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94冊目:暇と退屈の倫理学

新幹線のお供に買ったつもりが、前半戦は読むのに苦労し、後半やっと理解が追いついてきて面白くなってきた本。
倫理学系の本は読んだことがなかったけど、最終的に結論があるわけでもなく、読みながら考察の過程を一緒に楽しめる体験型アクティビティみたいだった。たまにはいい。


好きなこととは何か。

最終的には暇と退屈を定義し考察していく本書も、前半は「好きなこと」とは何かという比較的入りやすい考えで始まる。

私たちの「好きなこと」は、生産者が生産者の都合のよいように、広告やその他手段によって作り出されているかもしれない。

本書より

そしてこの「そもそも論」。そもそも人は好きなこと(暇があればやりたいこと)など持っていないのではないか。だけど、やりたいことがない事はつまり暇を持て余す(退屈する)ことになる。そして人は退屈を嫌う。

暇を得た人々は、その暇をどう使ってよいのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことが何なのか分からない。そこに資本主義がつけ込む。文化産業が、既成の楽しみ、産業に都合のよい楽しみを人々に提供する。

本書より

この本は暇や退屈にどう向き合うかを問う。

惨めな人間

人は退屈を嫌う。そして、この退屈を避けるために、あえて苦しみや不幸を求める。退屈を凌ぐものは、仕事でも趣味でもなんでもいい。汗水垂らして車を使わずに、あえて山を登るでもいい。退屈に変わる気晴らしならなんだっていい。つまり退屈は「自由」を意味する。

コジェーヴはアメリカの大量生産・大量消費社会のことを思い描いている。そこには我慢がない。望むものがすべて与えられる。しかも必要以上に与えられる。彼らには幸福を探求する必要がなく、ただ満足を持続している。

本書より

環世界

本書の中で1番納得した概念が環世界だった。人は環世界を簡単に行き来する。環世界の定義は本書から引用。

人間の頭のなかで、抽象的に作り上げられた、客観的な「世界」なるものではなく、それぞれの生物が、一個の主体として経験している、具体的な世界のことだ。

本書より

つまり、同じ世界を見ていると思っていても、子供と大人が見る世界は違っているし、そこに同じように存在しているかもしれないダニや虫は違うものを見ている。または目がなくて見ていない、触覚や嗅覚で何かを感じているだけかもしれない。

「環境」が同じでも、同じものを「経験」しているわけではない。それぞれが別の環世界の中を生きている。人以外の動物にはこの環世界の行き来は不可能またはかなり難しいものになる。一方、人間は共感することも、視点を変えることも容易にする。

教育について

最後に教育について。

「教育は以前、多分に楽しむ能力を訓練することだと考えられていた」。

本書より

人が環世界の行き来をすることは、他人の視点を取り入れて世界を広げることになる。世界を広げると視野が広がり、物事をより深く楽しめるようになる。しかし、物事を楽しむことは容易ではない。そこには訓練が必要になる。そして訓練を積むことは退屈からの脱却にもなる。しかしそれは、楽しいものを与えられ、それを楽しむための教育が与えられ、資本主義がそこにつけ込む社会の奴隷に過ぎないかもしれない。

本書には結論は特にない。「なるほど」と納得しては、それを覆す反論がされる。けど、退屈について考えるその時間が既に「退屈から逃れるための気晴らし」になったのでまぁよし。

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