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仕事場がソンクローニ族の集落だとしたときにコーギは何か?~小川哲、『ゲームの王国』

『ゲームの王国』という小説を読んだ。ポルポト政権下のカンボジアを舞台にしたSFで、ムイタックという天才少年が脳科学を駆使したゲームを作り上げていく話だ。
「書きたいものを楽しんで書いた」という筆者の言葉通り、輪ゴムと意思疎通ができる少年や、綱引きの神髄を究めた男など、変なキャラが色々出てきて楽しい。
そんな騒がしさを含みつつも、作中の一貫したテーマとして「ゲーム」と「ルール」が扱われている。

作中、教授のたとえ話としてモーリタニアのソンクローニ族という架空の民族が出てくる。その民族はトゥクラン・ヤンハブ・コーギという3つの"掟"に従って共同体生活を行っている。

トゥクランは禁止事項を定めた掟だ。「嘘をつかない」「割れた壺を放置しない」のようなものだ。
反対に、ヤンハブは奨励事項を定めている。「壊れかけた家を直す」「病気の家畜を見つける」がヤンハブの例だ。
それでは、コーギは?

【余談】
創作の中での「ルール」の扱いは色々と面白いものが多い。
ヴィネガットの『猫のゆりかご』では「どんなに小さい違反行為であっても例外なく重大な罰則を与えることで、シンプルに秩序を維持する」という社会が描かれた。
映画では『未来世紀ブラジル』は複雑膨大なルールと書類で運営される超管理社会を描いているし、『es(エス)』は単純な「看守-囚人ルール」を与えるだけで人間はどこまで残酷になれるかを表現している。
不可解なルールを理解し、答えを見つけるというテーマでは、架空の企業の採用面接を扱った『エグザム』がある。これは映画版リアル脱出ゲームだ。

やってはいけないことを定めたトゥクランが79個あり、やるべきことを定めたヤンハブが31個あるのに対し、コーギは1個しかない。

それは「掟を守るために最善を尽くすこと」というだけの取り決めだ。この15文字の文章を一人一人のソンクローニ族が信仰しているからこそ、トゥクランやヤンハブが意味を持つ。

コーギは「ルールに従うこと」という誘因でありパワーだ。作中で教授は以下のように語る。

トゥクラン(罰則)はゲームのルールで、ヤンハブ(奨励)はゲームの勝利条件だ。そしてコーギによって部落の全員がそのゲームに参加することを義務付けられている

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以上は架空の民族の話だが、ここでオフィスの風景を思い出してみてほしい。
もしかしたら、我々はトゥクランやヤンハブを作ったり調整したりすることが大好きなのではないか?

何をするべきで、何をしてはいけなくて、何をめざすべきで、という会話で、「インセンティブ」や「現場課題」や「型化」や「ベストプラクティス」のように表現を色々と変えながら、トゥクランやヤンハブのリストを何度も何度も我々は見直している気がする。

割れた壺を放置するのはいけない。それならとがった石を見つけて、道のわきにどけないのも罰するべきだ。疫病の家畜を見つけることは偉い。しかし疫病を引き起こさないことが一番偉い。エトセトラエトセトラ

”完璧な”トゥクランとヤンハブのリストを作る中で、時々すっぽり見過ごされがちなことがある。

コーギは?

別の言い方をするならば「トゥクランやヤンハブを作ったとして、皆をそれに従わせるための誘因として何が用意できているだろうか?」という問いだ。

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察しが付く通り、コーギを明確に定めることは難しい。というより原理的に不可能だ。
コーギは「ルールに従わせる」ことが目的であり、その性質ゆえに明確な”ルール”の形で提示できない。「ルールに従わせるためのルール」を作ったところで、次は「ルールに従わせるためのルールに従わせるためのルール」が必要になっていくだけだ。この堂々巡りは終わらない。

●ルールを作ったところで、皆がそれに従わなければ意味がない
●「ルールに従うこと」というルールを定めることに意味はない

この困難に行き当たったところで――

何度も何度も使い古されてきて、
手あかがつきまくっているようで、
時には冷めた目で見られたり陳腐に聞こえたりする、
それでも絶対に捨てることができない本質で、
でも分かったり分からなかったりする、
”あの”概念が出てくる。

モチベーションだ。

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モチベーションには個人レベルのモチベーションと組織レベルのモチベーションがある。
前者は「自分のやる気を上げる」ために成される様々な取り組みだ。パフュームのライブDVDを見る人もいれば経営者の自伝を読む人もいる。朝早く起きるだけでモチベが上がる人もいる。究極の個別最適の世界なので、いわゆる「モチベーション理論」はここではあんまり役に立たないんじゃないかという気がする。

【余談】
自分はモチベーションを保つためにロッキーの最終シーンを見てガチ泣きすることをしていた時期がある。その時に繰り返し見すぎて、同じシーンを見てももはやあんまり泣けなくなってきたことが悩みである

対して、組織的なモチベーションは「組織の取り決め・ルール・目指したい戦術に、どうやって皆を巻き込んでいくか」というテーマだ。コーギそのものだ。相手が個人個人じゃなくて何十人、何百人というレベルであるからこそ、ここではモチベーション理論が最大限役に立つはずだ。

この「個人レベルのモチベーション」と「組織レベルのモチベーション」を混同させてしまうと、一気にモチベーションという概念そのものが胡散臭い響きを持ち出す気がしている。たとえば、以下のような議論が始まる。
「ハーバードの研究者がモチベーションについて書いている論文を読んでみたけど、どうも自分にはピンとこなかった」
「経営者の自伝を部署で輪読してみたところで、モチベーションが上がる気がしない」

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モチベーション理論には「~~のために頑張る」という、目的地的なモチベーション要素を定めたものと、「~~だから頑張れる」という、装備的なモチベーション要素を定めたものの2種類がある。自分の知る限り、「目的地的」で分かりやすいのはニティン・ノーリアの欲動理論。「装備的」でわかりやすいのはダニエル・ピンクのドライブ理論だ。

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ダニエル・ピンクは講談社の『モチベーション3.0』、ニティン・ノーリアはダイヤモンド社の『動機づける力』にそれぞれ詳しく書いてあり、ネット上にも紹介記事が出ていたりする。(どっちの本もすごく面白い!)
ので、ここでは誤解を恐れずものすごくざっくりと要約する

ダニエルピンクのドライブ理論(モチベーション3.0)
持続するやる気を引き出す条件は大きく以下の3つ
✓自律性:強く束縛されず、自分の意志と選択を活かせる
✓目的との接続:何のために?何の意義があるか?の腹落ち
✓熟達:この仕事で成長できるという確信、成長したという実感
ニティン・ノーリアの欲動理論(動機づける力)
人間を突き動かす動機は大きく以下の4つ
✓絆の欲動:人と繋がりたい。認められたい
✓防御の欲動:身体的・精神的なストレスを避けたい
✓獲得の欲動:名声や物質、金銭を得たい
✓理解の欲動:物事を把握し、理解したい

3つの装備的要素と4つの目的地的要素が出そろった。
この組み合わせでゴリゴリとコーギを形作っていくことはできないだろうか?
「どうすればやる気がでるかね?」というナイーブな議論ではなくて、「『トゥクランやヤンハブに定められた事項を守る』ということは7つの要素それぞれとどう関りを持つのだろうか?」という枠組みで考えてみるやり方だ。
その上で、7つの要素のそれぞれを付加したり強化したり、という調整ができるのであれば、それがコーギになっていくんじゃないだろうか

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具体的な例を考えれば、きちんとストーリーづけられた表彰制度というのは有効なコーギとして働くと思っている。
「事業としてこれをやってほしい・これはやらないでほしい」と定めた内容に対する個人の遂行度合いを見て、きちんと達成した個人を広く称賛することは、個人にとって欲動理論の「獲得」を満たすかもしれない。そこで表彰されることが組織の中で広い意味を持つのであれば「絆」も満たされるだろう。
同時に、個人の取り組みや進捗をきちんとウォッチし、適正に評価することは、個人にとって成長実感が感じられやすい環境ともいえる。それはドライブ理論の「熟達」を満たす。大前提、ドライブ理論の「目的」を満たすために、ヤンハブとトゥクランの背景にある根本思想のメッセージングも欠かせない。

他にも、最近少しはやりつつある「ピア・ボーナス」という仕組み(従業員どうしで「ありがとう」の意味を込めて、お世話になったメンバーに少額のポイントを送り合えるような仕組み)は、現場における「絆の欲動」を刺激するものであるかもしれない。例えばそれを、現場の取り組みだけではなくトゥクランやヤンハブと関連付けることができたら?

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金銭的なインセンティブというのは7つの要素のうち、獲得の欲動という1つだけをカバーしたものに過ぎない。しかも、投下した時間と受け取った金額を比較してみると、ちょっと冷静になるような瞬間も往々にしてある。
同時に、できていないことを叱責するような手段は、「できる限りストレスを避けたい」という防御の欲動を利用するやり方だ。他のものを失ってしまわないか。
などなど、7つの要素の調整でコーギを考え、組み立てていくことは、「操作できる要素」というスコープと、「操作できる余地」という自由度がちょうどいいような気がしている。

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と、色々と考えてきたが、もしかしたら組織的なコーギなんて実は存在し得なくて、本当は個人個人のレベルでのモチベーションの積み上げでしかないのかもしれない、とか。
組織的なコーギは存在しうるが、それをゴチャゴチャした理論や制度設計で語ろうとするのはスタート地点から筋が悪くて、カリスマが一人いればそれでOKなのかもしれない、とか。何とも言えない部分はそりゃ多い。

せめて、トゥクランやヤンハブを考えているときに、頭のどこかに「で、コーギは?」を置いておけるようでありたい。

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