今日という日について
今日という日について書く。
今日という日は、というものは私にとっては記述された歴史そのものである。
即ち、この日を歴史的にどう位置付けるかについて政治的に解釈と実践を行うのは私自身である。※この日記は誰にも読まれない限りにおいて。
つまりは、ただのマッチポンプであり、マッチポンプの結果が未来に産まれるだけである。
未来の私は今の私と断絶しているので、つまりは代理母出産であると還元出来る。
代理母出産での主な人権的争点は、構造的搾取だ。
ここでの構造は、今日という日についてを産する場合、未来に仮託されたものを歴史として生産せざるを得ないということだ。
私は過去を反芻する度に過去の私に搾取をされる。代理母的に自らを通して過去という子を産み落とすことを強要されている。
過去の私に復讐することは出来ないだろうか?遡行して過去の私に出来事を仮託すること。
妥協点として、半過去、とりわけ習慣がある。
過去から持続する私。
半過去の世界では私は、半過去の私と同一であり、そこに仮託は存在し得ない。(=堅くも存在し得ない)
過去は無く、半過去(=習慣)を生きること、その中においてのみ今日の私は搾取を逃れて語ることが出来るのである。
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