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ベランダに来る鳥

 夫は植物が好きな人で、たくさんの木を育てている。
 マンションなので、ベランダに鉢を置き、最初は小さな苗木を買ってくる。辛抱強く水やりをし、成長するたびに大きな鉢に植え替える。そんなことをやっているうちに、柘榴もオリーブもシマトネリコもジャガランタも背丈を超えてきて、葉も花も(実も)いっぱいつくようになった。マンションの外から見ると、我が家のベランダだけ緑がもさもさと生い茂っていて、何やら「怪しい家」のように見える。

 これらの木々のありがたさを痛感するのは、何といっても夏である。強い日射しが室内に入るのを、遮ってくれるのだ。特にここ数年の東京の夏の暑さは尋常ではなく、暑さに弱い私は、木がなかったらとても日々をしのげなかっただろう。ブーゲンビリアやルリマツリの花がたくさん咲いて、目を楽しませてくれるのも良い。早朝、ベランダの美しい緑を見ながら紅茶を飲むのは、楽しい一日の始まりを予感させる、至福のひとときでもある。

☆☆☆

 とこのように、木々にはとても感謝しているのだが、一つだけ困ったことがある。緑がふさふさとしているせいか、連中が来るのだ。

 鳥である。

 来るのは主に4種類。雀、ヒヨドリ、キジバト、メジロである。雀は集団で飛来して枝に止まり、ぺちゃくちゃぺちゃくちゃ、喧しいといったらない。お前らはカリキュラム委員会か、と言いたくなる(教員を経験した方にはおわかりいただけるだろう)。
 ヒヨドリは単独で来るが、ホバリングしながら「ギャーーーーーッ」と鳴き、これもうるさくてたまらない。私の祖母、歌人の葛原妙子(1907~85)は、

鵯は胸をかきむしる鳥 あかるき銃聲にますぐに落つる鳥

葛原妙子『葡萄木立』(白玉書房)

と、歌の中でヒヨドリを容赦なく撃ち落としているが、さすがは我が祖母。強い。これは私の好きな歌である。

 それはともかく、うるさいだけならまだ我慢できるのだが、困るのは鳥どもが落とし物をしていくことだ。どうも我が家をサービスエリアか何かと勘違いしているらしい。毎朝洗濯物を干すたびに、ベランダの手すりに残された連中のふんを見るのは切ない。粥状のもの、饅頭状のもの、掃除しても掃除してもきりがない。鳥が来ると窓を開けて追い払うようにしているが、すぐにまた戻ってくる。木に銀色の円盤をかけてみたり、リボン状の紙をつけてみたり、色々とやってはみたのだが、全て徒労であった。ついに夫は「ベランダにゴム製の蛇を置く」と言い出した。即却下した。

☆☆☆

 物理学者、朝永振一郎(1906~79)の随筆に、「庭にくる鳥」という一篇がある。
 武蔵野に住む朝永先生。庭に鳥のえさ台を作り、そこにやってくる鳥を観察する。いつ頃何が来るかを見る。一年中来る雀、オナガ、シジュウカラ、ムクドリ。冬から春にかけて来るアオジ、カワラヒワ、ヒタキ、ウグイス、メジロ。夏に山に帰らず残っているヒヨドリ。春から夏秋にかけて来るキジバト。

 鳥の飛来時期を観察するだけではない。彼らの落としたふんを見て、その中の植物の種子を集めて保存し、四月ごろ鉢にまくというから凄い。それらは入梅の頃から芽を出す。

 ふた葉のときは何の芽かわからないが、本葉が出るとおよその見当がつく。そして秋ごろまで待つと、もうはっきり何であるかがわかる。そのようにして、いままでに生えたものの名をならべると次のようなものがある。
  ツタ。アオキ。ネズミモチ。イヌツゲ。ビナンカヅラ。
  ナツメ。オモト。シュロ。ツルバラ。
 どれもこの辺のあちこちに見られる植物である。ツタとアオキが圧倒的に多いのは、この二つがうちの庭にあって、冬たくさんの実をつけるからだろう。このはなしをある人にしたら、タヒチ島やヒマラヤにしか生えない植物でもでゝきたらおもしろいのだがなあ、といわれた。

朝永振一郎『庭にくる鳥』(みすず書房)

 何ともはや、のんびりとして優雅で、飄々としていて、それでいて鋭い分析力。これがノーベル賞の底力。「ゴム製の蛇」などと言っている我々とは人間としての格が違うのである。

 しかしやはり、何と言っても庭があることが大きい。我々も庭を持っていたら、鳥どもに対してもっと鷹揚に、ゆったりと構えることができるはずだ。マンション暮らしでは、

春眠不覚暁(春眠暁を覚えず)
処処聞啼鳥(処処啼鳥を聞く)

孟浩然「春暁」

などと悠長なことを言ってはいられない。すわベランダに鳥が来た、追い払わなきゃ、と飛び起きるのだ。

 ということで、今日も鳥はベランダに来ている。追い払う。雀はまだ可愛気があり、こちらが窓を開けただけで一斉に去って行くが、ヒヨドリは「ケッ」と言った風情で1メートルくらい場所を移動するのみ。仕方がないのでベランダに出て「こらああっ」と大声をあげて威嚇する。朝永先生とあまりに違いすぎる。人としてなかなか情けない。ああ、庭がほしい。

 最後に南宋の詩人、楊万里(1127~1206)の「寒雀」を。かしましく鳴いていた雀どもが何かに驚いて突然飛び去る。後に残る静寂。空庭に「ベランダ」とルビをふり、梅梢を橄欖(オリーブ)に変えれば、うちの詩になる。そう、鳥を追い払い、ふんの掃除をしつつも、詩心を忘れてはならないのだ。

百千寒雀下空庭(百千の寒雀 空庭に下り)
小集梅梢話晩晴(梅の梢に小集して 晩晴に話す)
特地作團喧殺我(特地に團を作して 我を喧殺せしも)
忽然驚散寂無聲(忽然として驚き散じて 寂として聲無し)

楊万里「寒雀」


追記:
 鳥との攻防にたまりかねた私は、ある日親友のNちゃんに相談した。

 あんまりひどいからベランダに「大便を禁ず」っていう張り紙をしようかと思って。

 Nちゃんはしばらく考えこんでいたが、

 うーん。でも鳥には大便と小便の区別がないから、「大便を禁ず」じゃなくて「排便を禁ず」だね。

と言った。




 

 

 

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