※初めての方は、以下『はじめに』の記事をご一読ください。

　遥か遠い旅路を終え、辿り着いたその場所は、青と黒の狭間にある色をした、巨大な森だった。みっしりと生えた木々だけでなく、腰ほどもある高さの雪に覆われて、数メートル先に何が潜んでいるかもわからない森だ。

「ここが……君の生まれた場所か……本当に、あったんだね……」
「そう。そして、私たちが死ぬ場所」

　不思議と恐ろしさはなく、これまでの道を支えてきた杖を地面に突き立てると、私はレモーノと手を繋ぐ。老体に鞭を打ち、彼の生まれ故郷にして、私たちの永久の眠りの故郷へと踏み出した。

　人は死を想うとき、何を連想するものだろうか。静かな森と愛する人の手の温もりになるまで、私は、長い、長い年月を要した。

　　　第一章　ありがとう

　時は遡って、私とレモーノとの出会いの日。それは、長く、空虚な冬が過ぎ、雪が解け出した頃の出来事だった。

　僕は、料理の香りのしないキッチンを前に、いつも母の死、否、生きていた母を感じていた。キッチンとは、本来なら、数多の死が、生と喜びに変わるはずの場所だ。しかし、それはあくまで、料理をする人がいてこそ起こる奇跡である。
　誰にも使われなくなったキッチンには、生まれ育った家の死が漂っていた。一応、まだ僕がいるので、家に住む人がいなくなったわけではない。ただ、在りし日を想う感覚、それは、ほとんど顔を合わせることのなかった父のための墓石よりも、料理を楽しむ母を失ったキッチンが、雄弁に物語っていた。料理と裁縫をしている時間だけは、母の機嫌も良かった。
　自分がそのキッチンで料理をすることで、その微かに残る、平穏な記憶を消してしまいたくなかった。その執着は、確かにあった。レモーノも住んでから、しばらくは、彼の働いているカフェのキッチンで料理をしていた。彼は人並み外れて直感が優れているので、僕の踏み入れてほしくない気持ちを、実の妹よりも理解していたのかもしれない。

 「ミエルだけでは、大きすぎる家ね。まあ、でも、売るのは厳しいだろうから、まずは、ルームメイトと住んだら、どう？　大学にでも募集を掲示して」
「ルームメイトかあ……そうだね……」
「仕事をするようになったら、今の人嫌いのままではいられないでしょ。一人の生活に慣れちゃう前に、誰かがいる状態に戻した方がいいよ」
「うーん、善処するよ」

　母の死から、早いもので、一年が経った。ここ数日は、妹のサラが遺品の整理を手伝いに泊まっていたが、彼女も家族と暮らす家に戻ることとなった。この家に住むのは、今日からまた、僕一人だ。
　元々、母も僕もにぎやかな性格ではなかったが、母を失ったこの家は、魂のようなものを失った。数時間後には、さらに静かになるだろう。一周回って、本が騒ぎ出すかもしれない。

「じゃあ、ミエル、元気でね。幸せが見つかりますように」
「ありがとう、サラ。帰り道、気を付けて。みんなにもよろしく」

 　人とのハグは、妹相手でもぎこちなかった。

　一人暮らしが始まって数日間、サラの提案通り、ルームメイトを募集するか、僕は考えていた。
　正直なところ、身の丈に余る今の家は、売りに出してしまいたい。特に、料理好きの母が、長年の歳月をかけて築き上げたキッチンは、僕では少しも使いこなせていない。僕がこの一年で使ったのは、水道と、コンロ一つだけだった。食事は、基本的に大学の食堂で済ませ、家では果物を食べるくらいである。ろくに人の姿もなく、料理の香りもしないのは、キッチンが可哀想だ。
　ルームシェアの話は、これまでも何度か大学で聞いたことがある。しかし、食堂で赤の他人のする話を聞かされているだけでも、僕は厭に感じていた。住民の誕生日パーティーにも、週末のバーベキューにも、一切心を惹かれなかった。ルームメイト間での色恋沙汰なんて、吐き気がするほどだった。
　そうは言っても、博士号を取るまでは、この家に暮らし続ける方が確実である。修士課程で就職を考えるにしても、ここ一年休学していたので、そろそろ研究を進めなければならない。
　家にある物の量も問題だ。両親の遺品は、僕一人で管理できる程度に片付けたとはいえ、集めに集めた本が残っている。天井にも届く棚に詰めた、膨大な数の本を、新居に入る分まで減らし、さらに家具を移動するなり解体するなり、引っ越しの費用や労力を考えると、この家を手放すのは、今の僕には得策ではないだろう。
　ルームメイトを募集する方法さえ覚えれば、無理に就職を進めなくても、家賃を得ることもできる。先祖が遺した財産は、父の労働力と母の生活能力で目減りが緩やかだっただけで、僕一人では到底、維持できそうにない。サラに帰ってきてほしいくらいだ。父のお金や人脈を稼ぐ力も、母の家事をする力も、サラが継いだのだから、この家も彼女に渡したかった。彼女には、すでに三人の子がいて、一人は向こうの学校に通っているので、僕に家事を教えに来てくれただけ、文句は言えない。

　僕は、空いている部屋を人に貸す方向で、情報をまとめることにした。サラや彼女の子にも、帰って来られる場所は残っている方がいいだろう。両親の遺産を管理する代理人に連絡をして、賃貸か売却か悩んでいる現状は伝えた。学生で、独身の僕では難しいだろうと、卒業までは色々な免除の手続きをしてくれてあるようだった。

「こんにちは」

　大学の掲示板の前で、参考になりそうなルームシェアの募集を探していると、誰かが僕の隣に立つ気配がした。最初、その人も掲示を見ているのだと思った。

『おまえの忘れ物を届けに来た。こっちを見てくれないか？』

　近くで聞こえる声もだが、使っている言葉にも聞き覚えはなかった。僕相手ではないだろうと聞き流していると、突然、肩を叩かれる。顔だけそちらに向けると、隣には見知らぬ男性が立っていた。背格好がほぼ同じその人の目は、想定外に間近にあって、僕は驚きのあまり、一瞬声を失った。

『俺の言い方が変だったか？　俺の言葉は、わかるか？』
「な、何。ごめん、何を言ってるか、わからない」
「わからない……困る……」

　何か困っているようだが、その人の言葉を僕は聞き取れなかった。その人もスフィリットの言葉をほとんど話せないようだ。作業員のようなジャケットを着ていて、観光客の風貌ではない。彼は手に持っていた本を見せてきたので、留学生だろうか。

『これは、おまえの物だ。カフェに忘れて行った本を持ってきた……落ち着いて、本の方を見てくれないか？　いや、目を隠さないで、本を……ダメだな……』
「えっと……道に迷ってます？　カフェに行きたい？　トイレ？」
「いいえ。これ。わからない？」

　助けるべきだと思いつつも、僕はいきなり話しかけられたことに、警戒心が勝ってしまって、硬直することしかできなかった。今すぐ走って逃げたい。しかし、もし彼も同じ大学なら、今後出くわしたときに気まずいので、既のところで持ち堪える。

「ヨセフさん！　いいところに！」

　ちょうどいいところに、同じ研究室のヨセフが傍を通りかかったので、僕は腕を振り上げてまで、彼を呼び止める。その奇行に出てから、すぐそこの学生課に連れていけば良かったことに気付いたが、遅かった。

「どうされました？　そちらは、ご兄弟？」
「い、いえ、あ、あの、彼に話しかけられたんですけど、ここの言葉、知らないみたいで」
「留学生かな？　こんにちは。困ってる？　助けて？」

　話しかけてきた相手をよく見れば、ヨセフからも兄弟と思われるほど、僕らの見た目は似ていた。背格好はほぼ同じで、その人の方が姿勢と体格がいいくらいだ。僕も色白な方だが、その人は色素がないと思えるほどに白く、緑色の目は澄んで、まるでペリドットの宝石のように綺麗だった。

『助けてほしい。俺の言葉を、おまえはわかるか？』
『ああ、メルバンカの言葉か。少しはわかるよ。簡単に話してくれ』

　どうやら、ヨセフはその人の言葉がわかるようだった。僕はほっと胸を撫で下ろす。

『この男は、おまえの知り合いか？』
『そうだ。学生なら、そのドアの先に進め』
『いや、俺は学生ではない。近くのカフェに、彼がこの本を置き忘れた。これが、その本だ。忘れ物を届けにきたが、この通り、二人で困っている。彼に本を見せても、全く見てくれない。カフェに戻って預ける方が、彼に本を渡せるか、俺は考えているところだ』
『待ってくれ。その本はこれから使うものだ。彼に話すが、少し待てるか？　急いでるか？』
『問題ない。おまえに預けるから、彼に渡してほしい』
『それではおまえに失礼をしたと、彼が後々気まずくなる。繊細な男なんだ』
『わかった』

　やはりヨセフも学生課を指し示したが、どうも留学生ではなさそうだ。その人はヨセフにも持っていた本を見せたが、ヨセフは何か落胆したような反応をした。

「それ、ミエルさんの忘れ物。そこのカフェで見かけて、届けてくださったそうですよ」
「え？　あっ……確かに、僕のブックロックだ。すっかり忘れてました」

　ブックロック自体は大学の購買部で買えるものだが、付属の名札には、僕の名前が書かれていた。僕はルームシェアのことに気を取られて、今日使う文献一式をカフェに置いてきてしまった。

『俺たちは学生で、今からこの本が必要だから、助かったよ』
『そうか。怖がらせて悪かったと、彼に伝えてくれ』
『彼は誰に対してもそうだ。俺も話しかける度に警戒される』
『難儀だな』

　本を届けてくれた人とヨセフは、とんとんと話をまとめてしまい、立ち去ろうとしたので、僕は慌てて、その人の腕を掴んで引き止める。

「ありがとうって、どう言うんですか！？」
「『ありがとう』ですね」
「あの、本を届けてくれて『ありがとう』」
『問題ない。ヨセフと言ったか？　おまえもありがとう。本を渡せてよかった』
「どういたしまして、ミエルさんに本を渡せてよかった、だそうです」

　本を届けてくれた人は、軽く微笑んだ後、腕を掴んでいた僕の手を退けて、颯爽と去って行った。僕は、しばらく、その背中を眺めてしまったが、ふと我に返って、ヨセフの視線に気付く。取り付く島もないほどに、挙動不審になってしまった。今もまだ、心臓の鼓動が速いままだ。

「助かりました。ヨセフさんは、よく彼の言葉をご存知でしたね。彼は、どの辺から来たのかな……カフェではなく、言語として……僕は初めて聞きました」
「そうでしたか。交易国の言葉ですから、港の方に出れば、よく使われていますよ。テラット海を越えた、メルバンカという国の言葉です」

　国名だけは、僕も知っていた。父の話にもよく出てきた、ここ一帯の海路を掌握する経済大国だ。

「とはいえ、彼やご両親の生まれは、別の国だったと思います。メルバンカの国は常夏で多湿、住人は小柄で、肌が浅黒く、髪は茶色や赤褐色が多い。混血にしても、あれほど全体的に色が薄くはならないでしょうね。それに、血統主義も強い国です。まあ、向こうの大陸の方が広いので、海辺を離れれば、もっと多人種なのかもしれませんが」
「確かに、夏はあまり似合わない――なんだか不思議な雰囲気の人でした。僕も彼の言葉がわかればよかったのに……」
「彼がここの言葉をわかるべきですけどね。そろそろゼミの時間です、急ぎましょう」
「はい。あの、ありがとうございました、ヨセフさん」

　ヨセフとも、ゼミ以外でこんなに長く話したのは、初めてだった。僕は、予め内容を決めていない会話や、終わりの見えない予定や作業が苦手だ。課題の発表や議論なら、考える時間を与えられるので、台本を作ってやり過ごせるが、雑談や台本のない会話は、焦っている間に進んでしまって、いつも置いてきぼりだった。

　家に帰っても、ルームメイトなんて出来てしまったら、僕は、どこで、どうやって息をすればいいのだろう。一人で立ち竦む僕の横を、今日も、ゼミの生徒たちの討論が、嵐のように過ぎ去っていった。

　大学からの帰り道、僕は何を思ったか、再びカフェへと向かった。お店を覗いてみたが、他に客の姿はなく、僕の忘れ物を届けてくれた人も、カフェの店員ではなかったようだ。
　折角立ち寄ったので、カフェのある公園を散歩し、いつも人懐っこい猫が寝ているベンチに寄ることにした。
　ベンチの周りには、なぜか、いつも以上に、たくさんの猫が集まっていた。猫は夜行性だと聞くし、夕方以降の方が活発なのだろう。今度からこの時間に寄ろうかと考えていると、すでに先客がいることに気付く。目を凝らして見ると、ベンチには、僕の忘れ物を届けてくれた人が座っていた。

「こんばんは」

　全員くつろいでいたのか、僕の声で何匹か驚いて逃げてしまう。見たことのない猫もいたので、もう少し眺めてから声をかければよかったと、内心後悔した。
　それよりも、僕はなぜカフェにまで彼を探しに来て、声をかけてしまったのだろう。彼は僕の顔を少し見た後で、本に視線を移し、誰か思い出したような顔をする。そういえば先程と違って、僕は前髪をおろし、眼鏡をかけている。

「こんばんは――ミエル」

　座っていいかとベンチの隣を指さすと、彼は頷いて、猫をどかした。地面に降ろされた猫は、ぬるっと彼の手を抜け出して、僕の背中と背もたれの隙間に挟まった。僕は猫が好きだけれど、こんなに猫と近付けたことがないので、猫の集会に混ざれたことに感動してしまう。

「ミエル」
「あ、ごめん。猫に気を取られてて……僕の名前、覚えててくれたんだ。君の名前は？」
「きみのなまえ？」
「僕、は、ミエル。これ、は、猫。君、は？」

　自分や猫を指さして名前を告げた後、彼の方をさす。相手を指さすのは失礼だったかと思ったが、彼は僕の指先を追って、その意図を察したように、わかると呟いた。そういえば、先程話しかけてきたときも、いくつかの単語は口にしていた。

「キミは、レモーノ……“ボク”は“ミエル”？　キミは、ミエル。これは、ねこ。ボクは、レモーノ」
「そう！　君の、名前は、レモーノ。僕の、名前は、ミエル。僕らは、人間で、これは、猫」
「ボクの名前は、レモーノ。ミエル、知る、ボクの名前。猫は、名前、ない」
「僕は、君の名前を、聞いた。君は、僕に、君の名前を、レモーノだと、教えた。僕は、君の名前を、知った。猫には、名前が、ない」

　レモーノも同じようにポツポツと繰り返す。“名前”の単語や人称は、覚えたようだった。彼に指をさされた猫は、指先の匂いを嗅いでいて可笑しかった。

「あの、それで……さっきはありがとう、レモーノ。ありがとうは、君の言葉で、『ありがとう』」
「はい。ごめん。言葉、わからないで、こんにちは。キミは、ボク、怖い」
「いや、大丈夫。助かったよ」

　先程怖がってしまったのは、レモーノに気付かれていたようだ。
　しかし、話しかけたはいいものの、この後どうしたらいいだろう。言葉の通じない相手といても、気まずいだけだ。それなのに、僕の腰は、ベンチから離れようとしなかった。レモーノの様子を窺うと、彼は猫たちにお肉の切れ端のようなものを与えていた。

「”ごはん”は、知る？」

　猫たちは、その音の意味を知っているようだ。一斉に視線が僕の方に向く。近くにいた猫は、額を僕の膝に擦り付けてくる。

「ボクは知る？　猫は知る？」
「レモーノは知る？」
『おまえたちの餌じゃないよ。俺が聞かれたんだ』

　レモーノは、僕に集まる猫を諫めると、手に持っていたお肉を遠くに投げた。猫たちは我先に、とそれを追いかける。僕の背にいる猫は眠っているのか、僕の腰はあたたかいままだった。

「ボクは、ごはん、知るとわかる」
「レモーノは、“ごはん”を知ってる。意味もわかる」
「はい、いいえ。わかる、わからない。できる、できない。合ってる、違う。ごはん、食べる、食べない。言葉、場所、知る、知らない。いる、いらない。痛い、怖い、助けて。ボクは知るとわかるの言葉」
「観光客くらいの言葉は、覚えてるんだね」

　僕の方が列挙された言葉を覚えられなかったくらいだ。

「レモーノは、ごはん食べる？」
「はい」
「じゃあ、ミエルのありがとうのごはん……いや、何を言ってるんだろ……」
「ミエルのありがとうのごはん……ボクは、ミエルのありがとうのごはん、食べる？」

　レモーノの表情が和らいで、心臓を掴まれるような心地がした。先程の別れ際もだが、他人の悪意のない笑顔なんて、何年ぶりに見ただろう。彼には僕が変な人に見えないのだろうか。

「そ、そう。これから、君と、僕で、ごはんを、食べる。いる？」
「はい。えっと、怖いではないの言葉、わからない」
「怖いではないの言葉？　“嬉しい”かな」
「ボクは、ボクと、キミで、ごはんを、食べる。うれしい。わかる？」
「わかる」

　気のせいだろうか。レモーノは随分と耳がいいようだ。緊張して、軽く支離滅裂になっている僕の話から、ほとんどの単語を聞き取って、復唱している。

「ごはんを食べる、場所に、行く。わかる？」
「ああ、わかる。えっと……合ってる？」

　すっと立ち上がったレモーノの後ろ姿は、冷たい風の中に咲くタンポポのようだと思った。顔立ちも人の良さと愛らしさを醸しつつ、僕の厚ぼったい眼鏡と前髪をものともしない、凛とした印象があった。 

　僕はレモーノと連れ立って、大学の食堂へと向かった。道中は、ほとんど無言だったが、たまに彼の方から月や花を指さして、僕の緊張感を和らげてくれた。
　食堂を選んだのは、すでに置いてある食べ物を見て注文できるので、レモーノでも食べたいものが食べられるだろうと思ったからだ。僕が奢るつもりだったのに、意外と彼はお金を持っていて、気付くと僕の分まで支払っていた。
　席についてから、お金を渡しても、受け取られなかった。とんとんと机の上に置いた本を指で叩かれたので、学生は勉強に使えと言いたいようだった。

「レモーノは、言葉、知る、いる？　わかる？」
「いる。わかる。言葉知らない、レモーノは、助けて」
「レモーノは、言葉を、知らないと、困る」
「こまる。ヨセフは、ボクの言葉、キミの言葉、わかる。言葉わかる、助け……助けてではない」
「確かに、ヨセフがいたらよかったな。まだ大学に残ってるかも……」
「いいえ、違う。ボクは、ヨセフ、いらない」
「え？」
「ヨセフ、いる、キミとボクは、わかる。ヨセフ、いない、キミとボクは、わからない。ヨセフ、いる、ボクは、ヨセフ、言葉、助けて、言葉、助けて。ボクは、言葉知らない、ずっと。ボクは、困る、ずっと。わかる？」

　ヨセフがいると、彼の通訳に頼ってしまって、レモーノはずっと言葉を覚えられない。多分そう伝えたいのだろう。
　海境の隣国の言語で、港の方ではそれなりに使われているという話を聞く限り、身近にレモーノの言葉がわかる人はいるのだろう。普段は港近くにいて、二つの言葉をわかる人に頼ったり、メルバンカの人を相手に仕事をしたりして、暮らしているのかもしれない。
　メルバンカの言葉だけに頼っていると、いつまでもこの国、スフィリットの言葉を覚えられなくて、レモーノも困ることがあるのだろう。ちょうど、今日みたいに。

「“ほしい”は？　知る？　わかる？」
「はい、知るとわかる。ほしいは、いる、違うではない……」
「そう、“ほしい”と“いる”は、似てる。レモーノは、この国の言葉、わかる、ほしい。合ってる？」
「違う。ボクは、キミの言葉、わかる、ほしい」

　国の意味までは、わからなかっただろうか。

「レモーノは、ミエルの言葉が、わかりたい」
「ボクはキミの言葉がわかりたい」

　それとも、僕が話している言葉であることに特別な意味があるのだろうか。それはさすがに、自惚れが過ぎる。

「ふふ、なんか、言葉当てゲームみたいで楽しくなってきた。妹の面倒を見てた頃を思い出すよ」
「ごめん、わからない…」
「“楽しい”は？　わかる？」
「知る。わからない」
「楽しいは、こわいではない」
「こわいではない？　たのしいは、こわいではない？」
「そう。僕は、レモーノと、話すのが、楽しい。ヨセフとレモーノ、言葉、わかる。ヨセフとレモーノは、話す、できる。話す、できるは、言葉、わかる」

　言葉が通じず、手助けもなくて困るかと思ったが、ヨセフがいたらいたで、僕はずっと黙っていただろう。僕がその場にいる必要はなくなっていた。レモーノと手探りでする会話は、内容の面白さや互いの立場や能力の優劣を気にする必要がなく、人との会話から逃げたい僕の気持ちを和らげた。

「僕は、レモーノと話す、楽しい。怖いではない。わかる？」
「ミエルはレモーノとはなす、こわいではない？　たのしい？」
「僕はレモーノと話すのが楽しい。怖くない」
「ああ、わかる。ミエルの言葉、わかる。ミエルと話す、できる。レモーノは、たのしい。たのしいではない。嬉しい？　ミエルと話す、できる、ボクは嬉しい？」
「“嬉しい”で、いいと思う。レモーノは、ミエルと、話せるようになったら、嬉しい。“話す”と“できる”で、話せる。“ようになったら”は、難しいかな。“君と話せたら嬉しい”でも、わかる」
「キミと話せるようになったら嬉しい。ボクはキミをわかりたい……違う……それは怖い」
「なんだろう。僕にレモーノをわかってほしい？」
「うーん、違う。話す、できない」
「“話す”と“できない”は、話せない」

　僕と親しくなりたいという意味だろうか。レモーノに興味や好意を持たれたのだろうか。
　それにしては、僕に何も感じていないような眼差しを向けている。若干、観察や分析の気配は感じられるが、僕の話を理解しようとしている範囲内で、好意や期待を向けられるときの嫌悪感はなかった。

「僕も、君の言葉をわかりたいな。二人で話せるようになりたいね」

　その言葉は、自分の発したものとは疑わしくなるほどに、一音と滞ることがなかった。まるで何でもできることが前提で将来の夢を語る、子供のような声だった。

「ああ、そうだ。ペンと紙があるんだ。レモーノの知りたい言葉がわかるかもしれない」

　子供のようだと思ったところで、妹に言葉を教えるときに、絵本を使っていたことを思い出した。僕に絵を描く能力はないが、音声だけでやりとりするよりは、紙に書くことで伝わることもあるだろう。

「これは“ペン”、これは“紙”」
「ペンと、かみ」

　僕は“書く”の動詞を動きで伝えるように、自分の名前をゆっくり書いてみせた。

「ミエルは紙に言葉を書く。わかる？」
「わかる。レモーノは？　言葉を？　書くではない。ミエルは言葉を書く、レモーノはミエルの言葉を？」
「レモーノはミエルの言葉を読む。それか、レモーノは紙の上の文字を読む」
「これは、かみのうえのもじ？　紙に書くの言葉？　合ってる？」
「ちょっと違う。それは、文字。でも、よく聞き取ったなあ……」
「文字は、わかる。書くと読む、わかる。文字は、わからない――違う。文字を読むはできない」
「わかった。文字の読み方は、まだ知らないよね。この文字は、ミエル、と書いてある。”ミエルは、紙に名前を書く”でも合ってる」

　そう話しながら、レモーノという名前は、果物のレモンに似ていると、余計なことを考えた。彼も何がそんなに面白いのか、紙を持ち上げてまで、僕の名前を凝視していた。

「“話す”と“聞く”も覚えようか。ミエルは、言葉を、話す。レモーノは、ミエルの言葉を、聞く」
「キミは、言葉をはなす。ボクは、キミの言葉を聞く。キミは言葉を書く、ボクはキミの言葉を読む。“話す”は、ここ。“聞く”は、ここ。“書く”と“読む”は、紙……文字。合ってる？」
「合ってるよ。すごいな、君は随分と、耳と頭がいい。“耳”はここ。“頭”はここ」
「わかる。これは？」
「これは手。右手で、左手。これは足。右足で、左足」

　手を開いたり閉じたりした後、足の言葉を教えながら、僕はレモーノの足先を軽く蹴った。やりすぎだろうかと思ったが、彼は復唱して、言葉を覚えることに専念しているようだった。

「“話す”は、口を、使う。“聞く”は、耳を、使う。“書く”は、手を、使う。“読む”は、目を、使う」

　それぞれの動詞と、一緒に使う体の部位を指でさして説明する。

「“話す”と“聞く”は、声を、使う。レモーノは、ミエルの、話す、声を、聞く。“書く”と“読む”は、文字を使う。レモーノは、ミエルの、書いた、文字を、読む。わかる？」
「わかる」
「そういえば、“使う”は？　わかる？」
「わかる。ミエルは文字を書く、ペンと紙を使う。合ってる？」
「半分、合ってる。ミエルはペンを使って、紙に文字を書く」
「紙は？　使うではない？」
「うーん……使ってはいるんだけど……」

　紙を使って書くとは言わないだろう。“書く”の動詞の客体だから、と文法的説明をしたところで、レモーノの疑問は深まるばかりである。食べかけのチキンを前に、お皿とカトラリーの関係も同じであることに気付く。

「これは、ナイフ。これは、お肉。ミエルは、ナイフを使って、お肉を切る。わかる？」
「ああ、わかる。それは？　ナイフではないの使う」
「これはフォーク。これはお皿。ミエルはフォークを使って、レモーノのお皿に、お肉を乗せる」
「お皿と紙は、似てる……ペンやナイフは、手を使う……お皿に乗せる、紙に書く……これは手を使ってナイフを乗せる。これは手にナイフを乗せる」
「合ってるよ、合ってる。“使う”は難しいから、レモーノは“話す”、“聞く”、“書く”、“読む”を覚えよう」

　数時間の会話と、教師でもない僕の説明だけで覚えたにしては、相当な進度だろう。メルバンカの言葉を同じように会話から学べと言われても、僕はレモーノの半分も覚えられる気がしない。

「言葉がほしい。レモーノは、紙に文字ではないを書く。ペンがほしい」
「ん？　文字ではないは、“絵”かな」

　ペンを渡すと、レモーノは丸を一つ描いた絵と、その隣に、丸をいくつか描いた絵を並べた。

「これは？　ゼロではない」
「ゼロではない？　お皿？　丸？　一つ？」
「これは、お皿。これは？」
「これは、お皿？　お皿が一つ。お皿がたくさん」
「これは、一つではない。一つではないは、たくさん。合ってる？」
「合ってる」
「“たくさん”は、ほしいの言葉」
「言葉をたくさん知りたい？」
「違う。レモーノは、ミエルと話す、知るとわかるの言葉がたくさん。ありがとう、ミエル。レモーノは、ありがとう、話す、ほしい」
「レモーノは、ミエルと話して、たくさんの、言葉を、覚えた。ありがとう、ミエル。レモーノは、僕に、ありがとう、と、言いたかった。かな？　“覚える”は、“知る”と“わかる”と“使う”ができる」
「ボクは、キミと話して、たくさんの言葉を覚えた。ボクは、キミに、ありがとう、と言いたかった。ありがとう、ミエル」
「どういたしまして。レモーノは、本当に、たくさんの言葉を覚えたよ。すごい」

　言葉を覚えた喜びに、レモーノがはにかんだのも束の間、ふっと彼の視線が逸れて、僕もそちらを見てしまう。気付けば、外はもう夜だった。それで今、彼は御礼を言うための言葉を知ろうとしたのだろう。

「夜だ」
「ああ、そうだね。真っ暗だ。レモーノは家に帰る？」
「わからない……まっくらだ？」

　僕は紙に家を描こうとしたが、毒キノコみたいになってしまった。

「これは、家。“家”は？　知る？」
「知らない。わからない」
「“帰る”は？」
「知らない。わからない」
「“寝る”は？　寝るには、目を閉じる」

　少しの間、目を閉じて見せると、わかるという声が聞こえてきた。

「寝るではないは？　目を？」
「今、レモーノがしてるのは、“目を開ける”だけど……“寝る”ではないは、起きる、目を覚ます。寝る、起きる」
「キミとボクは起きる？」
「うん、ミエルとレモーノは、起きている。寝ていない。ミエルとレモーノは、夜に、寝る」
「いいえ、ボクは、昼に、ベンチで、寝る」
「昼に寝るの？　昼と夜はわかるんだ。僕は、夜に、家で、寝る。わかる？」
「んー……寝る、わかる。いえは……寝ると使う言葉？」
「そう、僕は、夜に、家で、寝る」
「ああ、家、わかる。家で寝る。レモーノの家は、ない。レモーノは、起きている。足を……これは、寝る」

　レモーノは自分の手を人に見立てて、テーブルの上を歩かせたり、横たわらせたりした。

「これは？」
「これは歩く。レモーノは、昼にベンチで寝るって言った？　まさか、さっき会ったとき、君は寝てたの？　聞いても難しいか。レモーノは、ベンチで、寝る。ミエルが、レモーノに、こんばんはと、話す。レモーノは、ミエルの声を聞く。レモーノは、起きる？」
「はい。レモーノはベンチで寝る。ミエルは、こんばんは、と話す。レモーノとミエルは、ミエルのありがとうのごはんを食べる。レモーノは、たくさんの言葉を知る。レモーノは、ありがとうと、話す。ミエルは、家で寝る。レモーノは、歩く」

　僕よりも所持金はあり、身なりは清潔で、不快な匂いもしないが、レモーノは浮浪者なのだろうか。ただ、よく見ると、彼の手は、袖から出ている腕まで、傷だらけである。

「レモーノは、ミエルの家で寝る？　ほしい？」
「いいえ、いらない」
「レモーノの家は、ないんでしょ？　僕の家は、レモーノ、寝る、できる」

　レモーノの眉間に深い皺が寄る。いきなり自分の家で寝ろというのは、変なやつだろうか。しかし、重労働や野営生活による傷だとしたら、そうでなくても、風雨を凌げる場所で、ベッドの上で寝た方がいいはずだ。

 「ミエルは、怖いではない？　レモーノがミエルの家で寝る？」

 　公園で出会ったときに謝られたことや、痛いや怖いの言葉を既に覚えていたことから窺えるように、レモーノは他人の恐怖心を気にかける性格らしい。見た目も狂暴には見えないが、この数時間話しただけでも、実直さが感じられる。

「ごめん。よく知らない僕の家で寝るのは、君が怖いよね」
「いいえ。ボクは、ミエルと話す、楽しい。ほしい。ありがとう。でも、ミエルの家で、言葉わからないレモーノが寝てる、ミエルはこわい。ミエルはこわい、ボクはほしいではない。わかる？」

　そう言われるほどに、僕の心はレモーノに惹かれていく。対人恐怖症を軟弱者と怒られたり、蔑まれたりした経験しかなくて、怖い思いをさせてごめん、怖い思いをしてほしくないと言われるなんて、初めてだ。

「でも、レモーノともっと話したい……」
「ミエル……ボクも、話したい……」
「カフェは？　わかる？」
「カフェ？　えっと……それ……沢山の紙……ミエルはこう？」
「そう！　ボクは、本を、カフェに、忘れる。レモーノは、カフェで、本を、忘れる、ミエルを、見る」
「わかる。レモーノは、カフェで、お肉……えっと……お肉をお皿に乗せる。それではない。たくさんのお肉を乗せる」
「レモーノはカフェで働いてるの？」
「わからない。カフェで、たくさんのお肉とレモーノ、歩く。火曜日と金曜日」
「曜日は言えるんだ。火曜日と金曜日に、君はカフェにお肉を運んでるのかな」

　僕がカフェに寄る日はまばらで、そぞろな気を珈琲で集中させようと、気まぐれに立ち寄っただけだった。レモーノと僕のいる日が重なったのは、低い確率で起きた偶然だったらしい。

「金曜日、カフェで、ミエルは、レモーノと話したい。わかる？」
「わかる。うれしい。ボクはキミとたくさん話したい。たくさんの言葉を覚える」

　立て続けに予期せぬ出来事があって、興奮しているのだろうか。僕はレモーノの言葉に妙に感動して、返事もろくにしないまま、若葉色の目をじっと見詰め返してしまった。

「ミエルは、家……たくさん……？」
「僕の家は、一つだよ」
「違う。ミエルの家で、たくさんの人間は寝る？」
「僕は、家に、一人で、住んでいる。人間が一つは、一人。家に住むは、寝る、食べる、歩く、たくさんのことをする」
「一人……」

　レモーノは、何かを言おうとしたが、腕を組んで、眉間に皺を寄せた。

「言葉がほしい。ミエルは痛い、怖い、レモーノはほしいではない。痛いと怖いがない……」
「痛いと怖いがない……安心？　安全？　それとも僕に“気を付けて”と言いたい？」
「きをつけて。たくさん聞く。キミは一人で住む。たくさん気を付けて。わかる？」
「わかった。気を付けるよ。ありがとう。君も気を付けてね。金曜日、僕は君に会いたい」
「はい、気を付ける。金曜日……あいたい？　話したいに似てる？」

　“会う”は、これからも頻繁に使うだろうが、説明するとなると難しい。紙に人間の絵を描こうとしたが、ヒトデを二つ描いたようなものだった。　
　そういえば、レモーノは“歩く”と“寝る”の言葉を聞くときに、手を使って説明していた。僕は両手を僕らに見立てて、テーブルの上に立たせた。

「左手はレモーノ、右手はミエル」
「ボクとキミは歩く」
「そう。それでこれは、レモーノとミエルは、会う」
「わかる。金曜日、ボクはカフェにたくさんのお肉と歩く。ボクとキミは、カフェ、会う。ボクはキミに、こんにちは、と話す。合ってる？　ミエルはほしい？」
「合ってる……ほしい」

　レモーノにはそんな意図がないとわかっていても、僕が会ってほしいかと包み隠さず聞かれると、恥ずかしさが出てきた。

「金曜日に会う」
「うん、また金曜日に会おう」

　次の約束が決まったところで、どちらからともなく席を立つ。使った食器を片付けて、回収ワゴンに乗せる。
　大学の門を出ると、レモーノはカフェとは別の方向に行くようだった。公園まで一緒にいられるかと、未練がましい期待は叶わなかった。

「おやすみ、レモーノ」
「おやすみ、ミエル」

　付き纏って嫌われては、元も子もないので、今夜は潔く別れることにした。レモーノは夜に寝ないと言っていたが、“さようなら”が言えなくて、“おやすみ”を別れの挨拶代わりに使った。
　誰もいない暗い家に帰ることが、妹が帰宅した後よりも堪えた。金曜日の約束がなかったら、僕も彼の横を歩き続けていたかもしれない。

「寂しいな……」 

　声に出すと、今まで感じたことすらない、孤独感がざわざわと込み上げてきて、僕は足早に寝室へと向かった。たった二日だけのことなのに、十年を超える通学よりも耐え難い。
　これまではさっさと家に帰って、自分の部屋で本を読んで過ごしたかった。早く会いたい、もっと話したい、ましてや一緒に住んでほしいなんて、誰にも思ったことがない。まさか自分に、そんな相手ができるなんて。それも会ったばかりの、言葉も通じない人に。

「早く、金曜日にならないかな」

　僕は布団の中で猫のように丸くなると、左手で右手を包み込んで、目を閉じた。

第一章　ありがとう　終

次の話

当記事をご覧いただき、ありがとうございます。
次作もよろしくお願いいたします。
🍋🐝🍯