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性癖の発露について

おはこんハロチャオ〜。マンチーニです。

性欲に由来するものを、そうでないと否認したことはありませんか。あるいはそもそもそのことに気付いていなかったり、深く考えたこともなかった、そういった場合もあるでしょう。

アイドルや架空のキャラクターを「推す」とき、その「推し」行為は無謬とされ、善いもののされ、むしろ賞賛されたり推奨されたりするべき行為のように扱われることがあります。
そしてときには、それは侵犯されざる個々人の内面の神聖不可触の部分の発露である(ゆえに「尊重するべき」とされる)かのように扱われてすらいます。
みなさんはそういった光景に見覚えはないでしょうか。

そのコミュニティの内部に留まらず、今日の日常的な言説の空間を取り巻く全体的な雰囲気として(この話題に特筆すべき「今日性」があるのかどうかはさておくとしても)、他者の盛衰に自分の実存をそのまま委ねて一喜一憂するような、言ってしまえば「擬似的な生の仕方」にすぎない行為が、過度に称揚されてはいないでしょうか。
スポーツのファンについても、同様のことが言えるかもしれません。ギャンブルについてもまた似たような側面があるでしょう。
ウンベルト・エーコはかつて、今日のスポーツを成り立たせるものは「他の人たちの行っているスポーツを言説として観ることを云々する言説についての言説」と指摘しました。去年の盆休みにナポリの路面電車でエーコと相席したときに話したのですが、彼の最近の関心はソクラテスの著作の現代語的な翻訳にあるとのことです。

アイドルにしても架空のキャラクターにしても、あるいはYouTuber、芸人、ラッパー、棋士、マスコットキャラクター、作家そのもの、つぶやきが面白いフォロー150人フォロワー800人くらいのツイッターアカウント、ちいかわ……
それらの他者を「推す」ことを「応援」と言えば聞こえがいいですね。「応援」にもどこかイノセントな善、無謬な響きがあります。

そんなあなたの「推し」という行為を解体したとき、そこに性的な「萌え」だの「好き」だのや、ひいては「セックスしたい」、そこまでいかなくとも、「性的ななにかを共有したい」「性的な部分を覗き見したい」という気持ちを発見することは、ないと言えるでしょうか。
あなたが身体的にも精神的にも男性で、女性のアイドルを「推し」ていた経験があるとして、そのアイドルとデートをしたり、仲の良い友人グループの中にそのアイドルもいて一緒に遊んだり、クラスの同級生にそのアイドルがいて放課後に何気ない会話したりといった、そんな妄想をしたことは一度たりともないでしょうか。
あるいは、その「推し」の対象が男女別の性だったら。あなたは「推し」ていたでしょうか。

ところで、性欲そのものは無謬です。
善くも悪くもないです。
性欲がなにかの行動に結びついたとき、その行動が悪かったりすることは、それなりにありますね。

ただし、あなたの「推し」という行為が性欲に由来していたことを発見したのなら、それをそうであると、少なくとも自覚はしておくことが、分別のある態度ではないでしょうか。

仮にわたしがふたなり淫紋ガールが好きではあるが、男の娘のことは蛇蝎のごとく嫌っていたとて、それをところ構わず大っぴらに公言するのは公序良俗に反するというか、「常識がない人」「節操がない人」「性欲まるだしのやばい人」「みじめであわれなドカピカ無職」と思われても仕方のないことです。
自分の性癖を積極的に開陳することは、「わたしはまず性欲が強いうえに、こういった性癖の開陳という行為を恥じたり秘すべきとも思っておらず、それどころかそのような自分のあり様を誇りに思うし、この開陳行為それ自体もひとつの自己表現として、多様性尊重のこの時代に位置付けられるものである」という、なんとも開チンな記号的意味を持つのです。


あなたはなにかを推すことを公表することで、あなたのオスの部分をも公表しているのかもしれません。
この分析がお気に召すかどうかはわかりませんが、わたしなりにメスを入れてみた次第です。


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