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英語de世界史——英語から見える用語の本質②

世界史講師の伊藤敏です。

今回もまた、
世界史のあの用語を英語でどう表現するの? という一風変わった視点からアプローチしていきます!

それでは、はじまりはじまり~


キリストから戴冠されるシチリア王ルッジェーロ2世

1.「両」ってなに??


さて、今回もクエスチョンから!

両シチリア王国 って、英語では何というでしょう?

ここでポイントとなるのは、やはり「両」の部分でしょうが……
↓ ↓ ↓






正解は、 Kingdom of the Two Scilies でした!

「両」はここでは Two=2 がそれに相当するわけですね。
実際、イタリア語でも  Regno delle Due Sicilie となり、英語と全く同じ意味合いになります。

今回注目したいのは、「両」がTwoであることもさることながら、
SciliesシチリアSicilyが複数形になっている点も見落とせません。

……ということは、このあたりのニュアンスを汲んで見直してみると、
シチリア王国が2つあるということになります。

2つのシチリアとはどういうことでしょう?
それは、この地の歴史に答えがあります。

今回は、この「両シチリア」という言葉に込められた意味を紐解いていくため、南イタリアの歴史を遡ってみることにしましょう……。


中世盛期までの南イタリア――三つ巴の抗争を制したノルマン人

まず、中世盛期までの南イタリア情勢から振り返ってみましょう。

そもそもシチリア島は地中海のほぼ中央に位置する交通の要衝で、
かつ古代より豊かな穀倉地帯として知られたため、歴史上多くの勢力がこの地を巡って争いました。
6世紀に東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世(位527~65)の征服事業によって東ゴート王国が滅亡すると、南イタリアはローマ人に支配に再び服します。
イタリアには6世紀後期に、ゲルマン系のランゴバルド人が侵攻して王国を築きますが、それでも南イタリアとシチリア島はかろうじて東ローマ帝国の支配が維持されます。
南イタリアは東ローマ帝国の本土に当たるバルカン半島からもほど近いという、地勢上の理由もあります。

しかし、9世紀よりヨーロッパ世界では「第2次民族大移動」が始まります。
第2次民族大移動」とは、マジャール人、ヴァイキング、イスラーム教徒の進出であり、
このうち南イタリアはイスラーム勢力の侵攻を受けます。
なかでも、チュニジアに成立したアグラブ朝は、827年よりシチリア島に兵を送り、
最終的にはこの地にイスラーム政権が発足し、これはシチリア首長国Emirate of Sicilyと呼ばれます。
シチリア島の支配を失った東ローマ帝国は、一方では南イタリアで土着のランゴバルド系諸侯とも断続的な抗争を続けており、
シチリア島のイスラーム政権と合わせて三つ巴の戦いがこの地で繰り広げられたのです。

10世紀の末になると、この三つ巴の争いに、ある新参者が現れます。それが、ノルマン人です。
北フランス・ノルマンディーに定住したヴァイキングの子孫であるノルマン人領主の一部が、傭兵として南イタリアに進出を始めたのです。
そうしたノルマン人のうち、オートヴィル家(アルタヴィッラ家)の一門が次第に勢力を伸ばし、
11世紀後期にはオートヴィル家の2人の兄弟、
ロベール・ギスカールが南イタリアの一帯に支配権を打ち立て、
弟のルッジェーロ1世はイスラーム勢力の支配するシチリアをそれぞれ征服します。
これにより、ノルマン人の進出を受け、ランゴバルド人、ムスリム、そして東ローマ帝国の支配者たちは、ことごとく退けられることになります。

ルッジェーロ1世の子ルッジェーロ2世(位1105~54)は、シチリアと南イタリアの政治的統合に成功し、
1130年に対立教皇から王号を承認され、王国となります。
これがシチリア王国の成立です。
高校世界史では、このルッジェーロ2世を初代国王とするシチリア王国を指して「両シチリア王国」と呼ぶことが多いです(新課程の「探究」の教科書では「シチリア王国」表記が増えた印象はあります)。

とはいえ、この時点ではまだ何が「両」なのかはわかりません。
その直接の原因は、この後になるのです……。


ジョヴァンニ・ヴィッラーニの『新年代記』Nuova Cronicaより

王国の繁栄とシチリアの晩禱

シチリア王国は支配層のノルマン人だけでなく、イタリア人やギリシア人、さらにアラブ人も居住し、
各々が自分たちの宗教・宗派を信仰し共存しあうという、
中世ヨーロッパでも類を見ない国際色豊かな国家となりました。

ルッジェーロ2世に始まるオートヴィル朝は半世紀ほどで男系が断絶し、
代わって当時の神聖ローマ皇帝の家系であるホーエンシュタウフェン家の支配を受けることになります。
ホーエンシュタウフェン朝2代目のフェデリーコ(あるいはフリードリヒ2世:位1198~1250)は、アラビア語を含む数か国語を操り、
第6回十字軍では交渉により聖地エルサレムを10年間確保するといった成果まで成し遂げます。
その開明的な思想により、「世界の驚異」Stupor Mundiと渾名された彼でしたが、
フェデリーコは多様な宗教・民族のひしめくシチリア王国の象徴たる存在だったのです。

しかし、このホーエンシュタウフェン朝も、フェデリーコが没すると
彼の孫の代に断絶します。
とりわけこのホーエンシュタウフェン朝を脅威としたのがローマ教皇庁で、
ドイツ(神聖ローマ帝国)ではローマ王選出に教皇が干渉するなどして国王選挙が混乱し、「大空位時代」を迎えます。

一方で、シチリア王国も同様でした。
当時のローマ教皇インノケンティウス4世は、フランス国王ルイ9世の末弟シャルル・ダンジューをシチリア王として擁立します(カルロ1世:位1266~85)。
シャルル・ダンジューは壮大な野望を抱いていました。彼はエルサレム王の継承権を得、さらに東ローマ帝国の征服準備まで進めます。
ところが、こうしたシャルル・ダンジューの政策はシチリアに必然的に重税や圧政を課すことになり、
ついにシチリア島民がシャルル・ダンジューの支配に対し反乱を起こします。

1282年3月30日、シチリア島の首府パレルモで島民による暴動が発生し、
この日の晩禱(夕べの祈り)の時間を知らせる教会の鐘の音を合図に全島反乱にまで発展します。
これが、シチリアの晩禱(あるいはシチリアの晩鐘)と呼ばれる事件です。

ちなみにこのシチリアの晩禱、英語では何というかわかりますか?
正解は、 Sicilian Vespers です。vesperも「夕べの祈り」を意味する語です(イタリア語ではVespri siciliani)。


アラゴン王ペーロ3世と家臣団

「両」シチリアの誕生

このシチリアの晩禱で、6週間のうちに1万3000人ものフランス人が、島民らにより殺戮に遭ったといいます。
しかし、当時の教皇マルティヌス4世は島民らの破門を宣告し、
またシャルル・ダンジューの反撃もあって鎮圧は時間の問題かに思われました。
ところが、シチリアの島民に要請を受け、
イベリア半島東部のアラゴン王国の国王ペーロ3世(ペドロ3世:位1276~85)が軍を率いてシチリア島に上陸したのです。
これにより、シチリアの晩禱戦争と呼ばれる一連の戦争が始まります。
結果、シチリア島はアラゴン王国の支配下に置かれ、
ペーロ3世はシチリア王として即位することになります(1285)。

ところが、シャルル・ダンジューは拠点を南イタリアに遷し、
シチリアの再征服を目論みます。
このシャルル・ダンジューが保持した南イタリアの政権はナポリ王国と通称されることが多いです。

しかし、「ナポリ王国」という国名はあくまで通称であり、
この国の正式名称は「シチリア王国」です。
一方、シチリア島はシチリア王国という政体を保ったまま、アラゴンやカタルーニャを中心とする同君連合体(アラゴン連合王国)に参加します。
これにより、ようやくタイトル回収ですが、
シチリア王国がこの地上に2つ存在することになってしまったのです。


14世紀の中欧およびイタリア

ややこしいことに、
南イタリアの「シチリア王国」(ナポリ王国)はそのまま呼ばれたのに対し、
シチリア島の「シチリア王国」の方はその王国に使用された紋章から「トリナクリア王国」と通称されます。


シチリア島の紋章、トリナクリア

いずれにせよ、2つのシチリア王国がこの世に併存していることに変わりはありませんが、これは長続きするものではありませんでした。
15世紀半ばに、アラゴン王アルフォンソ5世がナポリ王国を征服し、これによりナポリとシチリアはいずれもアラゴン王国の支配下に入りました。
これは、1479年にスペイン王国が成立してからも同様で、これによりスペインは南イタリアにも勢力を保ち続づけることになります。


初代両シチリア王フェルディナンド1世

2.両シチリアのその後


スペインの支配下に入ってからも、
ナポリ王国とシチリア王国という枠が外れることはなく、名目上は両者は別個の国家として扱われ続けました(18世紀には一時的にオーストリア領になります)。

これに変化が生じたのが、ナポレオン・ボナパルトによるヨーロッパ征服です。シチリア王国は辛くもナポレオンの征服を免れましたが、ナポリ王国はフランスの衛星国としてその間接支配下に置かれます。

ナポレオンの没落後にウィーン体制が発足すると、ナポリとシチリアでも復権の動きが見られました。
しかし、このときナポリとシチリアを統合し、スペイン系ブルボン家の王家による単一の王国として再生されることになります。
これが、両シチリア王国の成立です。
したがって、歴史上で両シチリア王国と言えば、厳密にはウィーン体制で発足したこの国家のことを指します

最終的にこの両シチリア王国は、イタリアにおけるナショナリズムの高まり、すなわち統一運動(リソルジメント)の進展により、
1860~61年にガリバルディらによりサルデーニャ王国に占領され、統一イタリア王国の一部となります。

イタリアの統一は南イタリアにとって必ずしも歓迎できるものではありませんでした。
とりわけ工業化の進む北部との経済格差が顕著になると、次第に相対的に貧しい南部出身者が移民として国外に流出します。
そのイタリア移民たちの移住先のひとつが、言うまでもなくアメリカだったのです。

さて、シチリアを中心とする南イタリアは、これまで見てきたように歴史的に様々な支配者の支配を受けてきました。
ノルマン人、フランス人、スペイン人……挙げればきりがありませんが、
とりわけ外国人の支配を受けその圧政を経験したことから、
南イタリア人は政府そのものに信頼を置いていない
と言います。
言うなれば、伝統的に政府に反抗する文化的な素地が形作られていったものと見られます。

移民の多くが貧困層であったこと、そして権威に対する反骨の精神は、
アメリカに渡っても保ち続けられます。
こうして、イタリア系による互助組織が形成され、とりわけこれらは組織的な犯罪行為に手を出すものも少なくありませんでした。
代表的な組織が「コーサ・ノストラ(我々のもの、の意)」と呼ばれたもので、これは一般に「マフィア」という言葉で知られています。
そもそもこの「マフィア」という言葉は、一説ではアラビア語起源であるとさえ言われます。かつてシチリア島がイスラーム勢力の支配下にあった名残が、はるかアメリカでも継承されているのです。

南イタリアの混迷と政情は、アメリカに渡った移民たちによるマフィアの母体になったと言えるのでしょう。


マフィアの「近代化」に尽力したラッキー・ルチアーノ(本名サルヴァトーレ・ルカーニア)のマグショット。彼がニューヨークマフィアの大ボスたちを一斉に粛清した事件もまた、「シチリアの晩禱」と呼ばれる。

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いかがでしたでしょうか。
今回はここまでです。最後までお読みいただき、ありがとうございました!


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