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日本のロックが世界に轟いた瞬間 ~グローバルで働く夢をくれた永遠のヒーロー

今でも年に数回、心が震える体験はあるけれど、あの頃ほどの感動はもうないかもしれない。2001年、世界は遠く、恐ろしさすら感じていた頃。言語、特に発音の壁は大きく、未だに日本のロックが海の向こうを越える機会は少ないが、それは今から18年前。世の中はドットコムバブルのニュースが踊り、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込む映像に震撼した時代。欧米でメジャーデビューし、アジア圏出身のバンドとして初めて数々の大舞台に立ったバンドがあった。僕は彼らの活躍に心酔し、だから世界と向き合う仕事に夢を持ち、実際に海外で働く機会を得ることができた。

1990年にビクターからメジャーデビューした「THE MAD CAPSULE MARKETS」(ザ・マッド・カプセル・マーケッツ、通称マッド)。僕が本当に狂ったように熱中したバンドであるが、1990年のデビューから活動休止の2006年まで楽曲そのものが進化を続けて、いわゆるジャンルでは括りにくいバンドである。ただ、根底にあるのは80年代のパンクロックやYMOであり、今では一般的な、パンク、メタル、ラップを融合し、更にシンセサイザーによる機械的で無機質なサウンドを組み合わせたミクスチャースタイルの礎は彼らによって築かれた。僕はその音楽に未来的なものを感じ、また世界の人も同じこと感じて欧米のロックシーンに浸透していく様をリアルタイムで見た、あの興奮が原体験として残る。

稚拙な表現であるが特に「ヤバい」のがMIDI SURF(1998年)。当時学生だった僕は深夜番組で初めて触れて衝撃を受けた。民放の番組で彼らを見かけるのは稀であったが、この曲が当時チョロQ付きのシングルCDで発売されたこともあり、オリコンシングルチャートの割と上位に食い込み露出も増えていた。しかし楽曲は万人受けするものではない。ただ、恐ろしくかっこいい。テレビで流れる数十秒では伝わりにくいが、がなるようなボーカルスタイルで曲調も轟音そのものなのにサビはキャッチーで、今まで見たことも聴いたこともない圧倒的な世界観が作り上げられていた。パンクの攻撃的なリズムの中に、随所にメロディーが隠れている。歌詞も日本語と英語の混合で、サウンドと一体化したボーカルスタイルが、発音の壁を全く気にさせない。またPV(プロモーションビデオ)も西海岸のストリートが舞台で、スピード感溢れる映像に引き込まれるものであった。CDの発売日も僕の誕生日と同じであり、運命を感じざるを得ない。

この絶妙なバランスこそがそれまでになく、世界中にファンを持つ彼らの音楽の普遍的な側面の一つと言える。また、バンドのスタイルがギターではなくベースにフィーチャーしている点も興味深い。メインコンポーザーの上田剛士がベーシストであるからではあるが、ギターソロは全く無いのに、ベースソロが幾つかの楽曲で見られる。ギターをかき消さんばかりの、金属音のようなベースサウンドも彼らを特徴づける。そこに合わさる機械のように正確なドラムとリズムに、日本人的な神経質さを感じ完成度を圧倒的に高めている。

上述の「MIDI SURF」は=ザ・マッド・カプセル・マーケッツと言える程の代表曲であるが、この曲が収録された「OSC-DIS」(1999年、海外は2001年)で世界を席巻し始める。欧米でのメジャーデビューを皮切りに、オジー・オズボーン創設によるイベントライブ「OZZ FEST UK」のメインステージに、日本人は愚かアジア圏出身のバンドとして初めて立った。イギリスのロック、メタル、パンクのファンが日本のサムライに拳を挙げ、シンガロングする様にテレビ越しで泪を流した。イギリスでの大きなライブハウスでのツアーもソールドアウトし、人種を越えたファンが熱狂している様は筆舌に尽くしがたい。英語への苦手意識や、欧米文化に対する憧れを、深層心理では持ち続けていたのだと思う。その劣等感にも似た感覚を見事に打破してくれた瞬間であったような気がする。背が高くルックス的にも華のある出で立ちで、本当に世界を制覇するかのような感覚すら持った。

当時、彼らの快進撃は凄まじく、僕の興奮が途切れることはなかった。当時のフジロックフェスティバル(2003年)の感想が残っている。

さて辺りはもう真っ暗だ。深まる闇に底なしの興奮。後は彼らを待つばかりだ。
突然、ステージがパッと明るくなり、会場に電子音のSEが響きだす! 押し寄せる客。負けじと前へ飛び出す。会場の興奮はすでに沸点へ! 熱い! 臭い、汗臭い! 「Oi Oi!」という煽りと共にマッド現る! 泥濘に足を取られながらも、ほぼ最前列へ。ステージが高いのでメンバーがよく見える。メンバーもしきりに煽る。そして降り出す雨。「INTRODUCTION」~「GAGA LIFE.」まで休憩無く演奏されたので気がつかなかったが、かなり大粒の雨が降り頻っていた。しかし、それをものともしないマッドの演奏。新曲も飛び出し、ほぼノンストップで飛ばしまくる。僕の前の男が運び出される。息が白い。ダイバーの靴の泥が顔に降りかかる。曲は終盤、「bit crusherrrr」に「PULSE」。雨が会場に幻想的な靄を描き出す。本当に夢のようだ。 
より強くなる雨の中、ライヴは「MIDI SURF」で幕を閉じた。
夜でも明るい会場は祭りの臨場感そのままだった。ライヴが終わっても楽しい気分のままでいられる。濡れたTシャツを脱ぎ、行きに着てきたTシャツをバッグから出し、背中を雨に濡らしながらそれに着替えた。レインコートを再び着て、グリーンステージに戻る道を歩き出す。

今振り返ると、全てが夢見心地だ。その後も彼らは「010」(2001年)、「CiSTm K0nFLiqT...」(2004年)と、日本のロックの方向付けをする名盤を世界に発信し続けた(以下の写真は彼らの海外盤)。いよいよ日本のチャートでも上位になり商業的な成功も実感していた。その間に、僕は仕事を始め海外と接点を持ち始めた。

だが、残念ながら2006年に活動休止をして今も復活の気配は無い。ただ多くの人生の指針を残してくれた。言語と発音は永遠の課題であるが、それを越える誰も見たことがない感動を僕はマッドのように作り出すことで世界で戦っていきたい。僕は音楽の才能は無いけれど、違うもので戦う。今でもあの頃の興奮に生かされている。今から18年前、グローバリゼーション黎明期に、世界に挑戦を仕掛けたバンドがいたことを皆さんに伝えたい。

最後に。活動休止後もメンバー各々、活躍の幅を広げている。上田剛士はBABYMETALの「ギミチョコ!!」をプロデュースし、再び世界を席巻した。
ちょうど20~30代のマッドの楽曲をリアルタイムで聴いていた世代が、今の音楽シーンの第一線で活躍し、たまにマッドの名前が彼らの口から出ると嬉しくて堪らない。


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