94冊目:暇と退屈の倫理学
新幹線のお供に買ったつもりが、前半戦は読むのに苦労し、後半やっと理解が追いついてきて面白くなってきた本。
倫理学系の本は読んだことがなかったけど、最終的に結論があるわけでもなく、読みながら考察の過程を一緒に楽しめる体験型アクティビティみたいだった。たまにはいい。
好きなこととは何か。
最終的には暇と退屈を定義し考察していく本書も、前半は「好きなこと」とは何かという比較的入りやすい考えで始まる。
そしてこの「そもそも論」。そもそも人は好きなこと(暇があればやりたいこと)など持っていないのではないか。だけど、やりたいことがない事はつまり暇を持て余す(退屈する)ことになる。そして人は退屈を嫌う。
この本は暇や退屈にどう向き合うかを問う。
惨めな人間
人は退屈を嫌う。そして、この退屈を避けるために、あえて苦しみや不幸を求める。退屈を凌ぐものは、仕事でも趣味でもなんでもいい。汗水垂らして車を使わずに、あえて山を登るでもいい。退屈に変わる気晴らしならなんだっていい。つまり退屈は「自由」を意味する。
環世界
本書の中で1番納得した概念が環世界だった。人は環世界を簡単に行き来する。環世界の定義は本書から引用。
つまり、同じ世界を見ていると思っていても、子供と大人が見る世界は違っているし、そこに同じように存在しているかもしれないダニや虫は違うものを見ている。または目がなくて見ていない、触覚や嗅覚で何かを感じているだけかもしれない。
「環境」が同じでも、同じものを「経験」しているわけではない。それぞれが別の環世界の中を生きている。人以外の動物にはこの環世界の行き来は不可能またはかなり難しいものになる。一方、人間は共感することも、視点を変えることも容易にする。
教育について
最後に教育について。
人が環世界の行き来をすることは、他人の視点を取り入れて世界を広げることになる。世界を広げると視野が広がり、物事をより深く楽しめるようになる。しかし、物事を楽しむことは容易ではない。そこには訓練が必要になる。そして訓練を積むことは退屈からの脱却にもなる。しかしそれは、楽しいものを与えられ、それを楽しむための教育が与えられ、資本主義がそこにつけ込む社会の奴隷に過ぎないかもしれない。
本書には結論は特にない。「なるほど」と納得しては、それを覆す反論がされる。けど、退屈について考えるその時間が既に「退屈から逃れるための気晴らし」になったのでまぁよし。
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