見出し画像

第二話「琴音の特技」長編作品「15th-逆さまの悪魔-」

「字、きれいだね」

 琴音は思わず顔を上げた。授業のノートを書き足していたら、いつの間にか歌羽が席に来ていた。

「習字でもやってるの?」

「書道教室に通ってる。中学校を出てから始めたんだ」

「じゃあ始めてからそんなに経ってないんだね。それでこんなにきれいな字が書けるってすごいね」

 琴音は顔を赤くした。褒められ慣れていないから、どう反応したらよいのか分からないのだ。親の勧めで始めただけなので、ばつが悪いような気さえした。

「字うまくないよ私は。書道教室の人たちはみんなもっとずっとうまいもん。私はあの中で一番下手だから」

「そうかなあ。じゃあきっとレベル高い教室なんだよ。こんな教科書のお手本みたいな字、私書けないもん」 

 否定したにもかかわらず更に褒められてしまって、琴音はますます返答に困った。

 会話が終わって少し経ってから、ようやく淡い喜びが湧いてきた。ここ二ヶ月ほど教室で手や服を墨汁で真っ黒に汚しながら頑張って練習した成果が出たのだ。琴音は自分の心が上向いているのを感じた。軽くて浮遊しているような心地だった。

 琴音は高校受験において、志望校を二つも落第してしまった。一校目の公立高校は実力不足として納得できたが、二校目の私立高校はある同級生に妨害されたために落ちたといってよかったので、気持ちの整理が未だについていなかった。

 琴音は最終的に目標とするレベルを下げ、公立高校である今のN高校に合格した。だが二カ所も落ちたことは琴音にとって打撃だった。中学校を卒業する頃にはショックで呆然としていた。 

 その頃の琴音は食事が喉を通らなくなり、夜も眠れず、すっかり弱っていた。ようやく届いた合格通知にも喜べなかった。思い描いていた未来が全て崩れ去った現実を受け入れられず、時間が過ぎていくことがつらかった。
実力を出し切って、それでも届かなかったのならまだ諦めがついた。だが受験妨害によって琴音の未来は半ば取り上げられたも同然だった。どうして、どうしてと相手もなく尋ねたかった。

 だが落第が受験妨害によって引き起こされたものであることは誰にも言えなかった。両親も未だに知らない。そのような被害を訴えることは、強烈な精神的強制力によって、自ら禁じてしまっていた。どうせ言ったところで誰も味方などしてくれず、みんな琴音が悪いと言って責めるだろうという諦めもあった。中学時代に琴音がいた場所は、そういうところだった。

 両親はそんな娘を見かねて、何か習い事でもしたらどうかと勧めてきた。琴音は大学へは行かないだろうという暗黙の了解が家族の中でできあがったことも否めない。大学受験しないなら習い事の月謝くらい払う余裕はあるというわけで、母は近所にある習い事のパンフレットを目一杯取り寄せた。

 テーブルの上にたくさんの資料を載せて、家族三人でそれらを手に取りながら、話し合った。

 母親はいくつかのパンフレットを手早くめくりながら、こう提案した。

「ピアノとか、ギターとか、あとドラムもあるんだ。これはコーラス。音楽系の習い事、結構あるよ。吹奏楽部だったんだし、向いてるんじゃない、どう?」

 琴音は悲しそうな顔をして答えた。 

「音楽はやりたくない」

 きっと音楽をやるような人は、私のことを好きではないから、と心の中で付け足した。異常なくらい冷たかった部活顧問の印象から感じ取ったことであった。私なんかが習いたいと言い出したら、あの人と同じような人たちは、嫌がるに違いない。迷惑はかけられない。

「英会話はどうだ? 英語を習えば、学校の勉強にも役に立つんじゃないか? 人と話をする練習にもなると思うけどな」

 と外国人インストラクターの写真が載った広告を見せながら父が言ったが、琴音にはそれもしっくりこなかった。

「あんまりやる気になれない」

 頭が悪い自分なんかが勉強しても仕方ない、という部活のパートで植え付けられた考えの根が深かった。

「じゃあ他にやりたいものは?」

 と母に聞かれて、琴音はパンフレットをいくつもめくった。これも違う、これもやりたくない、と哀しいような気持ちで次々置いていった。すると、束の後ろの方に書道教室の案内を見つけた。

 書道教室ならよいかもしれないと思った。途端に墨の匂いが鼻に思い出された。書道は小学校のとき授業でやったきりであったが、真剣に筆を持って半紙に向き合う時間は、嫌いではなかった。

「習って、字がきれいになったらいいね」

 と本人が明るい調子で理由を付け加えたので、それでほとんど決定だった。本人のやる気が一番大事だ、と両親は賛成してくれた。

 近所にある教室に一度見学に行ったところ、気さくで話しやすい女性の先生が師範をやっていて、子どもや学生の生徒も多く、明るい雰囲気の教室だったので、問題なくその教室に決まった。たくさん並べてある長テーブルに向かって生徒がそれぞれ三人ずつくらい座っていて、一人一人半紙に向かっていたが、小さい子も含めてみんなとても整った字を書いていて、ここに通えば私もあんな字が書けるようになるかもしれないと思うと、琴音は早く通いたくなった。

 まずは硬筆毛筆両方とも、ひらがなから書いていくことになった。手本の字は琴音の手癖の字と似ているものもあればかけ離れているものもあった。どれも今まで何となく書いてきた形から、手本の書き方に倣って全て変えてしまうことになったが、真似して書くと字の見た目は格段によくなって、琴音は字を書くことをおぼろげに楽しいと感じるようになり、練習へのやる気も起きた。手は毎回墨だらけになってしまって、終わってから水道でよく洗う。

 教室の先生や両親には褒められたが、事情を知らない歌羽にまで褒められたのは嬉しかった。歌羽の場合は両親と違って、琴音を励ますためにわざと大袈裟に褒めたわけではないだろう。歌羽が自分の得意なことを素直に褒めてくれる性格だと言うことも判明し、それも安心をもたらしてくれた。優しくて人の長所を認めてくれる子なんだろうな、と感じた。

 琴音は中学時代、自分の意思とは関係なくかなりの時間あの豊子と一緒にいなければならず、苦しかった。新しい友達の歌羽は自分と似て大人しく引っ込み思案の性格で、豊子とは真逆らしかった。琴音はその点安心した。新しい生活は、今までと違って平穏だ、と考え、心が軽くなった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?