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「ウザい」vs 「すごいよ」

 
多くの人は幼い頃、自己肯定感に満ちていました。
善良な親や親戚や大人たちが、「かわいいねぇ」「かっこいいよ」「よくできたね」「すごいよ」と、いろいろな言葉で肯定してくれてました。自分は周りに愛されていると思っていたでしょう。

自分と同年代と過ごす時間が長くなると状況は変わります。
周りは否定してきます。「ちがうよ」「そうじゃないよ」「ばーか」「へんなの」
肯定されるより否定される機会の方が多くなります。

小さな心の中が、うごめいて歪んでいきます。
学校に行く頃には「ウザい」「キモい」「は?死ね」「ワケわかんね」と、自分も口癖になり、口癖が自分の思考まで支配します。そうなってしまう人も多いでしょう。


ルソーは、15歳位までは自然の中で過ごし、その後に社会に出るべきだと言いました。
動物の世界でもある、善良な親に育てられた自然の中では自己肯定感が育まれ、心の奥底の自己愛が育ちます。
自分を否定する社会の中で、表面的な精神を整えていきます。
ルソーがどういう意味でそう言ったか忘れましたが、教育論では子供の頃に「社会性を育てる」って当たり前には言ってますが、ものすごく危険な香りもすると思ってしまいます。


自然な善良な親とは限りません。社会に毒された社会の代表である親もいる
でしょう。
幼い頃に親によって自己否定を育くまれた人は、社会に出る前から自然愛が芽生えていません。
否定してくる社会と同じ思考である限り、自己否定の世界に居続けるでしょう。

そのまま、鏡の自分に向かって自然の善良な親のフリして「よくできたね」「すごいよ」と言っても、もっと歪んでくるかもしれません。
逆に自己否定して自分を「ウザい」「ワケわかんね」とするのは、社会の頭が悪い子どものフリしているに過ぎません。

こうなってしまったら、自然の人でも社会の人でも、どちらでもないのかもしれません。
肯定と否定を超えたことなのでしょう。
それをどう言葉で表現するかはまだ分りません。
ニーチェが超人と表現したのは、これとは違うのでしょうか。
生きる意味の虚無感から、自ら価値を創造するのだから、近いかもしれません。
いずれにせよ、自然と社会と別の世界という概念ではなく、大いなる自然の中の1部の社会でしかない舞台を超えたところが立ち位置でしょう。

余談ですが、多くの哲学者は分析する切り口は納得して記憶に残るのですが、帰結が腑に落ちず記憶に残りません。
などと、記憶力の弱さの言い訳にしときます。

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