敗北者に同情するな

ネット上では、さまざまな競争に敗れた者たちの言説を目にすることができる。それは大学入試だったり、就職活動だったり、セックスパートナーの獲得だったりするのだが、何にせよ競争はその敗北者にとって残酷だ。

すべての競争は不公平である。競争の勝敗を決めるルールは常に何らかの人々を排除するためだ(万人を優しく包み込むルールはルールでないか、無意味である)。
しかしそれだけではない。競争は、それが競争であるというだけで、必然的に特定の傾向をもつ。参加者が自らをルール(あるいは審判者)の前にさらけ出し、その裁きを待たねばならないということである。
ところが、その能力は万人に与えられていない。審判者の前に進み出ることも、そこで自らの価格を引き上げようと努力することも、その巧拙とは別に、それ自体不可能であるような者がいる。ここでは、これを「落伍者」と呼ぶことにしよう。それは例えば私である。私などは競争以前の段階、つまり競争の条件を満たさないため、競争に参加することができない。つまり、前競争的な競争において、すでに敗北しているのである。

ここまではいい。端的な事実であって、それ以上のことを導かない。
しかし、競争をイデオロギー的に美化する段になって、話は変わってくる。競争が万人を受け入れることを前提とし、競争の不参加者を勇敢な敗北者ではない、自由意志に基づいた堕落と見なすような、そんなイデオロギーである。ネオリベ的自己責任論がその一つなのは言うまでもないが、現代のリベラリズムもまたそうした態度に支えられている。競争は公正化することが(とても簡単に)でき、それが実現しさえすれば勝者と敗者を分けることは正当化され、不参加者にも落伍のレッテルを貼るべきとするような思想的傾向である。
履歴書に性別を書かないとか、顔写真を見せないとか、そういったことをすれば競争の公平性が担保されるだろうか。されない。二つの理由がある。一つは、そうした性的事実は不公平の原因のごく一部にすぎず、それのみをことさら槍玉に上げるのはその他の原因を埋却しかねない(そして実際にしている)という直接的な反論であり、可能な限り競争を公平化しようとする立場からのものである。もう一つは、私の立場、すなわちあらゆる競争は初めから差別的な参加制限を設けているのであり、競争それ自信が内容如何を問わず不公平である、というものだ。そこでは競争の健全化などは全く目指されず、社会の健全を望むのであれば、競争からの脱却か不公平の容認かを迫ることだけがなされるだろう。

こんな愚痴めいた文章を書きたくなってしまうのは、競争に参加を表明していない人間までもがその動力学の内部に位置付けられるような不愉快極まりない競争が、社会においてありふれているように思われるからである。
受験競争や就職競争、セックスパートナー獲得競争、あるいは金儲けを考えればよい。こうした競争に参加しないこと(あるいは参加者として見なされているのに勝とうとしないこと)は、一般に差別的待遇の正当な理由とされる。人々は落伍者を、競争相手でさえないのに放ってはおかず、でっち上げの道徳もどきを並べ立てて攻撃することが許されるのである。
そして、この光景を見ればいい。彼方まで続くようなこの差別者の列には、驚くほど多くの敗北者が並んでいるではないか。常在戦場の競争社会で黒星を挙げ続けてやまない、あの敗北者たちである。
私が戦いに参加しなかったことで落伍者との謗りを受けるとして、それならば私は競争の敗北者たちと親しむべきだろうか。決してそうではない。かれらは私に同情しないし、そればかりか、好きあらば私を被差別者に貶める「道徳」を思い巡らせているからである。

もし、私以外にも落伍者がいるならば、その人に言いたい。敗北者に同情するな。所詮かれらは勝ち組だ。かれらにとってその勝利は些末なものかもしれないが、我々には未だかつて勝ち取られたことのない一勝である。そこに仲間はいない。我らは未だ、泥の中なのだ。

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