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人間について-トゥルーノース

最近観た中で最も衝撃を受けた映画について書き留めておこうと思う。日本とインドネシアの合作による3Dアニメーション映画、『トゥルーノース』だ。

北朝鮮の強制収容所を舞台としたこの映画、なんと制作には10年もの月日が費やされたという。それだけの熱量と、今この世界で起こっている事実を伝えようという強い意志を感じた。今もなお謎に包まれた国、北朝鮮。そんな国を題材にした映画というのだから見逃すわけにはいかない。

収容所から脱出した当事者がTEDで自身のことを語るシーンから始まるこの映画。この語り手に注目しておきたい。私自身、この語り手について映画のクライマックスで衝撃を受けた。映画に関する記事を書くときはいつもはネタバレも気にせず書いてしまうのだが、今回ばかりは伏せておきたい。

鑑賞を終えて様々なことを考えた。『トゥルーノース』という映画そのもの、舞台となった北朝鮮という国についても考えたが、それよりもこの映画を通して”人間”というものについて改めて考えたことがあるので書き留めておきたいと思う。

私はここ数年戦争や強制収容所を題材とした作品を多く観たり読んだりしている。漠然と第二次世界大戦というものに興味をもち、ナチスによるユダヤ人の収容所や、日本軍による朝鮮人の収容所を舞台とした作品にふれてきた。なので、『トゥルーノース』で描かれている内容については、たいていのことはよくあることだなという印象だった。収容した人々をまるで家畜のように扱う看守、極限状態に陥った人間たちの醜いいざこざ、看守に媚びて他の収容者よりも優位に立とうとする収容者、強姦に遭う女性収容者。

他の作品でもよく見た光景だと思うが、どの作品も何かを模倣してつくられたわけではない。みな誰かの証言や何らかの記録を元にしている。すべてこの世界の異なる場所で起きたことなのである。

こういった作品ではよく見る光景ということは、理性を失い極限状態に陥った人間がとる行動は本能的な部分でみな同じということになる。国や地域に関係なく、どのようなバックグラウンドをもっているかに関係なく、自分より下等とみなした存在にとる行動は同じなのだ。

国民性なんてものは幻想にすぎないのではないかと、私は考えた。「○○人はこういう人!」だとか「△△人はこういう場面ではこういう行動をする!」だとか、巷にそういった類の話題は溢れている。私もそのようなことを信じていた時期もあったが、実際に海外に出たことでそう簡単に人間をカテゴライズできるものではないと感じたし、『トゥルーノース』を観たことでその考えがさらに確固たるものになった。

国民性という概念は理想像の後付けに過ぎない。人間の本能は人種に関わらず、”人間”であればその根っこは同じなのだと思う。

このことについてしばらく考えていると、私はとある結論にたどり着いた。人間とは「ペットボトルのようなもの」だという例えだ。

空っぽの無色透明なペットボトルがある。形が様々なのは、肌や髪、目の色の違いだとする。そこに人種というラベルが巻かれ、思想や思考、経験や理性といった液体が注がれる。これが”人間”である。

多種多様でみな違う存在に見えて、本能的な部分、その根っこはみな同じなのである。中身を空にして人種というラベルを剥がせば、ただのペットボトルに過ぎないのだ。

世界史を見ても現代社会を見ても、この世界はどうも欧米人優位に動いているように感じる。殊にアメリカと西ヨーロッパ諸国だ。肌の色、顔つき等を揶揄するような人種差別は今でも後を絶たない。私も実際にヨーロッパで遭ったことがある。当人たちはその気はなくとも、どこかバカにされたような悲しい気分になる。

しかしながら、人種に優劣はないのだ。どこに住んでいようと、どの人種であろうと、理性を抜きにすればみな同じだ。

『トゥルーノース』は、そんなことに気づかされ、考えさせられた映画だった。

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