私は幼い頃から蟻が嫌いでした。
小さく蠢く、黒光りする粒を見ると鳥肌が立ち、それは本当に不愉快なものでした。
地に落ちた甘い菓子に群がり、生き絶えた虫の骸を運び、暗闇の虚へと誘う様が、私は不気味でたまりませんでした。

ある年の夏のはじめ頃の事です。私は小学校から歩いて一人で帰っていました。私が暮らしていた田舎町はどこもかしこも田畑があるばかりで、畦道には雑草が青々と茂っていました。
少し涼しさは残るが日差しは強く、日陰なども近くにはありませんでした。
家までの道を半分過ぎた時、私は俯きながら何気なく地面を眺めていました。もちろんこれは何かを探していたのではなく、日差しが眩しいので上を見る事ができなかっただけなのですが、そこで私は一匹の蟻を見つけてしまったのです。
その蟻には羽が生えていました。
ただでさえ気味の悪い蟻に、薄く透けた羽がついていて、その癖飛ぶ訳でもなくノソノソと地面を這いつくばるばかりなのです。
私は今まで感じた事がない程の不快感に苛まれました。怒りとも恐怖とも言えない不愉快さが胸を掻きむしり、私の体は熱くも冷たくもなくなっていました。
そして私は一歩分だけ足を伸ばして
『ぷちっ』
と羽つきの蟻を潰したのです。
蟻が潰れた姿は醜いものでしたが、私は今までにない感傷に浸っていました。
爽やかで心が静かになる感覚を人生で初めて、蟻を潰して感じたのです。

それからというもの、私は蟻を見かけては、その足で何匹も何匹も潰していきました。
『ぷちり』
『ぷちり』
『ぷちり』
何度も何度も踏みました。
蟻を踏む度に私の心は晴れやかな気持ちになり、軽くなった足取りでまた潰すのです。
それ以降、私の心から不安や不快感は全く無くなりました。

それから何年も経ちました。
私は地元の企業に勤めて汗水流して働くようになったのですが、労働環境は悪く、賃金は安い。何より上司からのパワハラは酷いもので不愉快な事ばかりでした。鬱屈とした感情だけが頭の中を巡り、私に楽しみを感じる時などは一切無くなってしまいました。

夏も近づいたある日。この日は人も少なく、作業もいつもより少ないので、残業せずに帰る事ができそうでした。蒸し暑い職場から直ぐにでも出たい気持ちでその日は頑張りました。
定時も近づきやっと解放されると思って仕事を纏めていると、上司が仕事を押し付けて来ました。
その仕事の担当は私ではありませんし、本来なら明日から始めるはずのものでした。嫌がらせ目的でやっているのは見え透いていましたし、先の理由を伝えて帰ろうとしました。
が、私は思い切り殴られていました。
それは本当に不愉快なものでした。
上司は私に罵詈雑言を浴びせて、優越感にでも浸ったような表情をしていました。
その顔が私は不気味でたまりませんでした。

ふと、上司の顔に一匹の蟻がいる事に気がつきました。羽がついた黒い蟻です。
私が上司に対して思った感覚は、まさにあの時羽付きの蟻を見た時と全く同じものでした。

潰さないといけない。
あんな気持ち悪い物は潰してしまえ。
怒りでも恐怖でもない感情が私を支配しました。
私は拳で蟻を潰しました。
しかし『ぷちっ』という音はなりません。
上司の顔には更に蟻が集っていました。
だから今度こそ、念入りに潰す為に、足で蟻どもを踏み潰しました。
それでもやはり『ぷちり』『ぷちり』と潰した音はせず、上司の顔の穴という穴、虚という虚から沢山の蟻が這い出て来たのでした。

気持ち悪い。
不愉快だ。
だから、何度も何度も踏みつけました。
一匹残さず潰そうと、何度も、何度も。
気づけば上司の顔は蟻達に覆い尽くされて、黒く光りながら蠢いていました。
私は気持ちが悪くなってその場から走って離れました。
ただ、それは大きな間違いでした。
街ゆく人々が、周囲にいる誰もが、蟻に顔面を覆われていました。黒い粒が蠢く顔で皆が私を見るのです。

私は片っ端から蟻を潰していきました。
潰れる音が聞こえるように、何度も何度も蟻を潰して回りました。
『ぷちり』
『ぷちり』
『ぷちり』
それでも、何度潰しても、潰れる音はしませんでした。

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