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HONESTY

平和な恋人たちのところへ、嵐のような女が過去からよみがえる。
さて男女の仲に、本当の誠実ってあるんでしょうか?


1.突然の電話 (1994/9/2 金曜日)

もう黄昏どきだというのに、残暑と呼ぶにはあまりにもきびしい暑さだった。良平は銀座四丁目の交差点の地下鉄の出口を汗だくになって駆け上がると、涼子と待ち合わせしているドイツ料理が名物の煉瓦造りの古めかしいビヤホールへと急いだ。

良平が涼子に会うのは2週間ぶりだった。8月のお盆休み、世間が休みのあいだも長野県の諏訪の機械メーカーへ設備導入のため1週間出張していたので休暇を取れず、8月21日と22日にやっと有給休暇をとって軽井沢へ1泊で行ったのが、彼女とのこの夏唯一のデートだった。
8月25日は良平の30回目の誕生日であった。その晩は涼子と過ごすはずであったが、飛び込みの仕事で浜松へ出張となって、その大切な日ですら、涼子を彼のアパートでひとり待たせる結果となってしまった。

良平の会社は精密測定器の輸入代理店で、彼はそこの技術部に所属していた。バブル崩壊の影響から、流行のリストラの嵐は彼の会社にも襲ってきていた。同じ職場でも、高い年齢の社員は明らかに減点法で採点され、退職を勧告されるか、彼らには絶対に無理なサービスマンの仕事をさせられて辞めざるを得ない状況に追い込まれてゆくのだった。
幸い良平の給料はさほど高くなく、仕事でも無理の効く年齢だったので、会社からは重宝に使われて、リストラ自体とは無縁だったが、人員が減った分、彼には猛烈な負荷がかかってきているのだった。

汗をハンカチで拭きながら、扉を押して中へはいると、ほぼすべての席は週末の仕事帰りの人たちでうまっていた。涼子は通りに面した隅の席に座っていた。良平に向かって軽く手をあげて合図した。狭い木の椅子の間を通り抜けて、彼は涼子の待つ席まで行った。

「先に、小ジョッキいただいてたわ。」
「ごめん、15分の遅刻だ。今日は僕がご馳走しよう。」
「いいのよ。良平の会社リストラでたいへんなんでしょ?無理しないで。うちは銀行だからとりあえず大丈夫みたいだし。」
「いや、今日ね、こないだのお盆休みのときの出張の精算したんだけど、休日出勤だったんで、出張前に仮払いしてもらった額より、さらに5万円もらえたんだ。その精算を慣れない経理の女の子がやってくれてたんで時間がかかったんだ。だから、今日はおごるよ。」

「じゃ、お言葉に甘えるわ。」
「銀行はいいよな。つぶれる心配がないもんね。…あ、すみません。大ジョッキ2つと、ソーセージの盛り合わせください。」と、良平は話しながらオーダーした。
「それがね、大きな声じゃ言えないけど、うちも帝京銀行と合併する話がでてるの。帝京が不良債権の焦げ付きがすごい額になっているんだって。あ、これほかの人に喋ったらだめよ。取り付け騒ぎになったら困るから。」

「ベテラン女子行員が語る都市銀行の内幕、なんて週刊ポストに売り込んだりして。」
「そうね。いつのまにか、ベテランと呼ばれる歳になっちゃった…。仕事一生懸命やっても支店長代理とかにはなれるわけではないしね。」
涼子はふっとため息をついた。彼女も28になってほんとはもうそろそろ“結婚”という言葉を良平から聞きたいのだけれど、良平はそんな涼子にはお構い無しに熱いおしぼりで顔を拭いていた。

良平と涼子は運ばれてきた生ビールのジョッキで乾杯をして、クリームのような泡の下の冷たい黄金の液体をぐうっと飲んだ。
「ぷはー。会社クビになってもこれだけはやめられないね。」
良平がそんなのん気なことを言っていると、ピピピピと電子音が繰り返し鳴った。

「あ、ごめん、例の会社の携帯電話だ。」
この8月休みの前に、人員の減った分をカバーするために、良平は会社から携帯電話を持たされたのだった。
「もしもし、島村ですが。あれ、声が聞こえないなあ。もしもし、もしもし。」

電話の相手は苦しそうな声をしぼりだした。
「あ、良平?わ...わたし。美奈。わ…わかる?声、おぼえてる?」
良平が忘れるはずもなかった。1年半あまり前、6ヶ月間彼のアパートで半同棲生活をしていた美奈の声だった。もっとも、美奈が勝手に転がり込んできていたのだが。
良平もさすがに涼子を前にして応対に苦慮したが、相手がただならぬ様子なので、答えた。
「わからないはずないじゃないか。で、でも、どうしたんだ。何かあったのか?」
「良平、…助けて。いますぐ来て…。死にそうなの。頭が…割れそうに痛い。」
「なんだ。助けてくれって。事故か?病気なのか?」
良平は涼子の不思議そうな視線にも構わず質問した。

「病気…じゃない。さっき…クスリを飲んだ。良平…良平が今でも夢に出てくるの。…おまえ、そんなことしていちゃいけないって。そんなんじゃダメだって。……じゃあ、・・わたしはど・どうすればい・いいの?」
電話の向こうの声はあえぎながらも、泣き叫んでいた。

「ど、どうすればいいって…。いまどこだ?あのアパートにいるのか?」
「そう。」
「救急車をよぶからな。そのままにしていろ。」
「いやっ。救急車なんか呼んじゃ。良平が来てくれなかったら、ビンの中の残りを全部飲むからね。お・・お願い、すぐ来て。」
「わ、わかった。すぐ行く。いいか、すぐ行くからな。クスリは飲むな。絶対だぞ。」
良平は電話を切った。目の前には不安なような疑問なような複雑な表情をした、 涼子が説明を待っていた。


2.嵐の女 (1994/9/2 金曜日)

「ごめん。涼子、急用ができた。すぐに行かなきゃならない。」
良平は汗ばんだ夏の上着をつかんで立ち上がった。

「今の電話、美奈さん、でしょ。」
涼子はまっすぐに良平を見据えて言った。落ち着いた口調に迫力があった。
「あ、ああ、そうだ。だ、だけど、1年半前からずっと会っていなかった。もちろん、1年前に君と出会ってから、話しをしたのも今が初めてだ。」「救急車とか、クスリとかって、穏やかではないんじゃない?」
「そう。だから、ともかく行ってやらないと。」

すこし間をおいて、涼子は問い掛けた。
「あなたが、今更なぜ呼ばれるの?なぜ行ってあげなきゃならないの?」
良平は答えに窮した。たしかに、もう関係ないのだから、放っておけばよい、とも考えられる。が、しかし、どんなに目茶苦茶な女だって、一度は恋人だった美奈が、(理由はともかく)死ぬ苦しみを味わっているのを見捨ててはおけなかった。

「良平、あなたは、美奈さんにはずいぶん苦労させられたんでしょう?良平がいたのに、他のひとに抱かれる女だったんでしょう?それでも、助けてあげるの?」
良平には、涼子が(それじゃあ、私はどうなるの?)と言いたいのをこらえていることが良く解った。
「涼子。僕は今更、美奈とどうかなるなんて、全く考えられない。そういうんじゃないんだ。ただ、助けを求めている人を放っておけないんだ。・・僕には涼子がいる。何も言わずにそれだけを信じてくれ。」

良平は涼子の両腕をつかむと、
「本当に申し訳ない。ともかく、今日のデートは一旦中断だ。行ってくる。」
「ねえ、今晩あなたの部屋で、あなたを信じて待っていていい?」
涼子は意を決したように言った。
「そうしてくれるか?ありがとう。じゃ、デートの続きは僕の部屋でね。」
良平はすこしぎこちなく笑うと、伝票をつかんでキャッシャーに行き、表に飛び出していった。
立ち上がって見送っていた涼子は、ふうっとため息をつくと、木の固い椅子に腰掛けて、残っていたビールを一気にのみほした。

良平は表でタクシーをつかまえると、「代々木上原まで。急いでいってください。」と、行き先を告げた。
タクシーの車窓から、黄昏た皇居の風景をみながら、美奈とのことを思い出していた。

(ずいぶんいろんなことがあったよな。)
美奈はかつてデザインの専門学校に通いながら、六本木のクラブでアルバイトをしていた。美奈は良平と付き合う前に、一度子どもを堕ろしたことがあった。それ以来、情緒的に不安定になることがあり、深酒をしては男を誘うという生活をおくっていた。
そんなときに良平は、言ってみれば美奈を一時的に救ったのだった。たまたま、飲みに行ったときに知り合い、例によって美奈が泥酔してしまったのを介抱し、親切にアパートまで送ってあげたことがあった。それから、美奈は良平に頼るようになり、しばらくは良平のアパートに居着いておとなしくしていた。良平は最初はやっかいな拾い物だとおもっていたが、次第に美奈の飾らない天衣無縫な性格に惹かれていった。

しかし、それも長くは続かなかった。
つきあってから6ヶ月くらいの1993年の初め頃から、美奈はまた深酒をするようになり、アルバイト先で知り合った男達と遊んで、帰ってこないときがあるようになった。美奈はそれでもあっけらかんと、『でも、本当に好きなのは良平だけだよ。』と言っていたが。良平はさすがにたまらず、美奈に『別れよう』と告げたのだった。

美奈も一時期の危機を脱したせいか、さして取り乱したりもせず、『良平、ごめんね。』というメモを残して、彼の元を去っていった。それから1年半が過ぎていた。

(出会いから最後まで、まるで嵐のような女だったな。)
良平にしてみても、涼子の言った、
『あなたが、今更なぜ呼ばれるの?なぜ行ってあげなきゃならないの?』
という言葉を同じように 自分でも言いたいくらいだった。


3.美奈の部屋で (1994/9/2 金曜日)

幸い月初めで道路はたまたま混んでいなかったが、電話があってから39分経過していた。
良平は、以前よくおとずれた代々木上原の美奈のアパートの前でタクシーを降りると、2階への階段を駆け上った。203号室のドアを2回乱暴にノックして、すぐに躊躇なく扉を開けた。鍵は閉まっていなかった。

「美奈、どうした。大丈夫か。」
上着を放り出して、散らかった部屋の隅のベッドへ駆け寄った。美奈はベッドの上でTシャツにジーンス姿でうつぶせになりながら苦しんでいた。ベッドサイドには蓋を開けたままの睡眠薬のビンと、安物のワインの空き瓶が置いてあった。クスリはまだ4分の3は残っていた。

(これはたいして飲んでいないに違いない。)
良平はキッチンへとんでいって、コップに水を汲むとベッドに横たわっている美奈の口もとに持っていった。
「美奈、とにかく水を飲め。」
良平は動き回る美奈の肩を抱いて、水を無理矢理に飲ませた。

「良平、来てくれたんだね。あり・・・がとう。」
「礼はいいから、とにかくこれを全部飲むんだ。」
「気持ち悪い。吐きそう。」
「ちょっと待ってろ、今、洗面器持ってくるから。」
良平が浴室へいって、洗面器に水を入れている少しの間に、美奈は自分で立ち上がり、トイレによろけながら飛び込んだ。そして、水を流しながら胃の中のものを一気にもどした様だった。良平は洗面器を放りだして、トイレでうずくまっている美奈の背中をさすってやった。

「み、みんな・・吐いちゃった。」
美奈は乱れたソバージュの髪の間から上目遣いに良平を見て涙ぐみながらそう言うと、立ち上がって良平の首に抱きついてきた。
「良平、良平、ありがとう。」
良平は突き放すわけにもゆかず、美奈を抱きとめていたが、優しく美奈の両腰のあたりを押さえてゆっくりと体を離した。

「大丈夫か、さあ、ベッドへ行って休むんだ。」
良平は、美奈の脇を抱きかかえるようにしてベッドまで連れていって、寝かせてやった。
「良平、今更、何だって思ってるよね。ごめんね。でも、あたし、今はあなたしか頼る人がいないの。」
「何も喋らなくていいよ。とにかく、すこし休め。僕はしばらくいてあげるから。」
緊急事態はどうやら峠を越えたようだった。何が原因かはともかく、良平が来たことで美奈の気持ちが沈静化したようだ。

美奈は30分ぐらい軽く眠った。午後7時半をまわり、外も暗くなっていた。良平は美奈のために明かりは点けずにベッドに腰掛けて彼女を見つめていた。すると、眠っていたようにみえた美奈が、
「ほんとに、ごめんなさい。」
とか細い声で言った。
「落ち着いたかい。」
「ええ、…ワインを1瓶空けて、…クスリを飲んだわ。そしたら、良平がでてきて、『そんなこと、やめろ』って叱ったのよ。だから、あたし、『どうしたらいいの?』って。…教えて欲しくて。…そんな風に叱ってくれるのは良平しかいないの。」

「それは、以前あったことを思い出しただけだよ。」
と、冷たく言ったものの、良平にも美奈の気持ちがわかるような気はした。そして、問いかけてみた。
「何があったんだ。…また、男か?」
美奈は醒めた笑いを浮かべながら。
「この、馬鹿女、って思ってるでしょ。…でも、あたしみたいな女でも、ごみ箱へポイッて捨てられるみたいにされれば、傷つくことだってあるの。
……言わなくてもわかってる。自業自得だって。」

良平は内心そう思っていたのだが、口には出さなかった。美奈は続けた。
「でも、あたしは自分に嘘をつかないだけ。いろんな男の人がいればそれぞれいいところがあって、魅力を感じるの。」
「いつも正直にしてればいいってものでもないと思うけど。」
良平は(それはお前のいいところでもあるんだが)という言葉は言わないでいた。美奈はベッドの上に起き上がると良平の目を見て言った。

「ねえ、私を抱いて。…心配しないで、決してつきまとったりしないから。…良平、彼女いるんでしょう?邪魔したりしないから。一度だけ、 前みたいに抱いて。」


4.待っていた女 (1994/9/2 金曜日)

良平は思いがけない美奈の要求にたじろぎ、少しの間何も言えなかった。「一度だけでいいの、...優しくして…。」
美奈はそう言うと、Tシャツの裾に手を掛けて、脱ぎ始めようとした。

「ちょ、ちょっと待ってくれ。」
良平は美奈の手を押さえた。
「それは、…それは、できない。」
別れたとはいえ、見た目は魅力的な美奈であった。正直いって何も感じないわけではなかったが、良平の脳裏を、先ほどの涼子の不安げな表情が横切った。
『あなたを信じて待っていていい?』と、良平の中の彼女は言っていた。しかし、一方で美奈を冷たくあしらった場合、ふたたび彼女が暴走するのではという不安もあった。

「美奈。落ち着くんだ。僕たちはもうずっと前に終わったんだよ。何があったかはともかく、お前がピンチになればこうして来るけれど。…前みたいになれるわけじゃない。」
良平はデリケートな精神状態の美奈を思い計って、言葉を選んでゆっくり説得した。
「そう。そうか。…もう良平にはちゃんとした恋人がいるんだもんね。」「そ、そうだ。だから、できない。」
美奈は寂しげなまなざしをフロアに落として、
「わかったわ。じゃ、しばらく、2時間だけでいい。ここに居て。」
「あ、ああ。」と、一瞬壁の時計を見て、午後8時であることを確認して、良平はそう返事をしてしまった。
(涼子には済まないが、11時ころまで待っていてもらおう。)

もう1度美奈をベッドに休ませて、良平はかたわらで壁に寄りかかって座った。その後、美奈は良平と別れた後の話をぽつりぽつりと始めた。どれも、美奈ならばそうだろうな、と想像できるストーリーだった。今回のことも、さして彼女にしてみれば不思議のない出来事だった。(普通の男なら、逃げ出すよ。)と、良平は思っていたものの、口には出さず、うんうんと聞いていた。こういう時は、何の解決にならなくても誰かに話しをするだけで相当気持ちが楽になるものだ、ということを良平は知っていた。ひととおり、物語をはなしてだいぶ落ち着いたようだった。
すこしの沈黙の後、美奈は良平に問い掛けた。
「良平は、彼女とうまくいっているの?」
「えっ。…うまくって。」
急な質問に意表をつかれて、即座にこたえられなかった。

「良平は、また、いつものように恋人をほっぽらかしてるんじゃない?」
図星だった。美奈は直感的に物事をとらえ、動物的な勘が鋭いところがあった。
「いつものように、って。」
「良平は、あたしのこと、ただ、だらしない女だって思ったろうけど、あたし、寂しかったんだよ。」
昔のことを思い出してか、美奈の目は潤んでいた。
「そうか…。」
良平は美奈との昔のことを思った反面、いま、自分のアパートで待っている涼子を思い出さずにはいられなかった。(いつも、ほっぽらかしてる…か)と彼は美奈の指摘が的を得ていることに気づいた。
「つきあって、どれくらいなの?」
「去年の夏からだから、1年とちょっと。」
「定期的にセックスしてる?」
こういう質問をあけすけにできる女だった。
「あ、ああ。定期的ってことはないけど。」
「自分の都合をいつも優先して放っておくんでしょ。彼女いくつなの?」
「この8月で28になった。銀行に勤めている。」

「優しい人?」
「うん。落ち着いて、それでいてしっかりしている。」
「結婚しないの?」
「いまのところは…。資金もないし。」
「ほら、すぐにそうやって逃げ道を見つけるんだから。自分で意志を持たなければ何もできないよ。…彼女きっと待っていると思う。良平から『結婚しよう』って言われるのを。」
美奈は良平をまっすぐに見てそう言った。
「あたしだって、そう言って欲しかったんだから。」
良平は驚いた。美奈がそう思っていたとは考えもしなかった。

「あたし、思うんだけど、あなたはいつも周りに流されて生きてるわ。良平のまわりのものがすべて失くなってしまった時に、あなたには何が残るの?」
良平は何も言えなくなってしまった。少なくとも自分は仕事ができる、と思っているが、今の会社が無くなってしまったとき、何が残るのだろう。

「あなたを信じてくれる人を大事にしてね。私のカンでは、彼女、きっと待ってると思うわ。・・・私のカン、当たるんだから。」
美奈はそう言うと、久しぶりの笑顔を見せた。良平もすこし微笑んだ。美奈は時計を見ると、
「あ、もう11時だわ。もしかして、彼女、良平のこと待ってるんじゃない?」
良平もそのことが気になっていた。良平のアパートは江戸川区の葛西なのでおそらく代々木上原からは1時間以上かかってしまう。
「そのとおり、実は、待ってるんだ。」
「じゃ、早く行ってあげて。私はもう大丈夫だから。…もう電話したりしないから。安心して。良平に話しをしていたらとても楽になったわ。」

「頼れる人はいるのか?」
「仙台の知り合いが前から仕事手伝わないかって言ってくれてたんだけど…。小さなブティックなの。そこを頼って、もう1度、服飾関係で出直してみるわ。…良平も幸せになれそうだし。あたしはもともと福井だから東京にどうしてもいなきゃならないってこともないし。……良平に会えて、話しをしたら、なんかふっきれた。」

「そうか。そういう当てがあるならいいけど。」
「今日は、ごめんなさい。でも、来てくれてありがとう。やっぱり良平は良平だったわ。」

美奈は優しく笑ってそういうと、良平の唇に軽くキスをした。
「あ、これは彼女には内緒にしてね。昔の女から意見されたなんてこともね。なんでも正直にすればいいってものでもないわよ。」
先ほど自分の言った言葉を返されてしまった。

ふたりで戸口までゆくと、
「ごめんね。迷惑掛けて。」
と、美奈は言った。良平は最初はやっかいごとに巻き込まれたと思っていたものの、美奈のストレートないくつかの指摘で、見失っていたものに気がついていた。

「いや、いいんだ。最後はなんかこっちが相談に来たみたいになっちゃったね。」
ふたりは微笑みあった。良平は、
「じゃ、もう、無茶しないように。行き詰まったらまた遠慮なしに連絡してくれ。」

そう言ったが、美奈は、
「もう、連絡しないわ。それより、彼女を大事にしてあげて。」
といって、ドアを開けてくれた。外は熱帯夜だった。

「それじゃあね。さよなら。」と、美奈は手を振った。良平は階段のところで1度振り返ると、美奈はまだドアのところで 手を振っていた。


5.落とされた男 (1994/9/3 土曜日)

良平が西葛西のアパートに着いたとき、時刻はもう午前零時15分だった。彼の103号室にだけ明かりが点いていた。

チャイムは鳴らさずに、鍵をすばやく開けて部屋に入った。
「ごめん。遅くなっちゃって。」
と、良平が謝りながら玄関で靴を脱いでいると、涼子はすこし固い微笑みを浮かべて彼を迎えた。ダイニングのテーブルの上にはサラダと和風のパスタがこしらえてあった。
涼子は良平の視線に気づいて、
「あ、さっき食事しそこねていたから、作ったんだけど。食べてきた?」と聞いた。
「いや、さっき銀座でソーセージを一口食って以来何も食べていない。」「そう。じゃ作っておいて良かった。でも冷めちゃったから、暖めるわ。」涼子はパスタの皿を電子レンジに入れようとした。
良平はむこうを向いてお皿を持っている涼子を後ろから抱きしめた。

「ほんとに、ごめん。いつもいつも待たせてしまって。」
彼女の耳元でそう言った。涼子は小さな声で優しく言った。
「いつもいつも信じて待っているわ。…昔の恋人でも、困っていれば助けに行ってあげるなんて…。でも、あなたのそういうところが好きよ。」

良平はそのとき、決心した。
「涼子。一緒になろう。」
「えっ?」
「僕たち、結婚しよう。」
涼子はパスタのお皿を置いて、彼の腕の中で向き直った。

少し見詰め合った後で、
「ありがとう。」
と言って彼に優しくキスをした。彼女の瞳は潤んでいた。

「もう1度ビールの飲み直しだ。」
深夜の食事をとり、ビールを飲みながら、良平は今日起こった事件の顛末を涼子に教えた。
「美奈さん、やけになって、良平に迫ったんじゃないの?」
いたずらっぽい笑いを見せながら涼子は厳しい追及をした。
「ぷっ。そ、そんなことはないよ。もう、そういうのはとっくに終わったことだから。」
必要以上にどぎまぎして、半分白状したようなものだったが、このことと、美奈から意見されたこと、軽くだったがキスをしたことは、『いつも正直にしていればいいというもんじゃない』とばかりに話しをしなかった。

そして、ふたりは久しぶりに幸せな夜を過ごしたのだった。

翌日はしばらくぶりに休むことのできる土曜日だった。涼子はヘアサロンの予約があるからといって、10時には帰っていった。心なしか楽しげだった。
1週間分の洗濯物は昨晩のうちに涼子が洗濯して室内に干してあった。良平がそれをベランダに張ってあるロープにかけかえていると、机に放り出しておいた携帯電話が鳴った。

(いやな予感がする。)
「もしもし、あ、島村ですが。課長ですか?おはようございます。えっ。設備の故障でラインが止まってるって?こないだの、浜松ですか?すぐ行ってくれって…。」
(まあ、結婚資金も貯めなきゃならないから、行くか。)
「わかりました。すぐ行きます。じゃ、仕様書をとりに会社に一度出てから行きますので。」
携帯を切って、良平はふと思った。
(なんで、この電話番号を美奈が知っていたんだろう?)


6.一回だけの不誠実 (1994/8/25 木曜日 )

今日は良平の30回目の誕生日だった。

涼子は西葛西の良平のアパートで得意の料理を作って待っていた。すでに時刻は8時を過ぎている。
(遅いなあ。でも忙しいって言っていたし。事故とかじゃなきゃいいんだけど。)
そこへ、電話が鳴った。
「あ、良平?いまどこ?えっまだ浜松にいるって。今夜は帰れないって?お料理作って待ってたのに。…でも、無事で良かった。うん。また今度ね。いつ?来週の金曜日?いつものところね。じゃ、気をつけて。」

電話は一方的に切れた。涼子はふうっとため息をつくと、「ま、仕方ないか」と独り言をいって、きれいに並べられた食卓を片づけはじめた。そこへ、もう1度電話が鳴った。
(あ、きっと良平だわ。もしかして帰れることになったのかしら?)

「はい、もしもし。」
「あれ、島村さんとこじゃないんですか?」
若い女の声だった。涼子はすこしいやな気分がした。
「島村さんのところですけど、私、友達で留守番してるんです。どちらさまでしょうか?」
「あー、わかった。あなた、良平の彼女ね。あいつ自分の誕生日なのに彼女待たして帰ってこないんだ。」

電話の女はずけずけと土足で人の心に踏み込んできた。しかし、完璧に当たっていた。
「あたし、美奈っていうの。良平は正直者だから、きっとあたしの名前あなたに言ってるでしょ?」
涼子は美奈のことは、良平から聞いていた。どうしようもない女だったが、憎めなかったとも。

「ええ、聞いたことあるわ。それで、なんで電話してきたの?」
涼子も平静を保って切り返した。

「あ、変な勘違いしないでね。じつは、あたし今度結婚することになって、仙台に引っ越すのよ。それで電話したの。ちょうど今日は良平の誕生日だし。奴からは悪いイメージで話しを聞いてるだろうけど、良平と別れてからあたし心を入れ替えてお酒もやめて、男も一人だけにして真面目にやってたんだ。そいつと、今度一緒に仙台で店を開くの。」

「えっ、そうなの。」
涼子は、初めて話をする相手ではあったが、あまりに飾らない正直そうな態度に最初のいやな感じが薄れてきた。

「良平は変わってないね。大事な彼女のこと放っておいて、仕事仕事って言ってるんでしょ。とってもいい人なんだけどね。あなた、名前なんていうの?」
「わ、わたし?涼子です。」
「涼子さんもきっとたくさん待たされてるんでしょ。」

「え、ええ。たくさん。でも、彼、遊んでるわけじゃないし…。」
あなたには関係ないわ、と言おうと思っていたのについ美奈の人懐こさに相づちを打ってしまった。
「文句も言わずに待ってるんだ。あなたってきっと優しいいい人なのね。あたし好きになったわ。あなたいくつなの?」
「28だけど…。」
「28か、もうそろそろって年頃ね。良平と結婚したいでしょ。」
「え、そそれはまあ。」
「あたし、あなたの気持ちが痛いほど分かるの。ほっとけば彼はきっといつまでも待たせるわよ。うん、電話でこうして話したのも何かの縁だわ。あたしがあなたに協力してあげる。」

「きょ協力って、何するの?」
それから30分涼子はすっかり美奈のペースにまきこまれていた。美奈の言う、完璧な「良平を落とす作戦」は練り上げられた。

「でも、そんな良平をだますようなこと私できないわ。」
「あなたがだますんじゃないわ。あたしが演技するの。あたし、高校の時演劇部だったの。絶対大丈夫だって。あなたはただお料理を作って待っていて、良平が帰ってきたら『いつもいつも信じて待っているわ。』って言うだけだから。これで、絶対落ちるって。」
「え、でもそんな卑怯な手段を使いたくないわ。」

「涼子さんてやっぱりいい人なのね。でも、いつも正直でいればいいってものじゃないわよ。」
美奈はむかし良平にいわれたことをそのまま言った。考え様によってはいろいろに解釈できる言葉だった。そして、続けた。
「むしろ、少しの嘘で幸せになることもあるわ。あ、だから、良平がそのとき私が話す内容を涼子さんに言わなくても、恨んじゃ駄目よ。それで、良平と涼子さんはおあいこだからね。」

「でも、美奈さんが迫った時に、良平が、その…、応えちゃったらどうしよう。」
「涼子さん。良平がそんな男だって思ってるの?」
美奈はきっぱり言った。涼子はすかさず。
「それだけは絶対にないわね。」
ふたりは笑った。

「あたし、いつか良平には借りを返さないとって思っていたんだ。わたしがちゃんとなれたのは彼のお陰なの。いいの、あたしは悪い女って思われたままで。良平はあなたみたいないい人がいてあげなきゃだめだわ。とにかくあたしが勝手にやるから、あなたは今度のデートの予定と、携帯の番号を教えて。」
涼子は少しだけ躊躇したが、(良平ゴメン1回だけ不誠実になります)、と心の中でつぶやいて、9月2日に会うことと、 携帯電話の番号を告げたのだった。

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