日記+日々の雑感のような内容にしていきたいです。

このところずっと続けて読んでいるのが大江健三郎さんの作品です。
大江健三郎さんは多作の作家で、一度には読めないので少しずつ読んでいるのですが、読めば読むほど引きこまれます。その作品について考えたことをまとめてみたいと思っているのですが、それはまた後日順次書くことにして、最初の投稿では須賀敦子『こころの旅』(ハルキ文庫)の中の読書についての一節について触れてみようと思います。
この文庫は少し前に神保町のPASSAGE SOLIDAで購入。
須賀敦子さんは読書家には大変人気があります。SNSでも読書好きの方が投稿しているのを何度も見かけてきました。私はこれというきっかけがなく、これまで読んだことがありませんでした。今までに何回か目にした投稿で私の印象に残っていたエッセイに『塩一トンの読書』というタイトルの文章があります。この文庫にそのエッセイが収録されていたので、須賀敦子入門として読んでみました。

「ひとりの人を理解するまでには、すくなくとも、一トンの塩をいっしょに舐めなければだめなのよ」
この言葉は須賀敦子さんがミラノで結婚してまもない頃、お姑さんから聞いた言葉だそうです。
人が実際に一トンの塩を舐めようとしたら相当の年月がかかります。それほど長い時間をかけなければ、なかなかひとりの人を理解できるものではない、という意味のようです。
須賀敦子さんは古典といわれる作品を読むたびにこの言葉を思い出すそうです。「古典」は長い年月をかけて人々に愛されてきた書物。そこには人間同士のつきあいと同じように長い年月をかけなければ理解し難い奥深さがあります。とおりいっぺんの読み方では見えない何かが隠されているのでしょう。それは人生の困難や辛さ、あるいは人の優しさなどを経験して初めて「嗚呼あの一節はそういうことを言っていたのか」という理解に至るような内容であるかもしれません。
「古典には、目に見えない無数の襞が隠されていて、読み返すたびに、それまで見えなかった襞がふいに見えてくることがある」須賀さんはこのように記しています。

古典といわれる作品を私はそれほど多く読んできませんでした。
本棚の中に積まれている読み切れない本たち。それらを読むのにどれだけの時間がかかるだろう、と思うと、もっと早くからもっと沢山読んでおけば良かったという苦い思いが湧き上がってくるのです。
SNSで知り合ったある方がこんなことを投稿していたことがありました。
「いつか読もう、などという〈いつか〉なんてきっと来ない。読もうと思ったら〈今〉しかないんだ」
読書のために費やすことができる限られた時間を想うたびに、また苦い焦りが湧き上がってきます。
今更ながら大江健三郎作品に夢中になっている私にとって、大江文学を読むのは〈今〉しかない!と感じられるこの頃です。

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