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すべては作品の利益のために【エッセイ】

創作活動にインプット/アウトプットの作業があることに異議を挟む人はいないと思う。
最近自身が作品を発表できていないのはインプットに勤しんでいるから、と言えば言い訳に聞こえるかもしれない。
ただインプットというものはなかなか困難な作業である。脳に語を入れる、文を入れる、物語を入れる、発想を取り入れる、くらいならさほど手間にもならなそうだが、インプットするものが新しい概念だったり、肌に馴染みのない思想や、自分の知らない感情だったりする場合、それなりの時間と集中力を要する。

アウトプットは基本的に能動的作業で、そこには必ずと言っていいほど「癖」が現れる。僕は水の流れやすい水路でイメージすることが多い。そこに側副路を繋いで、別の水源や別の河口を利用しようと思っても「結局はこの水源と河口を一直線で繋ぐ水路が一番効率良いよね〜」という悪い癖が現れてくる。するとせっかくインプットしたものも巧く使えず、一生同じような作品を描き続けることになってしまう。
よくインプットとアウトプットは両輪だと言われる。しかし「癖」の功罪を考えると、恐れずにアウトプットの門を閉じる時間も必要だと思う(この時点でもうプロではなくなるのだろうが……)

インプットには受動と能動がある。たとえば見開き2ページを眼下に置いたとき、目の動きが流れるところは受動的インプット、つまり自身の中に既に発達した水路の流れの確認。一方で、目の動きが止まるところには能動的インプットがある。「知らないな」「おかしいな」「なぜなんだろう」こういった問いが能動的インプットの発火となる。新しい水路を掘って、その上流にどんな水源があるのかを確認しにいかなくてはならない。またどんな下流に繋がるのかを想像する必要も出てくる。
正直、このような能動的インプットをしなくても本は読める。既にある水路を恣意的に選び水を流して、ひとつの物語を作り上げるのだ。これは非常にストレスの少ない作業で、いわゆる「楽しむ読書」だと思う。

僕が名作だなと感じる作品は、本流がしっかりとありつつも、合流や分岐による網目構造が豊かなものである。もしそういう作品で「楽しむ読書」をしたらどうだろうか? それも時期を変えて2度3度、それ以上読んでみたらどうだろうか? その都度、恣意的なわけだから、読むたびにルートの変わる、非常に楽しい川下りになるのではないだろうか。

インプットの恣意性に関連して、最近読んだ本を紹介したい。宗教学者の堀江宗正氏による『ポップ・スピリチュアリティ メディア化された宗教性』(岩波書店)だ。アカデミックな「スピリチュアリティ」が定着しなかった日本において事あるごとに台頭してくる「ポピュラー(大衆的)なスピリチュアリティ」とは何か? そのブームの背景にある日本人のメンタリティはどんなものか? などの問いに対して、霊能者やパワースポットなどの実例考察を通じて迫っている。
本書の冒頭ではサブカルチャーとの類似をもとにポップ・スピリチュアリティの特徴について以下のように解説されている。

宗教学的知識は、物語作品のなかで繰り返し取り上げられてるうちに、ふるいにかけられ、クリエイター向けの事典類やウィキペディアを通して標準化され、現実の宗教から独立したフィクション的な宗教世界の形成に至る。このような過程をたどった分析は他書に例を見ないものであるだろう。サブカルチャー研究として単独で読むこともできるが、それまでのポップ・スピリチュアリティ現象と共通することは多い。それは、(1)宗教的文化資源の折衷的な摂取、(2)メディアを介した個人主義的な受容、(3)当事者には「宗教」と思われてないこと、(4)受容者自身が知識を選別し、日々ヴァーチュアルなデータベースを更新し続けていること、(5)SNS上で報告や感想を投稿する受容者自身が他のユーザーにとってのメディア・コンテンツとなっていること、などである。
(はじめにxより、太字は矢口が付した)

これを読んで自らの活動を振り返ると、僕の主催している「note神話部」の活動は基本的にはサブカルチャーなのだが、ポップ・スピリチュアリティと共通点も多く、紙一重なのだということに気付く。ではポップ・スピリチュアリティとサブカルチャーを分け隔てるものは何かというと(これは私見なのだが)現世利益や心理利益を需要供給する、かどうかだと思う。もちろんサブカル作品に触れる事で癒しや高揚感を得ることもあるので、明確に区別することはできないのだが、需要者に何らかの利益を供給しようとする活動をポップ・スピリチュアリティとして大きく間違えることはないと思う。

note神話部はもちろん宗教活動ではないので、正確には「note神話文芸部」なのだろう。文芸とは……について考えだすとさらに長くなるので今日は控えるが、少なくとも文芸における活動・注力の大部分は文芸作品に向けられるべきである。それは「作品」の利益のためにだ。
note神話部が怪しいポップ・スピリチュアリティに加担しないように日々目を光らせている。神話という宗教性と隣り合わせにあるものを扱う人には、是非ともこの辺りの意識を高く持ってもらいたいと願っている。

ちなみにポップ・スピリチュアリティそのものが悪なのではない。堀江氏は、このような流動的なブームは、確固たる教義を掲げる「宗教」以前の人々の精神生活の有様に近いのかもしれないと推察している。そもそも既存の宗教の発展にだって「大衆のスピリチュアリティ」は大きな影響を与えてきたはずである。
上に「怪しい」と付したのは、その宗教性において発信者・提供者の利益が絶対となっていて、受信者の利益が蔑ろにされている場合である(蔑ろに見えないのが怖いところ)。
noteには様々な精神・生活史を背景に持つ、様々な年齢層のユーザーがいる。そして簡単に金銭のやり取りが可能である。いつでも被害者になり得るし、ともすれば気付かぬうちに搾取する側になってしまうかもしれない。

親指一本で色んなことが出来る時代だ。この親指はもう実印となってしまった。だから指と直接繋がるこの脳を、これまで以上に鍛えていかなくてはならない。加えて「規約」というものは参加者を守るためというより、提供者の「免責」のために作られているということを忘れてはならないと思う。用意されている規約以上に自分を守ってくれる文書を、自分で作成しなくてはならないのだ。

インプットしながらこんなことを考えていた。怪しいスピリチュアリティと同じように、怪しい文芸にだってなりたくない。だから作家の益や悦のためでなく、すべては作品の利益のために。このことを肝に銘じながら、引き続き神話的なものを扱っていきたいと思う。


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ご支援頂いたお気持ちの分、作品に昇華したいと思います!